一章 5

 新堂しんどう朱音あかね


 篠宮しのみや村の役場は、内部に図書館が併設されている。

 少し技術化の遅れている田舎には、データ化されていない紙媒体の書類や資料がいくつもある。

 これらはオンラインでの閲覧が不可能であるゆえに、こうして現地に赴くことでしか調べられない、非常に貴重であり、そして非常に面倒なものでもある。

 あれから一夜明けた朝、私は小麦とともに、郷土史のコーナーで民俗学について調べ回っていた。

「ねぇ、そう言えば昨日飛ばしたドローンは?」

「夜中に回収したよ。バッテリー死にそうだったから充電中。マッピングデータは取れたから、麦ちゃんにも共有しとく」

 小麦こむぎの問いに答えながらも、私は昨晩の事について考えてしまい、折角調べ物をしているというのに「篠宮村の歴史①」と描かれた本の内容についてまるで咀嚼出来ない。

 文字を読むというのが嫌いなわけではないのだが、集中していない時に読む文章は文章にならない。眼前の文字たちを意味のある文章として認識出来ず、ただ単語だけがフワフワと浮いているようにしか見えない。

 それもそのはず、集中出来ないのには相応の理由がある。また私は「林藤りんどう七彩ななせ」らしき人影を見てしまったからだ。

 彼女の姿を見るのはこれで二度目、もはや見間違いや幻覚などではないと自信を持って言える。

 しかし思い当たるのはやはり「さやかの呪い事件」で受けた何かしらの影響が私の中に残っているということだけだ。

 リンクスを介してYOMIヨミへと接続してしまうと、仕込まれたウイルスが人間の脳に作用し五感野ごかんやへの介入が行われ、実際は存在していないはずの女の姿を目にしてしまう。

 それはやがてメタバース空間内だけでなく、現実でも認識されてしまい、最終的に強い自殺衝動を起こして人を死に至らしめる……というのが呪いの真相だった。

 しかしこのウイルスは既に浄化が行われているはずだ。私には特段感染の疑いがあるわけではなかったが、それでも一応深く関わった人間として、駆除を受けている。

 幽霊など、もはや見えるはずがないのだ。

「昨日の千代ちしろさんの話、どう思う?」

 小麦が本を捲る手を止めて、そう聞いてきた。

「村のパワーバランスが外部の人間によって崩された。って事は、その余所者たちっていうのは、御三家とやらが持つ影響力を削ぎたいんじゃない? あの話し方だと、今はもう鏑木かぶらぎとかいう家が一番強いんだろね」

 ドローンにマッピングさせた地図からの情報によると、この村は約三百平方kmという広大な面積を誇り、その東西南北の全方位に山林地帯が広がっていて、唯一東側に国道に続く道路が伸びているだけだ。

 残る三方向にはその全てに連峰が連なっていて、村の中心地であるこの場所から西に向かって渓谷が伸びていのだが、渓谷には川に沿って道路が敷かれ、脇道を北に逸れると登山やスキーなどのレジャー施設へ続いている。

 さらに西へ進んでも、中間点でダムなどを経由しながら、山奥の大きな貯水池を終点としている。

 まさに、陸の孤島という表現がしっくり来る。

 家屋や建物などは村の中心地であるここら一帯がメインで、あとは山の中にある伐採所やその管理施設などの工業関係のものか、スキー場の施設などだ。

 こんなに閉塞的な村ならば、外部との繋がりも非常に薄かっただろう。幸い土地は広く、渓谷に沿って開墾された場所は沢山あるし、名物や特産品が山の幸ばかりなのを見ると、村民が自給自足していくのは問題無かっただろうが。

