二章 4
夜の
車のヘッドライトに照らされて見える情報だけが全てで、真っ黒の中に急に木々や家屋が現れたりする。たまに現れる街灯は世界から切り離されたようにぽつんと佇み、視界の助けになるどころか、その様相はむしろ不安を煽る。
今まで夜は
「
小麦さんが車を降りるのに着いて行き、古い日本家屋の敷地の前で「箱守」の表札を見上げるまでの間、わたしは霧がかかったような頭の中で、ずっと考え事をしていた。
あの日、千代医院で目を覚ましてからというもの、どんな事をしても一切の記憶が少しも思い出せなかったのに、今では少しだけ思い出せる記憶がある。
小麦さんに最初触れられてからというもの、毎晩見るようになった悪夢の内容が、恐らくわたしの最初の記憶なのだと思う。
しかしそれは、見るたびに鮮明になり、色や香りを伴うようになっていった。
降り積もる雪の中、笑顔で死んでいる篠宮の人々の中を歩く。白と黒のモノクロな世界で、自分の前には真っ白な女性が儚い顔でこちらを先導している、そんな光景だった。
導かれた先には、幾何学的な何かを模した石像が鳥居を挟んで二体並んでいる神社があって、いつもその鳥居の前で自分は倒れてしまい、夢はそこで終わる。
鳥居の先に神社の本殿のようなものが見えるのだが、奥に祀られている何かを思い出そうとしても、そこだけ黒塗りにされているようになってどうしても思い出せない。
この夢が自分の記憶喪失と関係があるような気がしてならないのだが、いくら頑張ってもそれ以上を思い出すことは出来なかった。
やはりそのためには、小麦さんの特殊な能力で記憶の中へ潜ってもらうというのが、一番早くて確実な方法なのかも知れない。
夢のことを彼女に言うべきか迷ったが、あの特殊な力はそれなりの負担を伴うらしく、制御に失敗すると、記憶の主の感情に飲まれることもしばしばあるという。印象の強い記憶ならば、それ相応の負担を強いることになってしまう。
それが一番話しづらい理由だった。自分のせいで、他人が傷つくのを見たくはない。
「大丈夫?」
小麦さんに話しかけられ、わたしは思考の海から戻る。
「あ、はい。すみません……」
「具合が悪くなったら、すぐに言ってね」
この人は、全くの他人であるはずのわたしに、いつも優しくいてくれる。
きっと元々の人間性が作り出すものなのだろうが、だからこそそんな人の辛い姿は見たくはない。恩を仇で返すような真似は嫌だ。
喉元まで出かけていた夢の話を飲み込み、改めて門構えの「箱守」の表札を見つめる。これが、わたしの名前、わたしの家。
しかし、何も思い当たることはない。初めて見る名前だ。自分の苗字と言われても違和感しか感じない。
千代先生の家とはまた違う趣で、こちらの家にもモダナイズされた門構えがある。あちらよりは敷地が小ぢんまりしていて、門構えを抜けるとすぐに玄関がある。
「紫苑ちゃんが暮らしてた家なら、認証解除出来るはず」
わたしはその小麦さんの言葉を受け、施錠された門構えの前に立った。
瞬く間に解錠され、それを確認した小麦さんが扉を開けた。
今までこうして家に帰っていたのだろうか。リンクスを使うのも家に帰るという感覚も、初めて経験するようにしか思えなかった。
不思議な感覚だ。自分の家に入るというのに、どこか後ろめたいような、本当に入って大丈夫なのだろうか、怒られやしないか、という感情が湧く。
小麦さんと共に門構えを潜り、玄関も同じように解錠し開けると、開放感のある内装が
外から見る限り平屋建てのはずだが、勾配天井が吹き抜けのようになっており、左右に部屋が広がっている。左側は細い廊下が続いており、右側は開けたところに繋がっている。
小麦さんがお邪魔します、と言って右の方に向かうので、わたしもそれに続く。
入って右手側はLDKになっていて、間仕切りがまったく無いその広々とした空間は、どこか落ち着かなかった。広いのに、狭く感じるような息苦しさが僅かにある。それはやはり他人の家であるという認識のままだからだろうか。
奥の庭に面したカーテンは全開ではないものの開けられており、より一層居心地の悪さを感じた。
