二章 5
幼い頃に父親を亡くし、母子家庭で育った私が唯一、心の拠り所にしていたのは母の存在だけだった。
異国人の母から生まれた私は、見た目はそれほど日本人とかけ離れているわけではなかったのだが、この珍しい名前も相まって、同級生の子たちに心無い言葉を言われることが多かった。
子供心ゆえの純真無垢さは時に残酷であると、私はよく知っている。遠慮や取り繕うことなど知らない子供の直接的な言葉は、私の心を何度もえぐった。
「どうして私に変な名前をつけたの?」
小学生の頃、そう聞いた時に母が見せたあの悲しそうな顔は、今でも忘れない。
母は占星術を趣味にしており、そうやって泣きつく私をよく占って慰めてくれた。
私は十月生まれの蠍座だ。蠍座の生まれは辛抱強い子だから、そんな事で心を折ってはいけない。どんなに辛くても、耐え抜いたその先には必ず活路が見出だせる、と。
私が泣きつく度に母は慰めてくれ、私の名前の由来を何度も話してくれた。私もそれに縋って、何度も母にせがんだ。
「小麦っていうのはね、育てる時に踏まれてしまうの。でもね、すぐに茎は立ち上がる。どれだけ踏まれても立ち上がって成長していくの」
「何回踏まれても?」
「うん。踏まれても踏まれても、何回も立ち上がる事が出来る。あなたと同じね。ホラ、もう泣き止んでる」
母はそう言って、私の頭を撫でてくれた。
「強い芯のある人になりなさい」
それが、いつも私にかけてくれる母の言葉だった。母は優しいだけじゃない、毅然とした凛々しさを併せ持った人だった。
母の教えを守り、「嫌なことは嫌だ」という態度を貫いていくと、みんな私への意地悪を辞めてくれるようになった。
しかしそれでも、十代になるとやがて意地悪は陰湿ないじめへと発展して苛烈さを増していき、やがて私はその辛さに、心を閉ざすことを選択していった。
他人と関わりを持たなければいい。そうすれば自分は傷付かなくて済むのだから。
自分が記憶を読み取る能力を持っていると気付いたのは、そうやって一人で過ごしていた時だった。
中学校の図書室で好きな本を読んでいた時、自分以外にもこの本を好んで借りている人がいるのだろうか、という事をふと考えた。
その時、いきなり目の前が一瞬真っ暗になったかと思うと、隣のクラスで見たことがあった一人の女子が、この同じ本を読んでいる光景を眺めていた。
それだけではない、本の内容を読んだ彼女がどのシーンで何を思い、どういう感情を抱いたかまでが、まるで自分が体験したことのように鮮明に感じた。
何度か同じような経験を繰り返し、それとなく周りに聞いても誰も似たような経験をしたことが無いと知るのだが、その頃には私は気味悪がられ、より一層孤独感は強まってしまった。
時々、そんな状況に我慢出来ずに耐えられなくなると、私は暴力的な衝動に駆られた。
頭の中でいじめてくる人物に暴力をふるい、時には殺害したりと妄想を繰り広げ、しかし実際にそんな事は出来ないので、抵抗しない物体達に当たり散らした。
そうする事で幾分か気が晴れるから、いけないと分かっていてもその衝動を抑えることは出来なかった。
一番後悔したのは、母へ八つ当たりした時、母のお気に入りだった髪留めを壊してしまったことだった。
大声で喚き散らす私を悲しい顔で見つめて、ただ壊れた髪留めを取り集める母の姿が、今でも焼き付いている。
私はやりきれない思いを発散させるために、色んな場所で色んな人の記憶の中に潜り、様々な感情を共有した。
その中でとりわけ多かったのが、「家族への愛情」だった。
これには得てして幸せで綺麗なものが多く、つまらない事で母を傷つけてしまったと初めて気付いた私は、出来るだけ母に孝行をしなければと考えるようになった。
しかしその矢先、母は病床に伏せた。末期癌だった。
女手一つで家計を支え、私の事ばかり優先してきたため、先進的な治療や、人工臓器への置換をするお金は残っていなかった。
私はそれから、衰弱していく母の傍にただ寄り添うことしか出来なかった。
いつも傍に居てあげられなくてごめんなさい、酷いことをたくさん言ってしまってごめんなさい。
私はそんな自責の念を抱えつつ、しかし言葉にして母に精神的負担を強いるのも嫌で、ただ心の奥底に仕舞いながら、母が少しでも楽に逝けるよう配慮し、残された時間を少しでも多く過ごそうと、毎日欠かさずお見舞いへ通った。
「小麦、こっちへおいで」
高校生の春、いつものように母の見舞いへ行った時、母はそう言って私を近くへ呼び寄せた。
「自分を責めるのはもうやめなさい。お母さんは、小麦と一緒に過ごせた時間はかけがえのない宝物だと思ってる。楽しかったことも悲しかったことも全て、大切なあなたとの思い出だから」