 生きていくのが今よりも遥かに難しかった昔の時代だからこそ、村民同士の団結力は計り知れないものだったと推測できる。

 そんな中で、より強い結束を生む「信仰」の存在は不可欠だったと言えるだろう。

 強い信仰は希望を生み、希望は未来へ繋がる。

 しかし時代が進んだ今では、外部からの影響が無いと生きていけなくなるというのも頷ける。

 実際にオンラインで調べた限り、村の人口は減少傾向にあり、今では総人口が六百人ほどしか居ないらしい。さすがに限界集落とまでは行かないにしても、若い世代が少ないのは確かだろう。

 それ故かどうなのかは分からないが、千代の言っていた「外部からの人間が増えた」というのもある種必然に思える。そうしなければ、村はいずれ消滅する。

 だがそのせいで村の権力差が変わるというのは引っかかる。鏑木家とかいう一族の影響力が高まったとして、何が変わるというのだろうか。

 やはり、あの昔話……「御業みわざ」とかいう話に関連があるのか。

「でもそれにしたって、紫苑しおんちゃんを匿うほどなのかな?」

 小麦が首を傾げて不思議そうに宙を見つめる。

「村の土着信仰を盛り上げてるって話だったでしょ」

 私がそう言うと、小麦はしばし考え込んだ後、青ざめた顔で声を張り上げた。

ってこと?」

「声がデカイよ。……あたしはそうじゃないかなぁと思ってる。儀式だ何だって理由をつけて有力者を排除して、外部から来た奴ってのが支配権を握る。そんなところじゃないかな」

 そうでなければ、同じ御三家だという千代があれほどまでに紫苑を匿う理由が無い。少なくとも彼女に危険が及ぶ可能性がなければ、あんな真似はしない。

 鏑木という家を脅威に感じ、千代、箱守はこもりの両家が結託し抵抗してると見て間違いないだろう。

 だけどそれにしたって、わざわざ移動に三時間もかかるところまで来て、「幽霊騒動に強い」というだけで私達に依頼をするのも考えてみれば妙な話だ。これでは幽霊騒動ではなく、内々のゴタゴタに巻き込まれただけではないか。

 きっと千代はまだ何か隠してる。私達を選んだ理由や、村の事も紫苑の事も、まだ全部話したわけではないだろう。

 そこに悪意など無いのだろうということは彼の人柄を見れば分かる。だからこそ、何故そこまでして事情を徹底的に隠すのかを知りたい。

 もう一度彼に会って、問い詰める必要があるかもしれない。

「あ、これ見て」

 小麦が本の一節を指差し、私の方へ向けて見せてくる。そこには、村の土着信仰についての概要が書かれていた。

 しかしその内容は大方、昨日千代から聞いた通りだ。

「ふーん。正式な文献に記録が残るほど有名だったわけね。少なくともこれに関しては嘘をいてないって事だね」

「私が気になったのはこの部分だよ、ホラ」

 小麦が示しているのは、死者の葬列についての部分だった。確かに私も昨日の運転中、遠くにこれと似たものを見ていた。

「ずっと気になってたんだ。死者との対話って、なんかYOMIみたいだなって」

 小麦の言葉に、私は一瞬固まった。

 確かにその通りだ。YOMIが提唱していた文句は「」である。

「神道だと死は穢れとされていたから、葬列によって穢れを祓う意味があるの。死者が帰ってこないようお墓まで連れていって、家に帰る時は塩や酒でお清めするのもそのため。でもこの地域の葬列は、死者の家でその人と最後のお別れのための対話をするらしいよ」

