一章 4
私自身が田舎の空気感を好む、というのもあるが、初めて訪れるはずなのにどこか懐かしく、郷愁を覚えるのだ。
先程まではまるっきり誰も見かけず、少々不気味にも思ったが、夕焼けに照らされてからは人の気配がちらほらと感じられた。
畑仕事から変える老人や、下校する小学生の集団、山林事業者の丸太を担いだいかついトラックなど、田舎らしい正常な光景があった。
しかしやはりというか、すれ違うその誰もが、私達に奇異の目線を向けてくる。
田舎特有の閉塞感からくる物珍しさが原因なんだろうが、こちらとしてはやはり気持ちの良いものではない。どうにも気恥ずかしいと言うか、気まずいと言うか、どうにも浮足立ってしまう。
もし私達が観光に来ているのなら、受け取り方はまだマシだったかもしれないが、今回は特に来ている理由も理由だし、余計に居心地の悪さを感じる。
極めつけは、道の途中で山の方角へ向かう細道のあたりに、黒尽くめの集団が歩いているのを見た時だ。
雰囲気から察するにおそらく、葬式か何かの関係だろうが、やはりこれも見ていて気分の良くなるものではない。
かつて占いというオカルトな事に身を置いていた私でも、興味は惹かれど、じろじろ見ていいものではないし、すぐに別の場所へ目線を向けた。
他人がジロジロと見てくる好奇の目線は苦手だ。それに嘲笑や軽蔑が混じっていたら尚更。
人と違うこと、普通と違うことが悪いことなのだろうか?
一瞬、過去の暗い記憶に落ちていきそうになり、暴力的な衝動が私に覆い被さってくる。
頭の中で、誰かがクスクス笑っている気がする。どうして、あんな酷いことが出来るのか。
──差別意識のあるものなんか、全部壊してやりたい。
握り拳が痛くなるのに気づき、私は慌てて別のことに集中した。
車窓の向こうの景色は移り変わっていて、先ほどよりも自然や木々の割合が多くなっており、冷たい景色に鮮やかな緑が沢山差している。
千代さんの家はそんなに遠くにあるというわけではなかったが、道中の景色の変化に気付くと、なんだか長い時間が経ったように感じる。
実際着いたのは、完全に日の入りを迎える直前、十七時頃だった。村に着いたのが十四時ほどなので、千代医院で過ごした時間を考えたら時間の流れは普通だ。
着いた瞬間、まずは驚いた。彼の家はもはや邸宅と言ったほうがいいくらい大きな敷地の中にあったからだ。
家の敷地に入る前に、車両用と人間用の二つがあるグレーを基調とした和モダンテイストの門構えを潜る必要があり、更にそのどちらもロックを解除するために所有者の認証を必要とするものだと言えば、その豪華さ、壮麗の様が伝わるだろう。
家屋自体もそれに負けじと見事な様相だ。昔ながらの日本の家屋──屋敷の方が表現が近いだろうが──で、昔は庄屋屋敷だったのだろう事が伺える。古臭さはなく、和洋折衷が成り立っていて小綺麗だった。
案内されたのは開放感のある洋風のリビングで、カウンターキッチンとダイニングが繋がる作りになっている。
いつも暮らしている事務所とは全く違う豪華な雰囲気に飲まれ、私はどこか落ち着かなかった。
だが、落ち着かない理由はそれだけではない。私は先程の医院での会話を思い出していた。
何故千代さんは、私に特殊な能力があると見抜いたのだろうか?
