二章 Descent
二章 1
一夜明けてから、私は再び
彼女は、
起きているときも、熱に浮かされたようなぼーっとした様子で私の声に応答するだけだったが、それも無理はない。自分の探偵事務所が焼失したのだ。
それだけで相当なショックだろうが、それに加えて朱音ちゃんは過去の出来事から、火災や炎そのものに相当なトラウマを抱えている。それを呼び起こさせたのだから、重大なストレスを受けてしまっているはずだ。
ならば今私に出来ることは、余計な負担にならないように出来るだけお世話をすることだけだった。
朱音ちゃんは今も、小さな寝息を立てて眠っているが、その表情はやはり険しい。眉間にしわを寄せて脂汗をかいており、とても苦しそうな様子だった。
処置が合っているのかは分からないが、やらないよりはマシだ。そう思った私は、冷たく絞ったタオルで、彼女の額に浮く汗を拭き取る。
今はこれしか出来ないことを悔しく思い、一刻も早い回復を願いながら、部屋を後にした。
「おう、様子はどうだった」
店のカウンターを挟んで、奥の作業部屋の方から加賀美さんが顔を覗かせた。
「まだ良くはないみたいです。……あの、加賀美さん、本当にありがとうございます。急だったのに」
小麦が縮こまってそう言うと、彼は微笑して「気にすんな」とだけ言った。
すると、受付の横にある来客用の応接室の扉が開いて、
彼女においでと促し、改めて加賀美さんのいる方へ向かった。紫苑ちゃんはリンクスを装着している。それについて何か情報が得られないか、加賀美さんへ話を聞くためだ。
紫苑ちゃんの耳元を検めて、加賀美さんは口をへの字に曲げ、横に置いてあったタブレットを触りながら唸っている。
「作られたのは三年くらい前、登録されている日付もその辺りだ。この刻印は本物だな。照会してみるか」
加賀美さんがスクロールするタブレットを、不安そうな紫苑ちゃんと共に覗き込む。目的の項はすぐに見つかった。
「箱守紫苑……。おお、あったぜ。登録は問題無さそうだし、製造元も……おいおいMST製かよ、スゲェ高級品だな」
加賀美さんがタブレットを机に置いて呟きながら、紫苑ちゃんのリンクスをまじまじと見つめる。
「そんなに凄いんですか?」
私が聞くと、加賀美さんは目を輝かせながら言った。
「おう。ミズシマサイエンステクノロジー、略してMSTって言うんだけどな。ここの作るもんはリンクス含めて、超高級品ばっかりなんだよ。金持ち向けの嗜好品ってわけじゃなくて、ちゃんとハイエンドな性能を搭載してるんだけどな」
こういう専門の話をする時の加賀美さんは、まるで子どものように無邪気だった。
私には難しくて良く分からないが、それほどの一級品を身に着けているということはやはり、紫苑ちゃんの家柄が凄いのだろうかと改めて思わされる。
「最も、最近じゃビルの事故か何かが起きて人気が低迷しちまったけどよ。そんな良いものつけてるって事は、いいとこの子ってやつかね」
加賀美さんの言葉を聞きながら、タブレットが浮かべる登録名を見つめても、紫苑ちゃんは難しい顔をして頭を振った。
「……やっぱり、これが自分の名前だって思えません。育った家も、家族も、どんなのだったか思い出せない」
そう言って、彼女は肩を落とす。加賀美さんも残念そうに鼻を鳴らした。
「ま、俺に出来るのはそんくらいだな。あとはせめてこれ以上悪さしねぇように、最新型にアップデートすることくらいかな。数年経って何もいじっちゃいねぇなら、不具合も多そうだしよ」
そう言うと加賀美さんは、紫苑ちゃんの耳元からリンクス本体を外した。
リンクスは耳の後ろに埋め込まれた接続端子から、専用の器具を使って取り外しが出来る。紫苑ちゃんは自分の耳元に残った端子の受け口を触って、不思議そうにしていた。
「あの、なにもそこまでして頂かなくても……」
紫苑ちゃんが申し訳なさそうにそう言うが、好意は素直に受け取れと返して加賀美さんは作業部屋に引っ込んでいった。
「ああいう人なんだよ。困ってる人をほっとけないみたい」
私は紫苑ちゃんの耳元で、わざとらしく作った悪そうな声で「しかも、無料だよ」と言っておどけてみせた。
彼女はそれに少し笑って、しかしまた目を伏せた。少しでも元気付けようとしたが、まだまだ彼女の抱く不安は大きいのだろう。
むしろ逆に気を遣われてしまったかもと思い、私はばつが悪くなり、そわそわと受付カウンター前の椅子へ腰を下ろす。