 一瞬、職業柄か、無理やりこの伝承をYOMIと絡めて考えようとしたが、それは私の悪い癖だ。

 大方、YOMIを最初に考えた人物がこの話をどこかで聞いて参考にしたとかそういったものだろう。

「本来、人の死っていうのは、こういう向き合い方をするべきだよ」

 小麦は始めからYOMI反対派だった。自然の摂理に合わないからだと。

 私にもそれは理解出来る。永遠に変わらない、普遍的な黄泉人よみびとというのは、電子的に出来たデータであり、紛い物にしか見えない。

 だがそれでも、死んだ人間にもう一度会いたいと望む人の心の救済になっているのも確かだった。そういう人たちを何度も見てきたから分かる。

 私にも、もう一度会いたいと強く思う人がいるからこそ余計に共感する。

 それからしばらくの間、土着信仰について調べてみたが、千代から聞いた以上の情報の収集は芳しくなかった。

 次の本を取ってこようと立ち上がり、列になった本棚の郷土史コーナーへ戻る。

 角を曲がった時、不意に現れた誰かに気が付かず、その人が持っていた本ごと盛大にぶつかった。

「すみません……!」

 私は慌てて咄嗟に謝り、落ちてしまった本たちをかき集めた。ジャンルもバラバラで規則性がないものばかりだったが、返却用のタグがついているのに気が付き、顔を上げた。

 ぶつかってしまった女性は役場職員の格好をしており、「北澤きたざわ」のネームプレートが目に入った。返却された本を棚に戻す作業中だったのだろう。

 彼女はしばし立ったまま私を見つめていたが、我に返ったように本を拾い始めた。

「いえ、私もぼーっとしてたので……大丈夫ですか?」

 見開かれたような大きな瞳が印象に残るその女性は、私の拾った本を受け取ってそう聞いた。抑揚のない、感情があまりこもっていない声のトーンだった。

 私は頷いてもう一度謝り、彼女の脇にある返却用のカゴに目をやると、そこにある「篠宮村の歴史②」を指差した。

「それ、頂いても?」

 彼女はこくりと頷き、私にそれを渡してくれた。

「失礼ですけど、村の人じゃないですよね? 歴史に興味があるのですか?」

 不意にそう話しかけられ、私は少し驚きながらも、あらかじめ用意していた「返事」をする。

「えぇ、街の大学で民俗学を研究してる学生なんです。次の課題はこの村の課題にしようかと」

 探偵だとバカ正直に言いたくはないので、私はあらかじめいくつも「」を用意している。

 今回の場合、図書館で郷土史を読んでいて一番もっともらしいのは大学生だろう。

「そうなんですね。すみませんいきなり。勉強頑張ってください」

 そう言って立ち去ろうとする彼女の背中に、私は続けて声を掛ける。

「あの、御三家について詳しく書かれている本はあります?」

 彼女はゆっくり振り向くと、半分だけ顔を向けて答えた。

「……どうでしょう、その歴史本に書いてあるんじゃないでしょうか」

 そう言って彼女はすたすたと次の棚に向かった。

 自分から声をかけてきたので社交的なタイプかと思ったがゆえの質問だったのだが、意外とそうではなかったのかもしれない。

 どこか冷めきったような表情だったので、やはりこの場所は余所者には冷たい社会なのだろうと思い直し、私は本を持って小麦のもとに戻る

 それからしばらく二人で郷土史を調べ、集まった情報を整理していった。

 村の土着信仰「さんかく様」については、千代に聞いた情報が正しかったという裏付けになったということがまず一つの収穫だった。

 昔からこの地に根付き、自然が神格化された信仰で、昔は人知の及ばなかったであろう災害や病気を神の怒りと考え、儀式で人柱になる人間を供物として捧げた。

 正しく敬えばさんかく様は村に繁栄をもたらし、死後も神の元に仕えると信じることで死を神聖なものとして扱う教えだ。

 中でも特に、死んだ人間が「」と表現されていたのが印象的だった。

 そしてやはり、御三家に関する記述も千代の情報が正しかった。

 村全体の統括をする千代家、神事を扱う箱守家、治安維持を担う鏑木家。しかしやはりというか、鏑木家の暗い部分の記述や、「御業」についての記述は無かった。