「ようこそ、千代の妻の
奥から出てきたおっとりとした雰囲気の女性が、そう名乗ってお辞儀をした。先程の千代さんの話から察するに、奥さんも事情を色々と知っているのだろうか。
ふとしーちゃんの方を見ると、彼女はこの家に慣れているせいなのか、先程のように怯えた様子はない。千代さんが夜はこの家で面倒を見ているというのは本当なようだ。
千代さんと対面し、私たちがソファへ座り込むと、穂香さんは湯気のたったマグを差し出してくれた。
コーヒーの香りがリビングを包んでいき、視野が広がった。
部屋にある家具や調度品は落ち着いた色合いで統一されており、そのどれもが綺麗に整理整頓されている。外観もそうだが、中の様子もいかにもな良家を感じさせる佇まいである。緊張は解けてきたが、それでもなんだか落ち着かない。居心地の悪さと言うか、自分に似つかわしくない場所だと感じているからだろうか。
一度深く深呼吸をして、
こういう時の彼女はやはり肝が座っている。警戒しているというのもあるのだろうが、先程からずっと冷静にしていて、普通にいつも通り振る舞っている。
「何故、彼女に特殊な力があると気付いたんですか」
私は口に運んだコーヒーを思わず吹き出してしまうところだった。
いくらなんでも単刀直入過ぎやしないか。
千代さんも、自分から話を持ちかけたとは言え、朱音ちゃんのド直球具合に驚いている様子だった。妻の穂香さんが部屋から出ているのを確認すると、千代さんは返事を返す。
「たまげたなぁ。行動は迅速、判断も迷いが無いし、理知的かと思いきやさらに度胸まであるとは思わなんだ」
千代さんは両の手のひらをこちらへ向け、ひらひらと振ってみせてから、深く頭を下げた。
「誤魔化しや嘘はもう無しです。大変申し訳無かった」
私は慌てて顔を上げるよう言って、朱音ちゃんが言った「千代さんは嘘を
「じゃあ、あの子の事を知ってるんですね?」
朱音ちゃんの問いに頷いた千代さんは、しーちゃんを見据えてゆっくりと重く頷いた。当の本人は困惑の表情で目線を泳がせている。
「この子は、
それから千代さんは、篠宮という村について詳しく話してくれた。
篠宮村の成り立ちは正確には判然とせず、記録に残っている限りでは恐らく平安の時代まで歴史は遡るという。
その頃世界は戦乱の真っ只中だったが、篠宮村の周辺は山林なので、木材の供給地として重宝され、尚且つ当時辺りを治めていた武家一族がそれなりに力を持っており、また誠実で義理堅い家柄だったということも手伝ってか、村民は比較的安全で平和な暮らしをすることが出来た。
林業が発展していくと、山や自然への畏敬の念が現れる。ましてやそれが自分たちの暮らしの基盤になるのなら、なおさらだろう。
だから、篠宮に土着の信仰が生まれたのは必然だったと言える。
雷雨や嵐になって木々がなぎ倒されれば、山の神の怒りだと考える。良質な木材が採れれば、信仰と祈りが届いたのだと感じる。
「なるほど。自然そのものを信仰の対象として祀るのは珍しい例ではありません。最も日本では、火の神、水の神、といったように細分化される神が多いですから、あまりメジャーではないけど」
つい私の得意な分野だったので口を挟んでしまったが、千代さんは「詳しいんですなぁ」と微笑んだ。
「来る途中で、葬列があったでしょ? あれもこの村特有のもんです」
そう言われて私は、坂の道で真っ黒い集団を見たことを思い出す。あれはやはり葬儀に纏わるものだったのか。
「葬列かぁ……。現代ではもうあまり残っていない儀礼の一つですよね。
私がそう聞くと、千代さんは思い出すような仕草で答える。
「篠宮の葬列はまぁ特殊だでね……。ほとんどは一緒のはずですが、死者と対話するっていうのがあります」