まるで心の内を見透かしたような言葉を受けて、私は今まで心の内に秘めていた感情の抑制を失ってしまった。抱き寄せられた母の腕の中で、子どものようにただわんわん泣き続けた。
その時、不意に母の記憶の中へ潜ってしまった。
場所や物体の記憶へ潜るのは何回もやっていて慣れたが、人物の記憶そのものへの潜行は避けていた。
どんな記憶だろうと、場所や物体と比べて自分が受ける感情の波が大きすぎるからだ。誰かの恐怖症や苦手なものが、私にも移ってしまうような程。
だけど、母の記憶の中は、信じられないほど「愛」だけに包まれていた。
私ですら忘れかけていたような、どんな小さなことでも、母は大切な思い出として覚えてくれていた。
一切の見返りや自分の損得など関係なく、親子というだけでこんなにも私の事を愛してくれるのか──。
私はその時初めて、「無償の愛」が存在するのだと知った。
そして、母には「人の心を読める」ような力もあるのだと気付いた。
いつだって私は自分のことしか考えておらず、母にもきっとそれは筒抜けだったのに、それでも母は私を愛し続けてくれた。
現実に戻った時、「こんなに幸せでいいのかな」と罪悪感を抱くほど母の愛に影響を受けた私はしかし、それに応えられるほどの人間ではないことに酷く落ち込んだ。
「強い芯のある人になりなさい」
母の髪に、壊れたままの髪留めがあった事に気づいた時、聞き慣れたその言葉を私に言い残し、母は穏やかな最期を迎えた。
それから私は、自分でも見違えるように性格が変わったと思う。いじめにもちゃんと向き合い、嫌なことは嫌だと伝え、しかし相手を傷つけないよう毅然とした態度で学校を過ごした。
そしていつの間にか周りには人が増えていき、いじめてきた相手とも仲良くなれるほど、私は大きく成長した。
それから私は、私を助けてくれた母の占いに憧れ、占い師になって人の幸せを後押しする存在を目指した。
今こうして私が紫苑ちゃんの手助けをしているのは、かつての母のような存在に私もなりたいと思ったからでもある。
母のように、何の見返りも感謝も求めず、困っている人の道標をただ示してあげられるような存在に。
「小麦さん、初めまして。箱守紫苑と申します」
もう既に何回もやりとりをしているというのに、改めてそうやって自己紹介のお辞儀をされると何だか気恥ずかしい。
しかし、それは彼女が自分という人格を取り戻した証拠でもある。私は手に掴んでいた
「初めまして、畑川小麦です」
そう言って、二人で小さく笑いあった。
ダイニングテーブルに二人分のココアを淹れてくれた紫苑ちゃんの様子は、さっきと打って変わって完全に家の住人のそれだった。見知ったようにキッチンの戸棚に何があるかを迷わずに取りに行っている。
「祖父母はとても優しかったです。両親を亡くしてからも、不自由したことはありませんでした」
紫苑ちゃんは真剣な眼差しでそう語った。
「でも、何で両親が亡くなったのかという詳細はまだ思い出せません。思い出せたのは、私が誰で、どう育ってきたのか、というパーソナルな部分だけみたいです」
それに、と紫苑ちゃんは続けた。
「祖父母も、もういない」
目に涙を溜め、それから紫苑ちゃんは私に、何度も見ていた夢の話、目覚めてからの最初の記憶を語ってくれた。
降る雪、笑顔で倒れる村人、先導する白い女性、篠宮神社。そしてその倒れた村人の中に、祖父母が居たということ。
「それに、マサ
「マサ兄ぃ?」
私が鸚鵡返しすると、紫苑ちゃんが「
「マサ兄ぃのとこで休んでる時も、何回も白い女性の幽霊を見ました。この人……目覚めてからの最初の記憶の中で見た女性と、同じ人なんじゃないかと思います」
紫苑ちゃんが涙を拭い、ココアを一口飲んでから言った。
「じゃあやっぱり、最初の依頼を進める事が解決に一番近いのかもね……」
そう言って私は、次にどうするべきか考える。紫苑ちゃんの記憶を取り戻すか、女性の幽霊を追うか、どうするか。
迷っていると、紫苑ちゃんが口を開いた。
「……もしかしたらマサ兄ぃにも見えてたのかな」
「え、どうして?」
私がそう聞くと、紫苑ちゃんは少し考えたあと、言った。
「何回かあそこに見えるって指し示したんですけど、今思い出したら、マサ兄ぃもその女性が動いてる先を目で追ってたんです。記憶が戻ってきてるからか、いろんなことを思い出してきました」
こうして見ると、紫苑ちゃんは人格が戻ってから口数がとても増えたように感じる。
とても内向的で静かな子だと思っていたのだが、本来は活発な性格なのだろうか。