 それでも僅かに、「祈祷によって病魔を取り除く」だとか「悪いことを予言する」といった部分の記述はあったのだが。

 正式な文献とはいえ、監修にこの村の人間が関わっているのは確かだろう。ならば村の持つ後ろ暗い面の記述は避けたかったと考えるのが妥当だ。

 ふと、図書館と廊下を挟んで隣り合った役場内の方に目線を向ける。

 先程の北澤という女性が、職員たちに小声で何かを喋っているのが見える。こちらを見つつの会話なので、私達の噂なのだろうと予想出来る。

 思わず聞き耳を立ててみると、うっすらと会話が聞こえてくる。

「よそ者ばっかりですね……さっきも知らない県外ナンバーの車が……」

 表面上では感じなかったが、やはり閉塞的な意識がこの村にも残っているのだろう。

 これ以上、文献記録からの調査は出来ないと見たほうが良い。それになによりも、居心地の悪さも感じてきた。

「朱音ちゃん、昨日の話なんだけど」

 切り上げようかと思ったその時、本を片付けた小麦が話を切り出してきた。

 その話もしなければならない。そうは思っていたのだが、どうにも切り出せなかった。七彩に纏わる話は、自分の弱い部分をさらけ出す事にもなる。そう考えると、いつも今一歩踏み出せないのだ。

「私にはね、お母さんが見えたの」

 その小麦の一言に、私は面食らった。全く予想していなかった一言だった。

 私は昨日、千代低の浴室で七彩の声を聞いた。

 声のする方を追いかけると、私達が案内された部屋に戻り、小麦が開けた窓の向こうに七彩の姿を確かに見た。

 彼女は何かを口にしようとしており、それを聞き取るために私は外に飛び出した。

 だが、小麦には違うものが見えていたのだと聞き、訳が分からなくなる。

「朱音ちゃんが七彩さんを見るのは、トラウマが原因か、まだどこかに残ったウイルスがリンクスに悪さをしているんだって思ってた。でも、私にも見えるっていうのは、変だよね」

 小麦は、母子家庭で育ったと聞いていた。そんな母も、病気で亡くしてしまったのだと。

 それも自然の摂理だと受け入れていたと聞いたし、それが彼女のトラウマになるとは思えない。本人もそう言った。

 それに、リンクスを装着していないのに見えたとなれば、理屈がもう分からない。

「お母さん、何かを言いかけてた。その時は分からなかったんだけど、後で考えたら、聞こえてた気がするの」

 それを聞き、私は昨日の七彩の姿を思い出そうとした。門構えの向こうに消える一瞬、彼女も何かを言いかけていた。

 私も、それを聞いた気がする。記憶の中の七彩の顔に集中する。

 屈託のない、太陽のような笑顔。それが消え、悲痛な表情で私に何かを伝えようとしていた。とても短い一文だった。口の動きを正確に追う──。

「「」」

 私と小麦の声が重なった。お互いに理解するのに時間がかかった。

 同じ言葉を聞いていた? 違う人物から?

 その瞬間、急に昨晩の記憶が鮮明に蘇った。七彩の隣、日本人ではない顔立ちの女性が立っている。あの場には、二人居たのだ。

 我に返ると、いつの間にか私の手を小麦が握っていたのに気付いた。

「ごめん、つい……」

 私に触れ、昨日の出来事の記憶をもう一度見返そうとした、というのは分かった。だが今の現象は何だ? 

 私がただ思い出しただけではない。まるで、小麦の能力をきっかけに私まで記憶の中に一緒に潜ったような感覚だった。

 鮮明に見えた七彩の姿だけではなく、風の音や気温、最後に感じたあの鉄臭さまで、五感全てで昨日の出来事を追体験したかのようだった。

「あれ、ねぇあの人、穂香ほのかさんじゃない?」

 小麦が指し示した方向を見ると、廊下の奥の役場内の方でこちらを見る一人の女性が居た。彼女は紛れもなく、昨日千代低でお世話になった穂香さんだった。

 先ほど北澤という女性と何事か会話をしていたのは穂香さんだったようで、こちらに気付くと、微笑みかけてはくれたものの、どこか困った様子でこちらへ向かうのを躊躇している様子だった。

