一章 6

 畑川はたかわ小麦こむぎ


紫苑しおんちゃん、怖いと思うけどごめんね。すぐに私達に着いてきてほしいの」

 私は出来るだけ平静を装って、千代ちしろ邸の二階で縮こまって隠れていた紫苑ちゃんにそう声を掛ける。

 彼女は涙を零して震えながら、それでも私たちだと認識したら少し表情が和らいだ。

「事情は説明してられないし、昨日会ったばっかで無理があるだろうけど、あたし達を信用して欲しい」

 そう言って伸ばした朱音あかねちゃんの手を怯えながらも掴み、ベッドの下から這い出てから、彼女は震えた声で一言だけこぼした。

「千代先生が……死んじゃった」

 どうやらもう説明するまでもなく、彼女はその事実を知っていた。千代さんが死んでしまった故に逃げてきたのか、それとも千代さんに逃げるよう促されたのかは分からないが。

「……行こう」

 未だ震える紫苑ちゃんを抱えるようにして外に出て、車に素早く乗り込む。

 家を出る時、リビングに飾ってあった千代夫婦の新婚旅行写真が目に入った。

 そこに写し取られた幸せの一瞬を見て、私は強く胸が締め付けられる。昨日見た記憶の中の光景が蘇り、思わず溢れる涙を必死に堪えた。

 今の私にはせめて、穂香ほのかさんの無事を祈ることくらいしか出来なかった。

「とりあえず、事務所に戻ろう」

 後部座席に私と紫苑ちゃんが座るのを確認すると、朱音ちゃんがそう呟いて乱暴にアクセルを吹かし坂道を下っていく。

 あっという間にメイン通りまで降りてきて、村の景色を後ろに置いていくような速さで朱音ちゃんは車を飛ばす。

 いつもは荒い運転に注意をするものだが、今は四の五の言っていられなかった。

 揺れる車内で、私は先程、紫苑ちゃんの記憶に潜ったときのことをまた思い出していた。

 前提となるものが何もなく、あるのはただ単純な焦燥感と不安、そして、とてつもない絶望と孤独。

 ただ唯一、千代先生しか頼る道がないのだが、それもいつか途切れてしまいそうなほどか細い道だった。そして、今やその道すら本当に途切れてしまった。

 自分が何者であるか分からない。頼れるものが何一つ存在しない。それがどんなに恐ろしく、また寂しい事かは、想像するに難くない。

 私はかつて自分が営んでいた占いの館を思い出す。

 営業を辞めるきっかけは、近しい人をその場所で亡くしてしまったからだった。太陽のように明るい、前向きな女の子。その子は、「さやかの呪い」で死んでしまった。

 そんな辛い思い出のある場所で、誰かの幸せを願うことなんてもう出来ない。事件の現場になってしまったからという事以上に、そう思ったのが大きな要因となった。

 そして、紫苑ちゃんがもし千代さんの死の現場に居合わせていたのなら……。自分の境遇と重ね合わせて彼女の事を考えると、どこか他人事に思えない。

 しばらく走った後、比較的緩やかな道に差し掛かった頃、私は口を開いた。

「あの演劇みたいに喋ってた人……」

平岡ひらおかじゅん

 私が最後まで言い終わる前に、朱音ちゃんが吐き捨てるよう嫌悪感たっぷりに答えた。私も同じ名前を頭に思い浮かべていた。

 YOMIヨミというメタバース、ひいてはそれを管理するAI「イザナミ」に信仰を抱く、新興宗教「伊邪那美いざなみの声」の元代表、それが平岡純だった。

 この団体は、人が亡くなった家に訪れ、YOMIの誓約を勧めてくる。「救いは現世ではなく、メタバースにこそある」「死後に赦しが得られる」そんな教義だった。

 だがその実態は、カクリヨ社と癒着して信者と同時にYOMIの利益を上げる、ただの詐欺組織だった。

 カクリヨ社は効率良く黄泉人よみびとの誓約を増やせるし、それに伴って伊邪那美の声には信者が増え、その献金も増えていく。そんなカラクリだった。

 私も朱音ちゃんも、一度奴に会ったことがある。知り合いが死んだその次の日、黄泉人としての覚醒を勧めに探偵事務所までやってきた。

 その時に朱音ちゃんが、自分の名前を看破されていることに相当の恐怖心を抱いていたのをよく覚えている。彼女が偽名を使うようになったきっかけでもある。

 個人情報を何処かで不正に入手していたからなのだろうが、探偵として自分自身の情報の取り扱いには人一倍気をつけていたであろう朱音ちゃんが感じた恐怖は察するに余りある。

「塀の中にブチ込まれてるはずじゃん……。何で居るんだよ」

 朱音ちゃんが見たこともないほど機嫌が悪そうに眉をしかめてまた吐き捨てた。

 平岡は先程の様子から、朱音ちゃんの事も私の事も知らない風だったが、果たして本当にそうだっただろうか? いや、有り得ない。

 あの演技のような口調、わざとらしい大きな身振り手振り、まさしく詐欺師の振る舞いではなかろうか。全部分かっていて、あえて自分たちを見逃すような真似をしたのは間違いない。だがそうだとして、一体何の意図があるのだろう?