これからどうすればいいか、迷っていた。
最良の選択をしようとしても、朱音ちゃんと違って決断力の無い私にはすぐに決められない。
それにあの時、
上手い表現が思い当たらないが、村人や土地そのもの、つまり村全体が妙に曇っていたような気がする。透き通った田舎の冬の空気には似つかわしくない、滞留して淀んだ煙が纏わりつくような、気味の悪さ。
足を取られたが最後、そのまま抗えない大きな力に飲み込まれ、遥か遠くへ連れて行かれて、もう二度と戻ってこれない……そんな感覚がしたのだ。
「朱音さんや小麦さんの周りには、いい人たちが多いんですね」
紫苑ちゃんが自分から話しかけてきた。改めて目を合わせ、顔をまじまじと見ると、彼女はさっきよりいくらか穏やかな顔だった。
自分から積極的に会話をしてくれるようになった様子に、私はひとまず安心感を抱いた。
昨日、色々なことが起きたので落ち着くまでは時間がかかると思っていたのだが、その心配は杞憂になるかもしれない。
「うん。ありがたいことにね。始まりは奇妙な縁だったけど」
「……わたしにも、友達とか居たのかな」
紫苑ちゃんは穏やかな顔のまま、しかし奥歯を噛み締めてそう言った。
その言葉を聞いてやはり、彼女は並々ならぬ孤独感を感じているのだろうと分かる。友人が居るのかいないのか、それすらも分からないという事を想像して、悲しくなった。
「素敵な友達がいると思うよ。いつか、思い出せる日が来るといいね」
私の言葉に、紫苑ちゃんは僅かに目を潤ませて頷いた。その居た堪れない様子を見ていると、どうにかしてあげたい、という気持ちが強くなる。
そして、私はあることを思いついた。
実のところ、以前からこれに関して出来るか否かを考えたことはあったのだが、何故だか今、急に可能であると確信を持つに至った。
それは、私の持つ記憶を読み取るこの能力を、逆行させて使うこと。
すなわち、「相手に記憶を植え付ける」という事だ。
もしこれが出来れば、例えば篠宮村や、それ以外のどこでも良いが、ある場所から読み取った彼女に関する記憶を、本人に返すことが出来るのではないか。
生まれ持ったこの不思議な力は、実のところ自分自身にも理屈が分からない。どう使えて、どう作用するのか、細かい部分は分からないことの方が多い。
手や足を動かす時、その順序や神経の作用などをいちいち考えたりはしない。それと同じだ。
曖昧な感覚だが、なんとなくこれをするとどうなるか、どうすればいいかは分かる。そしてその私の感覚が、記憶を植え付けることは可能だと教えてくれる。
私は涙を拭う紫苑ちゃんの前に立ち上がり、その両手を握った。いきなり何も言われずに手を掴まれた彼女は驚いていたが、私は構わず手を握り続ける。
「ごめんね、ちょっと実験」
そう言って目を瞑り、集中する。何か自分の中に影響の少ない、他愛のない記憶はないか、過去の自分の経験を大雑把に思い返す。
思い当たった記憶を頭に思い浮かべ、同時に、紫苑ちゃんのイメージを強くはっきり形にしていく。
すると、やはりどうやったのかは自分でも分からないが、その記憶の中に紫苑ちゃんの姿を投影出来た。記憶の光景の中で、その場に居なかったはずの紫苑ちゃんの元へ向かい、同じように手に触れる。すると──。
「……朱音さんって、あんな可愛いものが好きなんだ」
紫苑ちゃんがそう呟いて、しかし困惑している。私はまず補足した。
「意外でしょ。子供っぽいファンシーなものが好みなんだって」
「どうして……わたし、朱音さんの事なんてなにも知らないはずなのに」
私が思い浮かべたのは、隠していたユニコーン柄のキャンディボックスを見つけられて赤面する、朱音ちゃんの姿だった。
一緒に住むようになり、掃除をほとんどしない朱音ちゃんの代わりに事務所を片付けていた時、私が引き出しから発見してしまったのだ。
ディフォルメされた可愛らしい小さなユニコーンが空を飛ぶ柄は子供向けに見え、誰か依頼者から貰ったお礼か何かだろうかと思って眺めていた。
その後、物凄い速さでひったくって大げさに否定する朱音ちゃんの姿が妙に可愛くて、とても良く覚えている。他愛無いが印象的な記憶だった。
どうやらこの私しか知らないはず記憶を、紫苑ちゃんに植え付けることが出来たようだった。
だがやはり、何故出来たのか、何故出来ると確信したのかは、遂に分からなかった。分からなかったけれども、その結果には高揚を覚え、思わず声を張った。