 主人である千代の立場もあるだろう。探偵という怪しい職業の人間と親しかったと思われてはあちらにも迷惑がかかる。私も軽く会釈をするだけで返す。

 するとその時、役場の入口に勢いよく軽自動車が乗り付けるのが見えた。白と黒のツートンカラー、警察車両だ。

 瞬く間に警察の制服を着た村の駐在らしき男が役場内に入り、穂香さんに向かって何事かを捲し立てた。

 穂香さんは顔色を変え、弾けたように飛び出し、駐在らしき人物と共にパトカーに乗ってどこかへ向かっていった。

「嫌な予感がする。麦ちゃん、着いてってみよう」

 そう言って小麦を連れ、私も車に飛び乗って後を追った。

 役場を出る時、北澤という職員がじっとこちらを無表情で見ていたのが妙に気になった。


 それほど遠くない距離を走って到着したのは、昨日も訪れた千代医院だった。

 車を降りると同時に、医院の中から女性の金切り声がけたたましく響いた。

 外にはもう数名の人集りが出来始めており、田舎の情報が回る速さに寒気を覚える。

 玄関に向かおうとすると、入口で先程の駐在に制される。

「あんたら誰だ?」

「千代正樹まさきの知人です。何があったんですか?」

 まだ比較的若めのその駐在は、私たちを訝しみながらも、千代のフルネームを呼んだ事に気を許したのか、前に突き出した手を引っ込めた。

「……見に行かない方がいいと思うがね」

 その言葉に、予感が当たってしまったと確信しながらも、私と小麦は医院の奥の方へ向かった。

 昨日、紫苑が寝ていた部屋が開け放たれ、穂香さんがこちらに背中を向けた形で地面に座り込んでうずくまって嗚咽していた。

「穂香さん、何があったんで……」

 部屋に入って声をかけようとすると、穂香さんが悲痛な顔でこちらを向く。その向こう、影になって見えなかった位置の床に、千代が倒れ込んでいた。

 私は思わず、その顔を見た瞬間に全身が総毛立った。

 一体どんな目に遭えばこんな顔になれるのか想像出来ない。端が裂けるほど開かれた口の奥から、絶望に満ちた絶叫が聞こえてくるような気さえする恐ろしい顔をしていた。

 私は咄嗟にスマートウォッチのライトを点灯させ、千代の眼前に当てる。瞳孔が散大していた。そのまま口元に手を近づけてみるが、呼吸している様子もない。

 死んでいると見るのが妥当だ。

「通報があったもんで来てみたら、その時はもうこの状態よ。本署から応援がじきに来るもんで、もうあんたらは出ててくれんかな」

 いつの間にか駐在が脇に立ち、私達に部屋から出るよう言って、黄色と黒のロープを簡易的に引き始め、現状保存を始めた。

 言葉にならない声をあげ、半ば暴れるように身じろぎする穂香さんを小麦と一緒に抱え、医院の外に出る。

 外はもう既に人がたくさん集まってきていた。昨日見た光景からでは信じられない程の数の人間がいる。

 駐在が出てくると、人々は一気に質問を投げかける。誰がどうした、何があったと口々に捲し立てる村人たちを、駐在がやんわりと落ち着かせている。

「穂香さん、大丈夫ですか?」

 小麦の問いかけに、彼女は答えない。答える余裕が無い、と言った方が正しい。冷え切ったアスファルトの上に座り込み、自分を抱くような格好で震えて泣き続けている。

 ふと、道路から離れた位置にある、医院の裏口らしき扉が開いているのが見えた。コンタクトレンズをズーム機能に切り替え、その付近を拡大してみる。