目に入る光景のどれもが自分の家のものであるはずなのに、やたらそわそわするという不思議な感覚が、どうにもむず痒い。
小麦さんが流れるようにカーテンを閉め、明かりを点けた。
通常のシーリングライトと別で、勾配天井の吹き抜けの位置にある間接照明全てに明かりが灯り、あっという間に明るくなって、少しばかり空間が広がった。
ざっと見渡す限り、整然としてはいるが、誰かが確かに住んでいたような生活感も確かに感じられる。
しかし、わたしとこの箱守家の関連性があるもの、例えば家族の写真なんかは見当たらない。
「場所の記憶っていうのはね、結構強く残ってるものなんだ」
小麦さんが不意に話しかけてきた。
「それこそ、何十年も何百年も前の記憶も。さすがに凄い昔だと、見るのが難しいけどね。それでも、紫苑ちゃんが住んでいた頃のものなら探せると思う。ちょっと待っててね」
そう言うと小麦さんは、目を瞑って深呼吸し、ぴくりとも動かなくなった。
彼女が潜っている間、わたしは手持ち無沙汰になったので、玄関から向かって左側、居住空間が広がっている方へ行ってみる。
廊下を挟んでそれぞれ左右に個室が備わっている作りで、ぐるりと右回りに回転するような廊下を進んでみると、一番奥の部屋に突き当たった。
何の気無しに開けてみると、今までの整然とした雰囲気に全く似つかわしくない、騒がしい内装が目に飛び込んできた。
部屋の真ん中には整えられていないベッド、その脇に開いたままのクローゼットと、投げつけられたTシャツ。
壁には派手な色合いで彩られた、躍動感のあるトゲトゲした印象のロックバンドらしきポスターが所狭しと飾られている。
ベッドの奥には鏡面付きの化粧台や、本棚を備えた散らかった勉強机がどっしり構えている。化粧台の上や机の足元は、足の踏み場も無いという程ではないが、乱雑に小物が散らばっている。
部屋の隅には散らかっていない空間があり、ギターらしき楽器がまるで神聖なものを扱うように置かれていた。
IOTを始めとしたデジタル機器が少なく、あくまでアナログな物質をメインに構成されたその部屋は、時代の先端や流行り物を感じさせず、自分の好きなもので囲んだ、まさに「十代女子」の反骨精神を感じる部屋だった。
これが、わたしの部屋なのだろうか? だとしたら、記憶を失くす前のわたしのパーソナリティが少しだけ見えてくる気がした。
「わ、凄い部屋」
小麦さんがいつの間にか後ろに立っていて、声を掛けられ飛び上がった。
まだ自分の部屋なのかは分からないのに、何故か妙にこの部屋の光景を見られているのが恥ずかしく感じる。
「音楽、好きだったんだね。今どきディスク媒体をコレクションしてるのは、相当の熱がある証拠だよ」
小麦さんが勉強机の本棚部分に飾られた数々のディスクケースを眺めながらそう言うと、流れるような手つきでクローゼットから見える派手なプリントのバンドTシャツを拾い、さっと畳んで仕舞った。
さっきリビングでカーテンを閉めた時も思ったが、この人は片付けるということが板についている性格なのだろう。
言われて私は、改めてそのディスクの並べられた本棚を見る。確かに、この部分やギターの置かれた位置だけは、部屋の荒れ具合とは真逆で整頓され、綺麗に保たれている。
自分がこんなに好きなものの事を思い出せない。ケースの背表紙にある曲のタイトルの一つすら思い当たらないことを、改めてもどかしく感じる。
「……自分の事、知りたいよね」
慈しみの籠もった笑顔で小麦さんがわたしの手を握って、目を瞑った。見つけたのだろう、わたしに関する記憶を。
頭の中に温かい光景が見えてくる。穏やかな老夫婦が、わたしに柔らかい笑顔を向けながら、三人で食卓を囲んでいる。
わたしは二人から頭を撫でられ、恥ずかしがって嫌がりながらまんざらでもない様子だった。
食事が終わると、リビングのこたつの上でみかんを剥きながら談笑し、爪が黄色くなったと文句を言うわたしの代わりに、二人が続きを剥いてくれている。
そんな二人の笑顔を見つめていると、その二人が自分の祖父母だと思い出した。その瞬間、暗闇の中にあった扉が一気に開き、情報が流れ込んでくる。