葬列というのは、死者が現世に戻ってこないよう、丁重にお送りする儀式だ。霊柩車もまだなく、土葬が一般的だった時代、家族や親類が一丸となって亡くなった人を墓場まで送る。
地方によって様々な違いがあるのだが、篠宮の場合の死者との対話とは、故人との最後のお別れを意味するのかもしれない。
「で、そのオリジナルカミサマの土着信仰が、今回の話とどう関係してくるんです?」
朱音ちゃんが隣で退屈そうに組んだ腕で頬杖をついている。それを受けて、千代さんは説明を続けた。
そうして生まれた信仰はやがてルールや儀式などが追加されていき、本格化されていった。
初めは山や自然に纏わることだったが、やがて信仰は死への恐怖を和らげる目的へとシフトしていく。
人間の精神は肉体とは別であると考え、死した肉体は山へ還り、また新たな生命の息吹となる。そして魂となった精神は山の神の元へ向かい、神に仕えるようになるのだ、と。
「なるほど……。篠宮では死は穢れではなく、逆に神聖なものだったのですね」
私はその話にどんどん興味を惹かれていく。
占い師として、オカルトに精通しているのは、始めは「箔をつけたかったから」だった。それっぽい事を絡ませて占いにかこつければ、真実味を帯びてくるから相性が良かったのだ。
だが、調べていくうちにその奥深さを知り、オカルトを通して人の思いや歴史を学ぶことが出来る。その中でも特にオカルトに関連する宗教学や民俗学は、非常に意義のある学びだった。
「今も昔も、誰だって死ぬのは怖いからね……」
朱音ちゃんの発言で、脳裏に
しかし、怖いからと言って自然の摂理と向き合わないというのは、私は違う気がする。
成る可くして成るものは、そのままであるべきであると考える。私がリンクスという摂理に反する物をインプラントしないのも、そういう理由だった。
「やがて、篠宮独自だったこの信仰は周辺集落を巻き込み、村自体の規模も拡大していきました」
千代さんが脱線しかけた話を元の軌道に戻す。
村の拡大に伴って、信仰だけでなく管理体制を整える必要が出てきた。そこで、地域を治めていた武家一族と村の者が協力し、代表者が選出されたのが「篠宮御三家」の始まりだった。
「村の全体管理──今は広域連合ですが、これを代々行ってきたのが千代家。ほんで、神事をまとめているのが箱守家なんです」
「えっ、じゃあ千代さんって偉い家の人なんですか? 通りで……」
私は思わずそう言って、家の中を改めて見回して一人で納得した。ちょっとはしたないかなと思ったと同時に、朱音ちゃんに「ジロジロしない」とやはり怒られてしまった。
しかし、千代さんは軽快に笑ってくれた。
「実はそうなんです。親父が前に村長をやったこともあるもんで、一応ね、はは」
「つまりその子は、村全体に影響力を持つ家の娘って事か。なるほどなぁ」
朱音ちゃんがそう呟いてしーちゃんの方を見る。彼女は全く話に心当たりが無いようで、難しそうな話についていくのが精一杯な様子だ。
「御三家同士は昔から繋がりも強く、それぞれが担当する事が違うので対立することもなかったそうです」
「昔からの歴史がある家同士なら、千代さんが彼女のことを知っているのは当然か」
朱音ちゃんが突っ込むと、千代さんは咳払いをして真面目な顔に戻った。
「はい。──彼女の名は、箱守
「はこもり、しおん……?」
千代さんが口にしたその名を聞いても、しーちゃんは言われた名前を繰り返して首を傾げている。自分の名前だと言うのにピンときていない。私はその様子を見て、医院の中で記憶に潜った時の事を思い出した。
破れたノートを見たような感覚だった。途中のことは書いてあるのに、その殆どが破られて存在していない。理不尽な残酷さと、喪失感で一杯。そんな寂しい感覚だった。