と、私はある事を急に思いつく。
「……
「はい、何度か。親戚のとか、近所の人のとか。親しい人なら誰でも出ていいんです」
死者の幽霊は葬列の時、親しい人のもとに現れる。最期のお別れをするために。
「……その白い女性の幽霊、紫苑ちゃんと千代さんの共通の知り合いだったのかな」
紫苑ちゃんはその私の言葉を受け、はっとしたように言う。
「あの大雨のビジョン、まだ私が思い出せない部分……」
それを聞いて、私もそのビジョンを思い出す。雨の中、紫苑ちゃんの手を引いていた女の子。
「あの場所は、確か篠宮治水ダムの近くだったはず」
紫苑ちゃんに言われ、私はスマートフォンで朱音ちゃんがマッピングした地図を参照する。
篠宮治水ダムは、ここ箱守邸から西の方角に山道を向かった先にあった。
「まずはそこから調べてみよう。紫苑ちゃんの欠けた記憶が取り戻せるかも知れない」
私の言葉に紫苑ちゃんは頷いた。
「あの、今日はここで泊まっていきませんか? 一気に思い出したせいなのか、ちょっと疲れちゃって」
そう言われて、私も慣れない長時間の運転のせいか、力みすぎていたのか、身体が重くなっていることに気がつく。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
そう言うと、彼女は一つの部屋に案内してくれた。そこはかなり綺麗に整頓されていて、誰かが使っている形跡があまり無かった。
「ここは誰のお部屋?」
私がそう聞くと、紫苑ちゃんは困ったように首を傾げた。
「……誰、だったかな」
まだ記憶が完全に戻っていないせいだろう。私は無理しないでと声を掛け、部屋へ入った。
「掃除出来なくて、ごめんなさいね」
そうかけられた紫苑ちゃんの声に、私は違和感を覚えた。
まるで、彼女ではない誰かが代わりに話しているような──。
振り返って聞き返したら、彼女は微笑みで返事をして、自分の部屋の方へ行ってしまう。何だか釈然としなかったが、きっとまだ混濁しているせいだろうと自分を納得させた。
その日はなぜか頭痛が酷く、寝付くのに時間がかかってしまった。
朝、紫苑ちゃんが意外にも朝食を用意してくれ、二人でそれを食べた後、ダムへ向かうために出発の準備をする。
紫苑ちゃんが部屋へ向かい、しばらくして戻ってきた彼女は、昨日の寝間着に近い服と見違えるほどちゃんとした格好に着替えていた。
オーバーサイズ気味のパーカーに紫のチェックスカートを合わせて、その下には暖かそうなタイツを履いている。手足や首元にちょっとした装飾品を着け、こうしてみると本来の彼女の活発さが服装に現れている。
玄関の靴箱から厚底のブーツを履いて、私の方を見てその格好を披露してみせた。
「うん、この方がしっくり来る」
紫苑ちゃんはそう言って、また少しだけ笑顔になった。
「じゃ、行こうか」
頷く紫苑ちゃんと共に玄関を出て車に向かおうとした時、鉄臭さが鼻をツンと刺激する。
どこかで同じような臭いを嗅いだことがある。それがどこだったかを思い出そうとした瞬間、紫苑ちゃんに袖を引っ張られた。
「こ、小麦さ……」
彼女は青ざめた顔で、前方の門構えの向こうを震えながら指差した。指し示した方向を見ると、朝霧がかかってボヤけている。
その霧の向こう側に、誰かの人影がゆらりと動いたのが見えた。霧の動きに合わせ、ゆらゆらと動き続けるそれは、風に乗ったように勢いよくこちら側へ向かってきた。
門構えをすり抜け、波のようにランダムに揺らぐ表面がどんどん何かの形になっていき、見る間にそれは、武者鎧のようなものを形作る。
何かの文献で読んだことがある、昔の五月人形を彷彿とさせるそれはボロボロの状態で、片方の大袖が無く脛当ての部分も途中で切れ、胴体の部分の鎧も傷だらけだ。鎧の下の袴や脚絆も血まみれで痛々しい。
そしてなにより恐ろしかったのが、下顎のみを残して、他は千切れたようになくなっている、頭部だった。
顔の無い鎧武者が、今まさに私達の目の前に現れたのだ。私は思わず出そうになった悲鳴を必死で飲み込んだ。
武者は右手に何かを引きずっており、朝日を鈍く反射して光ったそれが刀であると気付く。
武者がそれを振りかぶろうとした瞬間、鉄臭さ、血の臭いが強烈に鼻腔に広がる。
私は反射的に紫苑ちゃんを横へ突き飛ばし、自らも反対の方向へ転がった。空を切る音が背後で響く。
かろうじて避けた刀はしかし再び振り上げられ、切っ先が私の方へ向いた。
切りつけられたのは玄関扉のようだったが、信じられないことに、刀の振られた軌道そのままに、真っ直ぐ削られて傷が付いていた。
心臓が跳ね上がり、体全身に危険信号が響き渡る。
逃げなくては!