 裏口付近は太陽光が入り込みづらいのか、道路側よりも積雪が多い。その中に、小さな窪みが奥の林の方に向かって、いくつもあった。

「麦ちゃん。あそこ、足跡がある。お願いできる?」

 私の頼みに、青ざめた顔の小麦はこくりと頷き「見てみる」と返事をして、不安そうな表情を浮かべたまま小走りで裏口の方へ向かった。

 それを見届け、引き続き穂香さんの様子を見ていると、人混みの喧騒が落ち着き始めた。道路側の方から数名がこちらに歩いてくる。

 その先頭を歩く、田舎の風景に似合わない小綺麗なスーツに身を包んだ、さっぱりした微笑を顔に貼り付けた優男に、見覚えがあった。

 それが誰であるか思い出した時、私の肌にこの上ない嫌悪感が鳥肌となって現れた。

「おや、あなたは……」

「千代正樹の知人ですが」

 相手の言葉を待たずして、私はそう吐き捨てる。この男は、知っている人間の中で最も気味の悪い人間だった。

 何故この男がこの村にいるのだ? いや、外に居ること自体おかしい。この男は服役中のはずだ。

 その男の脇には、先程役場でぶつかった北澤という女性が立っているのも見える。相変わらず冷たい表情で、彼女もこちらを見開いた目でじっと見つめていた。

「千代先生は?」

 スーツの男が駐在にそう訪ねると、駐在は残念そうに首を横に振った。

「そうですか。……皆様、千代先生は昇華されたとの事です。彼の御霊みたまが迷わずにさんかく様の元に辿り着けるよう、心を込めてのお送りにしましょう」

 そう言ってスーツの男は、腹のあたりに両手を置くとこちらを向けた状態で下げ、広げた指で逆三角形を作った。

 それを見た村人たちが、今度は手のひらを頭の上で掲げ、同じ様に正三角形を作ってお辞儀を返した。その一体感は見事と言っていいほど流麗かつ整然としており、だからこそ余計に不気味な光景に思えた。

 千代の言葉が頭の中で反響して響く。

『皆取り憑かれたように、さんかく様、さんかく様ってえらい言い出して、昔の信仰を取り戻すんだ、って……』

 私が今目の当たりにしているこれがその「」というわけだ。

隼人はやとくん、彼女たちは第一発見者ですか?」

 そう名前を呼ばれた駐在が三角形のお辞儀を直してから答える。

「いえ、最初に発見したのは通報を受けて来た俺ですけど……」

「ならば容疑者ではありません。取り調べは必要ないです」

 駐在はそう言われた事に困惑気味な表情のまま、しかし後ろに一歩引いた。

 何を言っているのだ? 自分で言うのも変だが、この状況なら私達は限りなく「容疑者側」に近い。

 余所者だということは隠し通せない。しかも千代の知人と名乗ってしまっている。

 まだ死因が不明な状態で、その場に外部の人間が居るとすれば、私が村側の人間の立場なら真っ先に疑う対象にする。なのにも関わらず、この優男に誰も反論しようとしていない。まるでそれが正しいと信じて疑わないといった様子で、憐れみの目さえ向けてくる者も居た。

 この状況は私に、耐え難い気味悪さを覚えさせる。胃の中身が喉までせり上がるような重苦しい不快感を覚え、顔が引き攣っていくのを感じる。

 スーツの男の隣で瞬きもせずにこちらを見続ける北澤も、その後ろに佇んだ、長身で生気のない真顔を貼り付けた銀髪の男も、誰一人として言葉を発さなくなった村人たちの目線も、何もかもが気持ち悪い。

 誰も言葉を発していないのに、誰も威圧的な表情をしていないのに、「これ以上関わるな」という重圧を何故か感じる空気感だった。

 駄目だ、この場所に一秒たりとも居てはいけない。私は反射的にそう思って、小麦の向かった方へ目線を投げる。

 彼女はいつの間にか傍にまで来ており、青白い顔のままこの状況に混乱している様子だった。異常な様子を感じ取ったのか、彼女は手短に小さく言った。

「逃げてる」

 それを聞いてひとまずは安心した。何故か分からないが、紫苑はこの場に居ない。恐らくは千代邸に逃げているのだろう。

 スーツの男は、わざとらしく考えるふりをして口を開いた。

「通報者というのは?」

「匿名の電話でした」

「ふむ、この中に通報者は?」

 集まった野次馬の全員にスーツの男がそう聞いても、その場の誰も名乗り出なかった。すると、駐在がこちらへ近寄ってきて言う。

「あんたらはもういいけど、奥さんには事情聴取せんと」

 駐在の男がそう言って、穂香さんの横に座り込む。穂香さんは、ぐちゃぐちゃになった顔で一瞬、私の方を振り返った。

 彼女の左耳の後ろにはリンクスが装着されているのが見える。と同時に、短距離通信でデータが転送されてきた。内容をすぐに確認してみると、パスコード解除のプログラムだった。恐らく家屋の施錠を解除する目的のものだろう。

 穂香さんも、事情はある程度知っていたのだろう。そのうえで私達に託したのだ。紫苑の保護を。

 穂香さんは立ち上がると、今度は駐在に肩を支えられ、パトカーの方まで連れて行かれた。

「……じゃ、あたしらは邪魔者みたいなんで、失礼しますよ」

 私がそう言って小麦の手を引いて車まで向かおうとすると、すれ違う瞬間にいきなり優男が私の腕を掴んだ。そのまま強く引っ張られ、口元まで顔が近づいた。

「お気をつけてお帰り下さいね、

 優男は耳元でそう言い終わると、指を艶やかに私の頬に添え、髪の毛を撫でた。

 言い知れぬ気味の悪さ、まるで全身に百足が這うような嫌悪が私の全身を駆け巡る。恐怖や嫌悪だけではない、異常な程の拒否反応に思わず立ち眩みすら覚える。

 もう立っているのがやっとなくらいだったが、今一度意識をしっかり保ち、そのまま小麦と共に車に乗って、アクセルを全力で蹴った。

 村人たちは全員何をするでもなく、去っていく私たちを見つめているだけだった。誰かが行く手を阻むことも、呼び止めることも無かった。

 最後に振り返った時、真顔の男だけがずっとこちらを無表情で見つめていたのが、不気味さをより加速させた。

「あの男の人、まさか……!」

 走り出した車内から村人たちが見えなくなる距離まで来ると、小麦が声を張り上げた。

 小麦にも見覚えはあるはず。私と一緒にあの男と一度顔を合わせているのだから。

 男の名前は、平岡ひらおかじゅん。かつて存在した新興宗教「伊邪那美いざなみの声」という団体の代表だ。

 死後の救済を謳いながら信者を増やし、信仰心を煽ってYOMIに登録させ、その実裏ではカクリヨ社と癒着しつつ、さらには騒動の原因となった幽霊ウイルスの拡散にも加担していた詐欺集団だ。

 しかし、事件の発覚後に組織ごと解体された挙げ句、代表者である平岡は逮捕され、服役中だったはずだ。こんな辺境の地で偶然の遭遇と言うのは無理があるだろう。

「キナ臭くなってきたなぁ、この依頼……」

 千代が何故あんなに必死になっていたのか、私にも段々分かってきた。

 篠宮御三家と「さんかく様」、記憶喪失の少女と、不審な死に方をした千代、そして平岡純。

 もう無関係とは言えない。奴が現れた以上、カクリヨやYOMIも関係してくる。

 私の脳裏に、「さやかの呪い事件」が過る。まさかとは思うが、全てはどこかで繋がっているのだろうか。

 千代低まで向かう間、平岡の薄ら笑いと演技掛かった口調と顔が、いつまでも残像としてフロントガラスに残り続けた。

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