「綺麗な名前だね、紫苑ちゃん」
私が励まそうとしてそう声をかけても、紫苑ちゃんは困り顔で目を伏せるだけだった。
「なるほど『しーちゃん』ね……」
朱音ちゃんが鼻で笑う。そういえば確かに彼女は「他にもSのつく名前はある」と突っ込んでいた。やはり改めて鋭い観察眼だと再び感心する。
「嘘を吐いて、あなたがたをこんな遠くまで来させてしまい、本当にすみません」
そう言って千代さんはまた頭を下げようとする。それを制して、朱音ちゃんが真剣な声色で質問した。
「それより、畑川の能力の話を」
私としてもそれは是非聞きたかった。今まで、こんな力を持っている人はおろか、知っている人さえ居なかったのに。
それを聞いた千代さんは、始め口を結んで言いづらそうにしていたが、深い一息の後に続けた。
「もう一つの御三家、
鏑木家が担当しているのは、治安維持活動だそうだ。
千代家と箱守家は村の人間から選出され、鏑木家は武家一族の人間から選出された。
外部からの攻撃、つまり山賊や野盗退治は勿論のこと、村の内部で揉め事があった際の仲裁役なども請け負った。
現代では村の駐在が代々この鏑木家の人間だそうだが、鏑木家はそれ以外にも、重要な役どころがあった。
「汚れ仕事」である。
村で罪人が出て、それが死罪に値するものなら、罪人の斬首を行ってきたのが鏑木家だった。
「さらに、村の土着信仰の儀式では、人柱が使われました。生贄ってやつです」
村民たちは、神の怒りで災害や飢饉が起これば、儀式で生贄を捧げて怒りを鎮めてもらおうとした。
その際に生贄の選出をするのも、最後の命を奪うのも、鏑木家の仕事だった。
誰もが進んでやりたくはなかっただろう汚れ仕事を、自ら引受けて実行する鏑木家は特に畏怖の対象であり、御三家の中でも一目置かれる存在だったそうだ。
しかし、それから時が経ち、戦火は全国を回り始め、いよいよ篠宮の周辺もキナ臭くなってきた頃、村には変化が現れた。
「鏑木家は、信仰対象となる御神体より神通力を分けてもらい、様々な不思議な現象を操ったのだとか」
私の背筋にひんやりしたものが流れる。部屋は温かいはずなのに、不思議と体感温度が下がった気がする。
ここにきて、いよいよ話が怪しくなってきた。疑わしいという意味ではない。むしろ私はこの話に強く興味を惹かれた。
訪れたこともないこの辺境の村で、私と同じ様に特殊な力を扱う者たちが居たという事になる。心臓が脈打つ間隔が短くなっていくのを感じながら、千代さんの話に耳を傾け続ける。
鏑木家はその力を使い、信じがたい数々の事象を行ってきた。
悪いことを予言し的中させたり、死者の魂を憑依させてみたり、人の病気を治したり。そして、時には敵の撃退をもしてみせたり。
「……なんか、一気に眉唾な話になりましたね」
朱音ちゃんがそう指摘して話の信憑性を疑っても、千代さんは至って真剣な表情のままだった。
「『御業』と呼ばれる、特に強い力を扱えるのは鏑木の人間だけでしたが、土着信仰の影響なのか、村に住む者たちには少なからず、不思議な現象を目にしたり、体験する人間もいました」
千代さんは小さく自分を指して「僕も」と呟いた。私は思わず立ち上がりそうになるのを堪えて聞き続ける。
「いつも不思議な現象が起こる時、僕には何かしらの形で感じることが出来るようでした。感じるんです。声が聞こえたり、耳鳴りがしたり」
それを聞いて、私は体温が下がる思いだった。
病室で紫苑の記憶に潜った後、私も酷い耳鳴りに襲われていたのを思い出したからだ。普段ならばそんな事は起きないのに。
「あの時、畑川さんからもそれを感じた。正直な所、幽霊事件を解決したって話から、何かあるんじゃねぇかやとは思ってましたけど……まさか、篠宮の地の外に不思議な力を持つ人がいるとは」
千代さんは興奮した様子でそう捲し立てる。
「……とりあえず今の話は記憶に留めておくぐらいにしときますか」
朱音ちゃんはまだ疑っているようだが、私の能力を実際に体験しているためか、一概に否定することも出来ない様子だった。さっきから組んだ腕を指でとんとんと叩いており、深く考え事をしている。
「それじゃ次の話題に。この紫苑って子を、何故匿うような真似をしているのかって事を聞かせて下さい」
千代さんは朱音ちゃんの言葉を聞くと一口コーヒーを飲んでから、また静かに口を開いた。
「この村の昔話は、あくまで昔話。もう今どき、村人は誰も土着信仰なんて信じてませんでした」
ですが、と間を置き、千代は俯いて声を地面へ落とすように続けた。
「最近、外部からやってきた連中が村に住み着き始めてから、村の空気がどうもおかしい。皆取り憑かれたように、さんかく様、さんかく様ってえらい言い出して、昔の信仰を取り戻すんだ、って……」
「さんかく様?」
私が聞き取れた単語をそのまま
「ああ、あの三角形……」
朱音ちゃんが隣でそう呟くのが聞こえる。私も度々目にした、家の表札などに描かれていたあのマークのことだろう。
「本来神事の管理は、箱守の仕事です。なのにここ最近、鏑木が妙に仕切り始めてる。うちの、千代家の意見も弱くなっちまって」
千代さんはそう言って握り拳を震わせながら続ける。
「それに最近、あの葬列もよく見かけます。年寄りの多い村ったって、あんなに頻繁に人が死ぬことなんてあらすけ。この子が見た幽霊だって……」
そこまで言って、千代は言い淀むように口を縛り、しばし沈黙が流れた。
私はその空気が気まずくなって、コーヒーで紛らわす。朱音ちゃんは腕を組んで難しい顔をしたままだ。
「とにかく、この子が倒れてた理由も、幽霊を見るのも、きっと何か関係しているはずです。それに、こんな状態で村の連中に見つかったら何をされるか……。どうか、紫苑を助けてあげて下さい」
そう言い放って、千代はカフェテーブルにぶつかるほど深く頭を下げた。
どうにかして欲しいのは本人も同じのようで、紫苑ちゃんも消え入りそうな声で千代に続いて「おねがいします」とお辞儀した。
私は「見つかったら何をされるか」という千代さんの言葉に少し寒気を覚えながらも、誰に頼ることも出来なかったであろう二人の背景を想像し、その痛々しい姿に胸が痛んだ。
「なるほど、事情は分かりました。あたし達に出来る範囲ですけど、色々調査してみます」
朱音ちゃんがそう答えると、千代さんも紫苑ちゃんも柔らかい表情になった。
「あたしは別にその昔話、信じてるワケじゃないですけど、千代さんの誠意は気に入りました」
朱音ちゃんが珍しく、他人を認める発言をその人に直接言っている。私が知る限りこの行動は今まで一回ほどしか見なかった。
「誰かの為に動ける人に悪い人は居ないし。それにもうバレてるなら隠す必要もない。む……あー、
それでも、言葉とは裏腹に彼女が私の偽名をうっかり間違うことはしなかった。私はもう本名で呼ばれても良いと思ったが、わざわざ明かす必要も無い。
朱音ちゃんに促され、私は何か記憶を見ても差し支えなさそうなものを見て回る。
ふと、背の低い本棚の上に、千代さんと穂香さんがにこやかに写る写真が見えた。二人の顔が大きくアップになっているので、背景からは情報が読み取れない。これにしよう。
私は写真を手に取ると、目を瞑って瞼の裏の光に集中する。それを追いかけていくと、私は波打ち際で砂を踏んでいた。
湿った熱気が肌にまとわり付き、風が潮の香りと共に汗を気化させていく。
寄せては返す波の中、今よりも幾らか若い印象の千代さんと穂香さんが、お互いの写真を撮りあっていた。お互いにじゃれ合い、その仲睦まじい様子は新婚の夫婦を連想させた。
愛しくて堪らない気持ちが溢れ、千代さんが穂香さんの日傘を払い除け抱き合い、二人しか写らないような画角になった時、シャッターの音とともに、私は現実に戻った。温かい記憶に、思わず私は笑みをこぼす。
「ふふ、新婚旅行ですかね。八月頃でしょうか、日傘が必要なくらい、凄く熱い日だった……。熱いのは苦手だったけど、穂香さんと一緒ならどんな天候でも幸せな記憶になる」
千代さんは私の言葉を聞いて、目を剥いて固まってしまった。
二人しか知らないであろう事実と、千代さん本人しか知り得ないその時の感情の記憶を見たのだ。そういう反応なのは当然だ。
「凄い、本当に……御業というものは存在するのか……」
腰が抜けそうなほどあまりにも驚いてしまっている千代さんに恐縮だと伝えつつ、私は次に紫苑ちゃんの方を見た。
不安そうだが、今の会話の流れを聞いて、私が記憶をどうこうすることは理解しているらしい。困惑しながらも、僅かに光を感じる気がする瞳で私を見つめてくる。
「どう? さっきは上手く行かなかったみたいだけど、いけそう?」
朱音ちゃんが心配そうに私を見つめてくる。
千代医院で紫苑ちゃんの記憶に上手く潜行出来なかったのは、記憶が完全にゼロだからという訳ではなく、私の集中が足りなかったせいでもあるだろう。
今、落ち着いたこの状況でなら、まだ幾らか深く潜り込めるような気がする。私は朱音ちゃんの言葉に頷いて、紫苑ちゃんの手を握った。
時間を、深く遡るのだ。
いくら記憶喪失といえど、彼女は言葉を理解出来るし、お辞儀をしたり挨拶をしたり、「一般教養」や「常識的な振る舞い」が出来ている。
良家の育ちであるなら、作法が身体に叩き込まれているというのもあるだろうが、それを学んだ時の記憶はあるはず。
そういった極小な記憶を僅かな足がかりにする。小さな子供の頃、物事を記憶出来るようになったような頃の記憶を。
私は真っ暗闇の中、長い間薄く細い光をただただ追い続ける。そして気がつくと、晴天を見上げていた。雨上がりのアスファルトの匂いが、辺り一面に染みている。
「虹はね、本当は無いんだよ。お日さまの光が曲がって、色んな色に見えるだけ。その人の目が曲がった光を見てるだけ」
黄金色の稲穂が風に靡き、楽しそうに踊る田園に囲まれたあぜ道の途中、水たまりを飛び跳ねた小さな女の子が虹を見上げてそう言った。
「難しい話だなぁ」
隣りにいる男の子が首を傾げながら、カエルを追いかける。
「自分だけの虹なのに、触れない」
私が見えたのはそこまでだった。
女の子も男の子も、顔は判別出来ない。景色もぼんやりとした抽象的な解像度で、どこかは分からない程断片化されていた。
けれど、断片的だからこそ、とてもとても懐かしくて、温かい思い出だった。
思わず穏やかな気持ちになり、また、やはり紫苑の中に記憶は存在していたことを喜んだ。これをきっかけに、少しずつ記憶が元に戻るかもしれない。私は今の光景を、その場の全員に伝えた。
「この子にとっては大事な記憶なんだろうね。さっすが琴理ちゃん」
朱音ちゃんがそう言ってにこっと笑った。
しかし当の本人である紫苑ちゃんは何故かぽかんとしており、記憶を取り戻せたというのに変だなと思ったが、更にもっと変だったのは、千代さんだった。
驚きのような、笑みのような、表現しがたい表情のまま唖然としているかと思ったら、口を抑えて何か独り言を呟いた。
何と言ったのかははっきり聞き取れなかったが、「うつった」という言葉だけ聞き取れた。
「千代さん……?」
あまりにもその様子がおかしかったので、私が思わず声をかけると、千代さんははっとした様子で返事をした。
「えっ、あぁいや……。すみません」