「小麦さん!」
紫苑ちゃんの絶叫が響き渡る。私はすぐに立ち上がり、武者と距離を取った。下顎だけがこちらをゆっくりと向き、武者は霧と一緒に身体を揺らしながらこっちへ歩みを進めてきた。
一瞬、コートの下のスタンロッドに手を伸ばしかけたが、さっきこいつは門構えをすり抜けてきた。こんなもので対抗出来るとはとても思えない。
そこで改めて、今自分が見ているものが一体何なのかという疑問が湧いた。これも、幽霊なのか?
全く理解が追いつかないが、私の本能があの刀に切りつけられてはいけないということを何度も警告する。
信じがたい現象への恐怖に身体が震え、思うように動かせなかった。
「紫苑ちゃん、逃げて……!」
霧を挟んで反対側に立つ紫苑ちゃんにそう声を掛け、武者から距離を取って後ずさるうち、私はつまづき、尻餅をついてしまった。
武者はその隙を見逃さず、私の方へ一歩、また一歩とにじり寄ってくる。再び刀が振り上げられて、私は死の恐怖に支配された。
目の前が真っ暗になる。
刀が振り下ろされようかというその瞬間、私はいきなり横方向にぐいっと引っ張られた。
見上げると、紫苑ちゃんが私の腕を全力で掴んでいた。
「はやく!!」
紫苑ちゃんが叫んで私の腕を引っ張り上げた。喝を入れられたような気になって、私は思わず立ち上がる。
武者がこちらを振り返って、また向かってくる。私は全力を出して車へと紫苑ちゃんと共に走った。
エンジンをかけアクセルを蹴り飛ばし、ギリギリのところでガードレールを回避して道へ出る。
ルームミラーで確認すると、武者は門構えをまるで存在しないもののように再びすり抜け、こちらへ向かって歩いていた。
激しい呼吸を整えつつ、私は出来るだけ遠くへ行こうと走り続けた。
しばらく走っていると、青ざめた紫苑ちゃんが後ろを振り返って言った。
「もういません」
引き離せたようではあるが、私はアクセルから足を離せなかった。まだだ、まだもう少し遠くへ行かなければ。
私は、酷い頭痛を覚えながらも先程見たダムへの道へ向かって車を走らせた。
あんなものが存在するとは思ってもいなかった。せいぜい遭遇するとしても、
あれは一体何なのだろう。
振るわれた刀が空を切る音が、いつまで経っても私の耳から離れない。ハンドルを掴む両手の震えが止まらない。
紫苑ちゃんがいなければ、死んでいたかもしれない。
「……ありがとう」
紫苑ちゃんはふるふると頭を振って、「大丈夫?」と逆に感謝してくれた。
なんだかその振る舞いが、紫苑ちゃんらしくないなと私は思う。
たまにこの子は大人びているような印象に変わる時がある。さっき私の手を掴んで立たせてくれた時も、十代の少女とは思えない冷静さを感じた。
以前も同じ様に全く違う印象を抱くときが何度もあった。
特に、ミラーズワークショップを出発する時に私が聞いた「まれびと」という単語を喋った時と同じ雰囲気だと感じる。
稀人……。
それは他世界、異界から来る訪問者を示す言葉だ。すなわちそれは「神」と同義である。
「何かがこちらへやってくる」
私は今一度その言葉を思い出し、背筋が粟立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます