二章 3

 原崎はらざきかなめ


 月明かりだけが道を薄く照らす夜、かつての温もりは陽光と共に失われ、空気が昼間よりも透明に見える。

 冷えた指先で煙草を取り出し、火をつける。吐き出した煙はいつまでも残り、ゆっくりと踊るように上へ登っていった。

 煙草を咥えたまま、俺は千代ちしろ医院へ登る道を歩き出す。

 消息不明のはずの研究者、来栖くるすから俺に届いた謎のメッセージの存在は、俺をこの村に呼び寄せるのに充分な引力があった。

 初めに思いついたのは、何らかの理由で来栖がこの村に身柄を拘束されていて、どうにかして自分の位置情報を外部に発信し、助けを求めた……という筋書きだったが、だとしたら、俺にそれを送ってくる理由が分からない。その場合は警察など法執行機関を頼るのが普通だろう。

 逆に、「俺しか頼れる人物が居ない」と考えることも出来る。

 いくら辺境の村とはいえ、YOMIヨミの事件と実名で内部告発を行った俺の名前くらいは耳にしただろう。

 正直な所、そうだったとしても俺に来栖を助ける義理はない。特別親しかったわけでも無いし、知らないことのほうが多い。

 それでも、篠宮村を調べていく中で不審な点がいくつもあったというのが、俺をこの村まで引き寄せた要素の一つだ。来栖がこの村の土着信仰を基にYOMIの着想を得たとしたら、奴が発見した粒子はこの辺りで観測されたと見るのが妥当だろう。

 発見者の名前を取って「」と名付けられたそれは、人の意識そのものに結びついて作用する特性を持つ。現実の空間からメタバース空間である|YOMIへ意識を運ぶ役割を担っている。

 だがそれは、クルス粒子の特性のうちの解明出来た一つの現象でしか無い。来栖が研究していたのは、他にいくつもある特性だった。

 そのまだ不明な特性が、この村の土着信仰と何か関係があるのではないだろうか。

 古くからの土着信仰が未だに根付き、呪いや人柱など後ろ暗い歴史を抱えたこの村に、一体何があるというのか。

 さやかの呪い事件は、俺の中に深く遺恨を残した。かつて想いを寄せていたこともある天城沙也加という人間を、死後も冒涜したに等しい。

 この届くはずのない来栖からのメッセージがYOMI、ひいてはカクリヨともしも関係があるのなら、調べなければならない。

 俺の中で、あの事件はまだ終わっていない。そう思ったからわざわざ足を運んだのだ。

 そんな中、昼間に訪れた千代医院で院長の千代正樹まさきが死んだ現場に遭遇し、通報してから身を隠した先で、新堂しんどう朱音あかね畑川はたかわ小麦こむぎを発見したのは、何かの因果を感じさせるほど意外な展開だった。

 あの二人が何のためにこの場所に訪れたのかは分からなかったが、千代正樹まさきに関連があると見て間違いない。彼の妻らしき人物と交流がある様子を見たから余計にそう思う。

 さらに、捕まったはずの平岡ひらおかじゅんまでもが現れた時は、疑いは確信に変わりつつあった。

 身を隠した林の中で、リンクスと接続したコンタクトレンズをズーム機能にして医院の周辺を見ていた時、畑川が裏口の方へ向かっていった。

 それを無意識に追った時、裏口付近の積もった雪に足跡があるのに気付いた。

 畑川がその周辺を調べているところを見ると、新堂もあれに気付いていたのだろうが、俺の位置から見える場所には、その足跡とはまた違う、複数の痕跡が見えた。

 畑川が調べる小さな足跡とは、数も方向もその大きさも違う。あれは間違いなく、複数人が裏口へ訪れている証拠だ。

 そして野次馬の中に何人か、足元を湿らせている奴らが居た。昼間だから踏んだ雪が溶けてそうなったと疑うのが妥当だ。

 その中の一人、銀髪で長身の、無表情を貼り付けた男と目があった時は、無条件で肝が冷えた。

 人間の視力では捉えるのが難しい程の距離に陣取ったはずだが、何故か奴はこちらをまっすぐに見ている気がする。得体の知れない気味悪さを感じたが、その後奴は平岡に声を掛けられてこちらから目線を外した。

 今歩いているこの坂道に、雪は積もっていない。正確に言えば、除雪がされたという方が正しい。道路に降り積もった雪は左右に退かされている。

 もしこの道を歩いてきたのならば、膝下まで雪につかることはない。屋根から落ちて雪が高く積もった、医院の裏口周辺のような場所を歩かない限りは。

 つまり、あの中の何人かは、医院の裏口を通ったはずだ。

 そうなると千代正樹は、村人に殺害されたという可能性が限りなく高い。

 いや、そうとしか思えない。あの村人たち、人が死んだというのに誰も彼もが薄ら笑いを浮かべていた。

 状況と表情が噛み合っていなかった。とにかく気味が悪すぎる。

 何よりあの銀髪の男。奴の視線、雰囲気、何もかもが不気味で仕方がなかった。

 新堂と平岡が会話をしているあいだも、まるで死んだ魚のような目でただ突っ立っていただけ。それなのに、その瞳の奥に見える闇に思わず身震いを覚えた。

 その感覚は紛れもなく、久しく感じていなかった、恐怖だった。


 千代医院に着き、リンクスを使ってレンズの暗視機能を起動させた。辺りの光量が増幅され、暗闇の中でも景色がよく見える。

 裏口にあるはずの足跡は、大量の足跡にもみ消されていた。それが意図的なのかどうかは分からないが、とにかく野次馬たちが去った後も人の出入りがあったことが伺える。

 裏口は簡素ながら物理的に施錠され、簡単には開きそうにない。電子錠ならば遠隔のハッキングで開ければ良かったのだが、物理的にこじ開けるとなるとどうしても痕跡が残ってしまう。

 だが今は四の五の言っている場合ではない。来栖の行方を追うには、今のところこの場所しか手がかりが無い。何よりも位置情報にあった場所を調べる事が優先だ。

 咥えた煙草を雪の中に弾き、踏んで揉み消してから腰を少し落として構える。腰を捻ったその勢いに任せ、思いっきり裏口の扉を蹴り飛ばす。

 闇の中、乾いた空気に木が軋んで折れる音が伝わっていく。数発食らわせた後、扉は勢いよく開け放たれた。

 裏口から入った先の給湯室を抜け、死体があった病床の部屋へ踏み込むと、中は妙に綺麗に整頓されていた。

 これではまるで証拠隠滅のようだ。当たらずとも遠からずだろうが、何か残されていないか部屋の中を物色し始めた。

 入院患者用の鏡台や棚の中には、点滴用の生理食塩液や鎮痛剤、ビタミンなど普通の薬品しかない。

 床も綺麗に掃除され、泥の一つも落ちていない。部屋の奥にある洗面所にも、何か怪しいものは何一つ見つけられなかった。

 洗面所の鏡の奥の薬棚を閉めた時、鏡に反射して何か動くものが目端に映った。

 暗視のせいで光量が強く、微かにしか分からなかったが、何かが動いたのは確実だった。反射的にそちらへ目を向け、暗視を切ってスマートフォンのライトで部屋を照らす。

 何かが動いたのは、扉が開け放たれたままの廊下の方だった。玄関の方へ何かが動いていかなかっただろうか?