「……あの人、何回も医院に来てました」

 おもむろに、紫苑ちゃんが掠れた声で喋り始めた。

 彼女は千代さんに保護されてから数日の間は憔悴が激しかったそうで、療養の為に医院内でしばらく過ごしていた。

 数日経つと、平岡とその取り巻きが連日のように押し寄せてきたそうだ。紫苑ちゃんは隙間から覗いただけだが、人影の中に平岡の顔があったのはハッキリ覚えているという。

 千代さんと何事かを言い争っているようだったが、いつも一方的に千代さんが追い返していたそうだ。

 もしかしたら、そこで何か見聞きした重要な情報があるかもしれない。私はそう思い、紫苑ちゃんの手を取る。

 しばしの暗闇の後、明るくなった景色は、あの千代医院の病室の天井を映していた。

 隙間からこっそりと廊下の様子を窺う紫苑ちゃんの姿が見えたが、平岡の顔がこちらを向いた瞬間、見つかるのを恐れて慌てて離れる。

 そっと聞き耳を立てるが、会話は断片的な言葉しか聞こえてこない。

 かろうじて聞き取れたのは「御三家」「昇華」「お父様」の三つほどだった。だが、それだけでも重要な情報には間違いない。私は記憶から戻り、朱音ちゃんに見たものを伝える。

「まさか、村に住み着いた外部の人間ってのが、平岡の事なのか」

「そうじゃないかな。何のためにあんな事してるのかは分からないけど……」

 あの村人たちの様子を見るに、何にせよろくでもない事なのは予想できる。

「あの……あなたは一体……」

 紫苑ちゃんが私を見上げる。彼女からしてみれば、私の能力は不可思議に思えるだろう。何回も体験させたとは言え、改めて彼女に説明する必要があると思い、私は彼女にゆっくりと聞かせる。

「私ね、昔から人や場所の記憶が見えるんだ。変だよね」

 紫苑ちゃんは少し怪訝そうにしていたが、何回も彼女の記憶の中に潜っているからだろうか、特に追求してくるようなことはなかった。

「でも、存在しないものは見れないみたい。ごめんね」

 私が出来るだけ優しくそう言うと、紫苑ちゃんは「そうですか……」と小さく言って目線を落とし、少しだけ近くに身を寄せた。

 この子の孤独を本当に分かってあげられるのは、今や自分だけなのかもしれない。そう思うと、私はより一層胸が傷んだ。

 もうこの子には、寄り添う場所が無いのだ。あったのだとしても、それを思い出すことが出来ない。

 私は、色んな場所や人物の記憶を見てきた。その中には目を背けたくなるような悲劇もたくさんあったが、辛いことだろうが楽しいことだろうが、何も存在しない虚無の記憶というのは初めて経験した。

 私が紫苑ちゃんの記憶の中で見た中でも印象に残っているのは、底のない真っ黒な虚無の穴。

 それはとても冷たく、無慈悲で、容赦が無かった。何もないから、永遠に底に着くことがなく、ただ落ち続ける。恐怖と不安に苛まれながら、ずっと。

 あんな思いを永遠に一人で味わい続けるなんて辛すぎる。

 ならば少しでも、自分が寄り添うことで救いになるなら。孤独を軽減できるのなら、そうしてあげたい。

 誰かの幸せを叶える手伝いを続けてきた私にとって、そうするのが最善だと思った。

 たった一羽で飛び続ける鳥が羽を休める、宿り木のような存在になれたら。私はそう思い、寄り添ってくれた紫苑ちゃんの肩を強く抱きしめた。


 街につく頃、辺りはすっかり夕暮れになっており、黄昏が車内にも差し込んできた。

 周りの景色が、徐々に見覚えのあるものになっていき、事務所が近づいてきたのだと分かる。

 だがそれと同時に、街の喧騒が大きくなっていくのに気付いた。そして、何かいつもと違う街の臭いがする。

 最初は夕飯時のようだった何でもない印象のそれが、今では何かが焦げたような臭いに変わっていった。

 火だ。これは、火が何かを焼いている臭い。それも、かなり大規模な。進むに連れて、それはハッキリと臭ってくる。

 何か変だ。胸騒ぎがする。遠くからサイレンが響いていたのが大きくなってくる。

 次の瞬間、急に車が停まり、運転席の朱音ちゃんが身動きをしなくなった。微かに震えているようで、覗き込むと、彼女は目を見開いたまま正面を見つめ、脂汗を浮かばせている。

 その視線の先には、ビルを覆うような真っ黒な何かがあった。今車を停めた交差点の曲がり角、その先から大きな黒煙が顔を覗かせている。

 焦げ臭さが一層強くなっている。確かあの道の先は、探偵事務所ではなかったか──。

 嫌な予感はどんどん強くなっていった。

 朱音ちゃんはハンドルを爪が食い込むのではないかというほど強く握ったままだ。見開いた目からは遂に涙が溢れ、呼吸がどんどん荒くなってきている。

 思わず私は車外に飛び出し、交差点の先へと一気に走った。曲がった先から飛び込んできた光景は、にわかには信じ難いものだった。

 ビルの一角から激しく揺らめく大きな炎が吹き出し、それに煽られたように勢いよく舞い上がる黒煙が周囲に撒き散らされている。熱風が頬を執拗に撫で、あまりの熱で目を開けることが難しかった。

 周辺には野次馬が集まり、騒ぎ立てて写真を撮っている。燃え盛るビルの中から咳き込みながら駆け出てくる何人かもおり、救急車はまだか、消防はまだかと怒号があちこちから飛び交っている。

 それらすべてが夕焼けに照らされ、私もその中の一部になっていた。

 道路に落ちている、焼け落ちた看板の中に「」と書いてあるのを見つけ、これが現実に起きていることなのかハッキリと理解出来ず、私はその場に崩れ落ち、勢いの落ちない火の海を見つめながら、ただ呆然とする事しか出来なかった。

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