「わたし、おじいちゃんおばあちゃんと、ここで暮らしてた。両親は、いなくて……」
小麦さんは静かに、わたしの話を邪魔しないよう、手を繋いだまま小さく頷いて聞いてくれている。
「そうだ、あの日……あの日だ」
霧が晴れるよう、頭の中に、雨のカーテンがかかったビジョンが浮かぶ。瞬間、わたしは今まで感じたことのない頭痛に襲われた。
それまでも記憶の中に潜られる時には多少の頭痛があったのだが、今回のものは全く異質だった。本当に頭が割れているのではないかと錯覚するほど強い痛み。
視界が霞み、小麦さんの心配そうな声と共に景色が遠のいていき、やがてぷつりと目の前が真っ暗になった。
拭っても拭っても、降り続ける雨のせいでいつまでも滲んだ景色の奥に、大きな土の山が出来ている。
見上げると、法面を大きく削り取って滑った土砂の跡、まるで大きな怪物が噛みついたかのようにその部分だけが綺麗に無くなっている。
その無くなった分は道路に流れ込み、重さに耐えきれなくなった道路がアスファルトごとガードレールをもぎ取り、さらに下の方へ流れていっている。
未だに雨の勢いは止まず、崩れた斜面の土を水流が飲み込んで巨大になり、川沿いの家屋を跡形も無く押し潰していた。
それが自分の家なのだと気付いた時、それまで消えていた音が一気に飛び込んできた。
激しく打ち付ける雨の音と、時折響く重たい雷鳴、そして地滑りを起こしてぶつかる石と石の振動。
誰かの泣き声のする方を振り向くと、泥まみれになった女の子と手を繋いでいたのに気付く。彼女はその場で立ち尽くし、ただただ慟哭していた。
遠くからサイレンが鳴り響き、避難を促す放送のようなものが流れてくる。まるでこの世の終わりを告げられているような焦燥を覚え、思わず女の子の手を引き、どこかへと駆け出した。
その時、自分のすぐ後ろに、同じくずぶ濡れで立ち尽くす女性を見つけた。泣き出しそうな、それでいて優しく微笑みかけるような温かさを感じる。小麦さん?
彼女の脇を通り過ぎたら、景色は突然真っ暗になった。
わたしが現実に戻った時、持ち帰ってしまった激しい頭痛に目眩を覚え、しばらくは目を開けられなかった。今のは何だったのか、考える余裕もなかった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
小麦さんに両肩を抱かれ、わたしは思わずびくりと身体を震わせた。
彼女に触れられなかったら、未だ雨に打たれている感覚すら残っているほど鮮明なビジョンだった。
「い、今のは?」
「紫苑ちゃんの記憶……のはず、なんだけど」
痛みに耐えながらなんとか目を開けると、小麦さんの泣き顔が視界に滲んだ。彼女は涙を拭いながら、困惑した様子で口を開いた。
「泣いていた子は、紫苑ちゃんだった」
最初、小麦さんが何を言っているのか理解出来なかった。記憶の中でわたしは、「その泣いている子を自分の視点で見ていた」のだ。
「もう片方の人は見たことのない女の人だったけど、私が見たのは、その人の方の記憶だったみたい」
聞いてみて、やはり意味が分からなかった。
小麦さんの特殊な能力の事は詳しく分からないが、彼女がそう言うのであれば、その記憶が誰のものかは彼女の感覚では区別出来ているのだろう。
つまり今見たビジョンは、わたしとは違う、別人の記憶だということになる。
だとしたら何故自分にその記憶があり、今急に思い出したのか、全く理屈が分からない。
だが、これが何かのきっかけになったのか、ぼんやりとその当時のことを思い出せる。それは自分の記憶に間違いない。
「……例年の降雨量を遥かに上回る、物凄い豪雨でした」
篠宮村は山間部にあるため、大雨が続く季節は特に警戒されてきた。
豪雨は山肌を削り取り、やがて鉄砲水となって村を襲う。それを避けるため山間部の河川各所には治水ダムが沢山備わっている。だが、それでも自然の脅威は時として、人間の予想を遥かに超えて起こり得る。
その日、朝から鳴り続けていたダムの放水と避難勧告の放送を聞きながら、避難準備をしていた時。