 ゆっくりとした動きで廊下の方へ顔を出すと、白い何かが玄関のガラスの奥を横切ったのを確かに見た。見間違いではない、誰かが歩いている。

 まずい、村人の誰かが様子を見に来たのかもしれない。そう思って俺はその人影を追って外へ出た。

 白い何かは、千代医院の前の坂を下って視界から外れた。だが何か変だった。さっき玄関で影を見てから、それほど時間は経っていない。それなのにもう視界から外れるほど距離が外れている。

 そのまま白い影を追って坂を急いで下っていくと、それはまた一瞬だけ見え、木々の隙間に消えて、また視界から外れた。

 追い付けない。どんなに急いで走っても、次にその影を見る時、視界から外れるギリギリの位置でしか見えない。近くなったり遠くなったり、その距離は次に影を見るたびに変わっていく。

 やがて追い掛けっこは村のメイン通りまで続き、役場の裏の方へ回っていく。

 暗闇の中、遠くに浮かぶ白い影は未だに視界に現れ続け、それを追ううちにどんどん脳裏には、ある予想が芽生え始めていた。

 まるで人間ではなく、幽霊と追い掛けっこをしているような……。それに、白い影に見えるのは、白衣を着ているからではないか?

 つまり、あの影はもしかして──。

 そこまで考えて、足が止まった。

 切れかかって不気味に明滅する電柱の下で、白い影がこちらを向いて立っている。先程までとは違い微塵も動かずただ静止し、力の抜けた片手を上げてどこかに指を差している。

 その指先は、立入禁止のテープが貼られた道の先を示しているようだった。メイン通りから一本外れて、山の奥へと入り込むその道の先に何があるのかは、木々に遮られて見通せない。

 俺はリンクスを経由し、レンズのズーム機能で視界を拡大し、その白い影の顔を直視する。

 拡大した瞬間、視界にノイズが現れ、景色が歪んだ。それは激しい頭痛を伴い、やがて目を開けていられないほど強くなった。

 だが見えなくなる一瞬、俺は確かに、白い影の顔を直視した。

 それは間違いなく、昼間あの部屋で発見した、恐怖に満ちた顔で絶命していた、千代正樹の顔だった。

 あの時と変わらぬ物凄い顔──裂けるほど開かれた口、泣いているとも笑っているとも取れる目尻で、俺を見つめていた。

 視界のノイズはいつまで経っても直らず、思わずレンズとリンクスの連携を解除し、両目から外した。

 ノイズは消え、同時に千代らしき影も見えなくなったが、先程の残像が残っている気がしてならない。頭痛の酷さに耐えかね、思わず地面へと座り込み、煙草に火を点けた。

 煙を胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、不思議と気分とともに頭痛もマシになっていく気がした。

 上っていく紫煙を見つめながら、頭の中を整理する。だが、今自分が見たものが一体何なのか、納得行く答えに全く辿り着けない。

「さやかの呪い」によって巻き起こる心霊現象は、脳の中にリンクスを経由して入り込んだウイルスが見せる幻覚のようなものだったはず。

 そしてそのウイルスは、俺と協力者たちが作り出したワクチンプログラムによって、一つ残らず完全にこの世から消滅しているはずだった。

 さらに、それによって見える影は天城あまぎ沙也加さやかの姿、つまり女の姿なのだ。男ではない。

 先程のおぞましい顔を思い出し、改めて身震いした。

 他人から聞いた眉唾な怪談話なんかで浮かべた妄想や幻覚などではない。俺はたった今、自分自身の目で、「幽霊」を見たのだ。

 いくら理論的に今の現象を否定しても、最後に辿り着く答えは、これしかなかった。

 何本目かの煙草を消し終わった時、立ち上がって振り返った道の真ん中に、小さな旋風が舞っていた。それは地面の砂を巻き込み、人の高さ程まである。

 何の気無しにそれを見つめていると、段々と舞い上がる砂が多くなり、やがて砂が占める割合が大きくなっていく。

 見る間に砂のようなものが固まって粒のようになり、もはや今は風ではなく、うねる波のようになって、様々なうねりがそれぞれ何かの形を形成していった。

 それは、とても歪な四肢をもった人の形を型取り、そこで動きが小さくなった。

 俺の脳はもはや思考を諦め、ただその形容し難い何かを見つめることしか出来なかった。

 まるで無数の虫が這っているようにうねり続ける表面をぼーっと見つめていると、一番上にある出っ張った丸い部分が今までより更に複雑にうねり始めた。

 そうして激しく動き出すと同時に、目の前にある異形が今、俺の名前を呼んだ気がした。

 次の瞬間にふっと砂は崩れ、空気の中に溶けるように消えてしまった。

 消える瞬間、粒が形成した奇妙な形の中に、ある人物の表情を浮かべてしまった。

「来栖……?」

 常に遠くを見つめていた儚い笑顔を、その粒の波に見た気がした。いつか、自分に向けられた覚えがある彼女の表情を。

 と同時に、そんな想像をした自分が可笑しく感じた。

 今の悍ましい姿は、俺の知っている来栖に似ても似つかない。風が見せたただの幻想、シミュラクラ現象というものだ。

 だが、あれが人の形をした何かであるという認識がどうしても崩れない。何か、この世の事象を超えた超常的な存在を垣間見たような、そんな圧倒される感覚すらあった。

 俺はたった今、一体何を見たのだろう?

「もう、とっくに脳のキャパシティが限界なんだがな……」

 誰に言うともなく呟いたその言葉も、来栖の顔に見えた粒の旋風も、やがて透き通った冬の空気に溶けて消えていった。

 現実離れしすぎた現象を何度も見るうちに頭が麻痺し始めたのか、俺はここにきて逆に冷静になっていた。

 改めて新しい煙草に火を点け、立ち上がって立入禁止のテープを乗り越える。あの千代らしき男の影が指し示していた先に何があるのか、それを確かめたかった。

 道は途中まで舗装されていたが、急な勾配のある、丘の上まで一気に進む形になっている古く険しい道だった。

 やがて、片側には土砂崩れ防止の法面が広がり、片側は暗い谷になってきた。相当高くまで登ってきたようだった。

 そして、大きく曲がったカーブの道に差し掛かった時、丘の上に鎮座する、くすんだ鳥居が見えてきた。

 近づくにつれ、風化が進んで古くなっている様子がわかるが、雪や泥などの汚れはなく、手入れが行き届いている印象だ。その鳥居の先に、オレンジ色が揺らめいているのがかすかに見える。

 鳥居を潜った先はちょっとした石段になっている。榊の木に挟まれた石段を登り切ると、正面に古い神社の本殿のような建物が見える。誰かが火を灯したのか、本殿の周りには松明が爆ぜ、火を踊らせている。

 その時、不意に遠くから聞こえてきた何かの音に背後を振り返ると、今登ってきた道が下の方に見える。くねくねと折れ曲がり、木々が生い茂っているので、登ってくる途中は上の様子は見えなかったが、神社のあるこの場所は拓けており、ここからならば下の道の様子が若干伺える。