「記憶を移すことが出来たんだよ……! って事は、紫苑ちゃんの記憶を元に戻すことも出来るかもしれない!」
紫苑ちゃんは目を丸くして呆然としていたが、数秒かけて話を理解したのか、ゆっくりと口角が上がり、初めて小さな笑顔を見せた。
「記憶が……取り戻せるんですか?」
「うん、紫苑ちゃんが昔どこで過ごしていたか分かれば、その場所の記憶を私が読み取って、戻すことが出来ると思う!」
まさに僥倖と言える進展だが、唯一の問題点としては、肝心の彼女が過ごしていた場所が、篠宮村だということだ。
やはり、もう一度あの村へ向かわなければならない。私は覚悟を決めようと、深く深呼吸した。
「おーい、リンクスの調整出来たぞ」
加賀美さんが作業場の方から出てきて、紫苑ちゃんから外していたリンクスをつけ直した。
「悪いとこは無かったぜ。ファームウェアも最新にアップデートしといたからな」
紫苑ちゃんが加賀美さんにお辞儀して何度もお礼を言った。
「俺の連絡先も勝手に入れといたからよ、もし何か困ったらいつでも来いよ」
そう言って加賀美さんは自分の左耳の裏を指差し、リンクスをトントンと叩いて示した。
加賀美さんは元々リンクス装着者ではなかった。
彼の工房で見習いとして働いていた、
私はその時の様子をよく覚えている。インプラント初日にフラフラになりながら動き回り、常人なら耐えられないと言われていた作業を見事にやりきり、彼の活躍で幽霊ウイルスを駆除するプログラムが作られる助けになったのだ。
「リンクス、使いこなせるようになりました?」
私がそう言うと、加賀美さんは悲しい笑顔を浮かべて言った。
「おかげでもう、客との
いなくなってしまった誰かを想う気持ちは、この人にも強く存在する。強靭な精神力がなければ、対抗するプログラムを作るための解析を待つ間に、脳を侵すウイルスに抵抗し続けることなど出来ない。
この人もまた、朱音ちゃんのように誰かの為に行動が出来る人だった。
今まで私は、朱音ちゃんに頼り切り過ぎていた。一緒に探偵業をやっていくと決めたのは、誰かの幸せを願うためでも、朱音ちゃんに恩を返すためでもない。
他ならぬ、私自身の成長のためだったのだと思い出す。
私は自分のことを、占い師として誰かの背中を押してあげるだけの存在でも良いと思っていた。
しかし、行動や決断を伴わなければ、どんな人間だろうとどんな言葉だろうと説得力を持たない。確かな強い意志を持つ人の言葉だからこそ、迷っている人の心に届き、響くのだ。
私は、この子を助けたい。出来ることなら、といった曖昧な表現ではなく、必ず助けると誓う。
きっと私の能力が変化しているのも、こういう心境の変化が起こっているからに違いない。
「行こう、紫苑ちゃん。私があなたの記憶を取り戻すから」
紫苑ちゃんは、そう言って立ち上がった私を見上げて頷いた。僅かに、瞳の奥に光が宿っている気がする。
「一人で行くのか」
加賀美さんが慌てた様子で止めようとするが、私はそれを制止する。
「心配しなくても大丈夫です。危険なことはしませんから」
私が声を張ってそう言うと、加賀美さんはそれ以上何も言わなかった。
その代わりに、車の鍵を手渡した。
「配達用だけど、最近は用がねぇからよ。使いな」
そう言って、私が返そうとする素振りをする暇なく、「ぶつけんなよ」とだけ呟いて奥へ引っ込んでしまった。
私は彼の気遣いをありがたく噛み締め、紫苑ちゃんを連れて、再び篠宮の地へと向かった。
自分から大きな行動を起こそうと思ったのは、初めてのことだったかもしれない。
あの不気味な地へ再び赴くのには多少勇気が必要だし、
前向きな言葉が、こんなにも人の原動力になるのだということを、私は初めて知った。
「まれびとに気をつけて」
車に乗り込んだ時、助手席の紫苑ちゃんが、まっすぐ私を見つめてそう言った。
「え?」
私が聞き返すと、紫苑ちゃんはぽかんとした様子で「どうかしましたか?」と逆に聞いてくる。
「今、何か言った?」
「いえ、なにも……」
そう言って前を向き直す紫苑ちゃんを見て、やはり記憶喪失の影響が続いているのか、色々と混乱しているのだろうとその時はそう思った。
だが、なんとなくその単語の持つ雰囲気に、私は何故だか少し不気味な印象を抱いた。
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