わたしは誰かと一緒にどこかに向かうはずだったが、誰よりも先に玄関を出て、次に轟音に驚いて振り向いたら、もう家は無かった。
そこで記憶は途切れ、次に思い出せるのはさっき見たビジョンの部分だけだった。
今まで思い出せなかったのに、どうして急にここだけ思い出せたのか分からない。
「……ねぇ、まれびとって?」
小麦さんが怪訝そうな顔で突然そう聞いてくるが、その言葉は聞いた覚えが無いし、知らない単語だった。
「え?」
「前に紫苑ちゃんが、自分で口走ってたんだけど、覚えてない?」
全く覚えていない。何かを喋ったことすら分からないが、小麦さんの様子からすると本当のことのようだった。
しかし、それが何を意味するのか、どうして口走ったのかは分からなかった。
そう伝えると、小麦さんは更に難しい顔をして考え込んでしまった。
彼女が何故今そんな事を聞いてくるのか、その理由も判然としない。
確かに、わたしは時折ぼーっと考え事をすることが多かったし、その時何をしていたか、何を喋ったのか曖昧な時が多少あることは自覚していた。
そんな時は決まって頭痛がしていたのだが、何か関係があるのだろうか。今も頭痛が鳴り止まないでいる。
しかしこれも、記憶喪失の弊害という他無い。他に何か理由をつけようとしても、思い当たることは何も無かった。
その時、背後の廊下を踏む足音が聞こえた。
小麦さんと共に振り返って目を見合わせ、耳を澄ます。
廊下の奥、玄関の方で誰かの気配がした。恐る恐る廊下の方へ出て、忍び足で奥へ向かう。最後の角を曲がって、玄関から続くLDKの方を見ると、奥から漏れる照明で逆光になった誰かの影が、キッチンの方へ歩いていったのを確かに見た。
小麦さんがわたしにここで待つようジェスチャーで伝えた。
彼女は、コートの内側から何か棒のようなものを取り出し、両手で持って構えた。わたしは彼女が心配で、離れて着いていく。
小麦さんはゆっくりLDKの前まで来ると、深く深呼吸をして、最後に思い切り大きく息を吸ったかと思うと、キッチンの方に向かって弾けたように突進し、大きな破裂音を轟かせた。
少し間を置いても戻らない小麦さんを追ってわたしもキッチンへ向かうと、緊張した顔でキョロキョロとあたりを見回す彼女が、わたしを背後に置いて庇うように棒を構えて警戒する。
「凄い強い電気流れるから、気をつけて」
そう言うと、棒の尖った先端にある金属部からバチンとまた音が弾けた。
その音とほぼ同時に、わたしの真横を背後から誰かが通り過ぎた。が、驚いて背後を振り返っても、誰も居ない。
埃のような何かが舞っているのが見えただけで、他には何も無かった。と同時に、揺れ動いた空気の中に柑橘系の匂いを感じた。
……みかんの匂いだ。
わたしの脳裏に、さっき小麦さんが見せてくれた記憶が過る。
「おじいちゃん、おばあちゃん……?」
わたしが思わずそう呟くと、舞っていた埃のようなものが急に空間に現れて凝縮していき、人の形を二つ象った。
それは紛れもなく、わたしの祖父母の姿そのものだった。
ダイニングのテーブルを挟んで向こうに佇み、かつての優しい笑みをわたしに向けている。
頭の中に声が響く。
『おまえは、一人じゃないよ』
ただただ思い遣りと優しさに溢れたその声に、わたしは思わず胸が苦しくなった。同時に、二人はもういないのだと悟った。
次に瞬きをした時、リビングには誰の姿も無かった。
「今の……」
小麦さんが驚いた様子でわたしと二人の影が居た方向を見比べている。彼女にも今の二人の姿が見えていたのか。最初に廊下を通る影も祖父母だったとしたなら、見えていたのだろう。
一つ記憶を思い出すと、それに連鎖するように祖父母との思い出が溢れてくる。
初めて自転車やスケーターに乗った時、小学校の入学祝い、高校受験合格の祈願など、他愛のないものばかりだったが、それはわたしが、確かにこの家に生まれ、確かにこの家で育ったのだと思い出すのには充分だった。
わたしは、わたしが私であると、「箱守紫苑」であると、その時はっきり思い出した。
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