 その入り口の方、立ち入り禁止のテープがあった明滅する電柱の辺りに、揺らめく炎が微かに見えた。

 神社に据え置かれているものとは違う、手で持つ松明に照らされて、真っ黒い何かが蠢いているのがわかった。目を凝らすと、それが黒服を着た人間の列だと分かった。

 木々に遮られていてよく見えないが、旗のようなものと、何か大きな桶のようなものを抱える者も居る。

 その列は、今まで聞いたことのないリズムで、何事かを歌うようにこちらへ登ってきていた。

 本能が、この場所に居続けるのは間違いだと警告してくる。この不気味な歌声のようなものを聞いていると、いてもたってもいられなくなる。

 美しいと言える旋律ではない。むしろ耳障りな程気味が悪い。

 そのうち、リズムは一音のみになり、段々とその音階が異常なほど高く上がっていく。もはや今は、人間の歌声ではなくモスキート音に近いほどだ。

 その時、一番先頭にいるらしき松明を持った人物の顔が、木々の合間から一瞬見える。

 糸目になるほどに、満面の笑みを浮かべた初老の男性だった。

「こっちだよ」

 突然耳元で囁かれるように声が聞こえ、反射的にそちらの方を振り向いた。

 鳥居を挟み、列が来ている道とは反対側の方へ続く道の向こうに、誰かが立って招くように手を振っている。

 やがて風に溶けるようにその姿は消えてしまい、それもまた人間ではないことに気づき、俺はもう精神の限界を感じた。

 その姿は遠目にだが、忘れもしないかつての想い人の姿だったように思え、彼女の名が脳裏に浮かんだ。

 天城沙也加。今一度改めてその影の姿をじっくり見ても、彼女で間違いなかった。

 何故? ……いや、今はそれよりもここから離れることの方が重要だ。

 段々近付いてくるモスキート音が聞こえないよう、耳をふさいで一心不乱に、その道に向かって脱兎のごとく駆け出した。先の方に見えたはずの沙也加の姿は、その時にはもう無かった。

 この村は奇妙なことが多すぎる。きっと今見つかったら、自分はただでは済まない。

 道中で誰かに遭遇してしまう可能性もあったが、幸運なことにそれは無かった。

 大きく迂回し、車を停めているメイン通りの方になんとか戻って来ることが出来、そのままの勢いで村から出る道へと必死で走った。今は、たった一秒でさえもこの村に居たくなかった。

 最後に振り返った空に、雪が降っているのを見る。

 その中に一つだけ、登っているような白点が見えた瞬間、俺は向き直してアクセルを全力で蹴った。

 それから街に着くまでの間、フロントガラスの向こうに、俺の記憶の中にある来栖と沙也加の顔が交互に浮かんでは消えていった。


「それから一日時間を置いて、戻ってきたらお前が居たと、そういうわけだ」

「あの時、要さんも居たんですね……」

 俺の話を聞き終わった新堂が目を剥いてそう言った。

「要さん……あんた逃亡中なんスから、あんま派手なマネせんでくださいよ、マジで」

 加賀美かがみにそう釘を差され、それも確かに一理あると思った。特に、平岡の存在が確定した今では、もっと慎重に動くべきだろう。

「そうだな。だがとにかくこれで新堂とも情報が共有出来た。このまま煮詰めていけばきっと答えに辿り着ける……」

 新堂と加賀美がこくりと頷いたのを見て、俺は続ける。

「……ワケないだろう。こんな理屈の通らない超常的な現象を、机上の空論で解明出来るはずがない。俺はもう一度篠宮へ行くつもりだ。結局、来栖の居場所も何もかも分からないことばかりだからな」

 俺の言葉を受けると、新堂も加賀美もほぼ同時に大きな溜息をいた。二人とも呆れた様子だったが、新堂が先に顔を上げた。

「でも、あたしも同意見です。現地で調査をしないとこれ以上は何も分からない気がする。それに、麦ちゃんを一人には出来ないし」

 そう言う新堂に続いて加賀美も口を開く。

「そういう事なら、俺も……」

「駄目だ。大人数だとかえって目立つ」

 勢いに任せて着いていくと言いかけた加賀美は俺に制されて残念そうな顔をする。

 加賀美にはここに残ってバックアップをして欲しいというところが俺の本音だ。収集したデータをまとめて、後に情報を整理する時のためにも、記録係は必要だ。

 そう伝えると、加賀美はまんざらでもなさそうな反応を見せた。

「そうと決まれば、今からでも……」

 そう言って立ち上がろうとした新堂が、しかしふらついて倒れそうになり、加賀美に支えられた。

 その様子は痛々しく、一日ほど休んだはずなのに顔はまだ青白く、とても外を歩いて良いようには見えない。

 探偵事務所に火を放たれたというのは聞いたが、いくらトラウマがあったとしてもその精神的ショックでこうまで体調を崩すものだろうか?

 単なる疲労からくる体調不良なのであれば良いのだが。

「俺もまだ帰ってきたばかりだ。出発は明日にするぞ」

 そう言って俺は加賀美と共に、さっきより元気の無くなってきた新堂を部屋に戻した。

 体温を測ってみると、三十八度台を記録している。

「おぉ、上がったなぁ。解熱剤あったかなぁ……」

 加賀美が慌てた様子で部屋の外へ飛び出していく。

 部屋のテーブルの上にあったタオルを濡らし、気休めにしかならないだろうが、新堂の額へ置いてやると、彼女が口を開いた。

「要さん、千代さんの幽霊みたいなの見たって言ってましたよね……。その時、頭痛か耳鳴り、しませんでしたか……?」

 俺はあの時のことを思い返す。

「ああ、どっちも起こった。お前も亡くなった友人の姿を見たと言ってたな。その時も頭痛と耳鳴りがしたのか?」

 新堂はゆっくりと頷いた。

 それは、幽霊というものを目にする時の兆しのようなものなのだろうか。

 そうだと仮定して、見える予兆が分かったとしても、その対策にはならない。もしまた篠宮村で同じ様に恐ろしいものを見てしまったら、どうすればいいのだろうか。

「要さん、煙草……吸ってもらっていいですか?」

「なに?」

 新堂は喫煙者じゃない。むしろ、以前は俺が目の前で喫煙していると文字通り煙たがってひたすら小言を言ってきていた。

 火も扱うものだし、嫌いな部類だったのだろうが、それなのにいきなり何を言い出すのかと思って驚いていると、新堂は続けた。

「なんかわかんないけど、その煙の匂いがすると落ち着くんですよ。頭痛も晴れていくような気がして」

「そう感じたなら、お前も喫煙者の仲間入りだな」

 俺は笑って、お望み通り煙草に火をつけて一服する。加賀美がうるさいだろうが、後で諫めれば良い。

 そうやってしばらく揺らぐ紫煙を眺めていると、新堂はいつの間にか眠りに落ちていた。その表情はさっきよりも穏やかで、煙草のおかげかは定かではないが、確かにいくらか楽になったようだった。

「新堂、大丈夫ッスかね」

 鎮痛薬を持ってきた加賀美が、心配そうに彼女を覗き込んで言った。

「コイツはそんなにヤワなやつじゃない。俺の神経ハッキングを食らってもピンピンしてたからな」

 加賀美がそれを聞いて、確かにと頷いた。

「これは完全な勘でしかないが、事務所の火事は、新堂を狙った放火だと思う」

 加賀美がそれを聞いて、真剣な顔になる。

「そうッスよねぇ、偶然にしちゃ出来過ぎてるし」

「これ以上関わるなという警告だろうな。だとしたら平岡が一枚噛んでると見ていいだろう」

 あの男の薄ら笑みが脳裏に浮かぶ。

「もう一度塀の中にブチ込んでやる」

 そう言って俺は乱暴に煙草を灰皿に押し付けた。

 加賀美が新堂の額に置かれた濡れタオルを見て、ニヤついた顔で俺を見てきた。

「要さんって、新堂とか畑川には優しいッスよね」

「何言ってるんだ、俺は認めた相手には優しいんだよ」

 そう言って、煙草をもう一本取り出して火を点けると、立ち上る紫煙の中に、篠宮で見た異形たちの残影を見たような気になる。

 そこで、ある仮説に気付き、空になった空き箱を握り潰して、俺は加賀美を呼んで作業場に入り込んだ。

 ただの思いつきで、外れていたら大間抜けだが、備えあれば憂いなしだ。作りたいものを加賀美に伝え、明日の出発に間に合うように頼み込んだ。

 彼は不満そうにしながらも了承し、まだ間に合うはずだと材料を買いに夜の街に出かけていった。

 星の見えない夜空を仰いで、上っていく紫煙を見つめながら、その中に篠宮で見た異形と沙也加の残像を交互に見る。

 やはり、まだ終わっていないのだろう。

 俺のやるべきことは、まだ残っているらしい。

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