彼が我に返る一瞬、泣き笑いのような不思議な表情だったことが、私の脳裏に焼き付いた。何故だか、とても印象に残る表情だった。
「とにかく、助手の畑川にはこのように、記憶に関連する力がある。これを使って色々と調べてみることにします」
朱音ちゃんがその場を取り繕うようにわざと声を張った。
「はい、よろしくお願いします」
千代はそう言って、紫苑ちゃんを連れて二階へ上がっていった。それとすれ違うように奥の方から再び穂香さんが出てきてマグを片付けてくれた。
私達の寝室も穂香さんが用意してくれていたようで、一階にある和室に案内された。
十畳ほどもあろうかという立派な和室で、中にはなんと床の間や広縁までもがあった。まるで旅館のような作りだ。
しかも穂香さんはお風呂やトイレの案内までしてくれて、挙句の果てに「ゆっくりなさってくださいね」と、そう言って襖を閉めるところまで見ていると、彼女がまるで女将のように見えてくる。
静かになった部屋に荷物を起いていると、朱音ちゃんが「お風呂……」と羨ましそうに呟いた。今日は一段と冷えていたし、渇望する気持ちは私にも分かる。
遠征や非常用に、私たちはいつも車にお泊りセット一式を持ち込んでいる。私はそれらを広げながら、朱音ちゃんに先に入ってきていいよと促した。
彼女はそう言われると、目を輝かせながら入浴セットを引っ掴むと、さっさと浴室の方へ向かっていった。
朱音ちゃんが部屋から去った後、記憶に潜り過ぎたせいなのか軽く頭痛を覚えた私は、新鮮な空気を取り込もうと広縁の方へ行って窓を開けた。
外はすっかり暗くなっており、ぼんやりとした埋込式のLEDが家の前の駐車場を照らし、朱音ちゃんのステーションワゴンが停めてあるのがちらりと見えた。その横に停めてあった千代さんの車が無い。いつの間にかどこかへ出かけたのだろうか。
その時、さっき千代低に訪れた時に潜った門構えのところに、うっすらと何かが揺らめいたのが見えた。
手前にLEDの光があるせいで、奥の暗い部分は若干見えにくい。私は目を凝らして、今動いたものが何なのか判別するために凝視する。
氷点下の風が吹く冷たい夜の闇に浮かんだそれは、ロング丈のスカートらしきものだと分かる。
誰かがあそこに立っているのだろうか、部屋の時計を見ると、時刻は既に二十一時を回りそうだった。
都会でならこの時間の来客はまだありそうなものだが、近所に民家もない田舎でこの時間の訪問者とは珍しい。
他所様を訪ねてきた人をじろじろ見るのは良くないな。そうは思いつつも、私はついついその人影を見つめてしまった。
段々暗闇に目が慣れてくると、ロングスカートの柄がハッキリ見えてきた。ネイビーブルーでチェック柄、更に上着はふわりとしたニット素材のものだ。全身が見えたので、その人がどうやら門構えの内側、敷地内にもう入っていると分かる。
あれは所有者の認証が必要なものではなかったか?
そう不思議に思いつつ、うっすらと顔も見え始めてきた。日本人の顔立ちではない……?
何故か既視感があるな、と感じた瞬間、私はそれが誰だか一瞬で理解した。
私の、母だ。
理解した瞬間、その顔も鮮明に見える。間違いなく、母の顔だった。家族の顔を見間違うはずもない。
母らしきその人物は、最期に見たときと同じ、泣きそうな笑顔でこちらをただじっと見つめていた。
「お母さん……?」
母の口が開き、何かを言いかけているのが見えた。窓の向こうへ手をかけ、身体が前に向かった瞬間、弾けるような音が背後で鳴り響いた。
飛び上がって振り返ると、朱音ちゃんがバスタオル一枚を雑に巻いただけの格好のまま襖を開け放ち、真っ青な顔で立っていた。
彼女は何も言わず、死人のような顔そのままで、私が開けていた広縁の窓から外に向かって一気に飛び出していった。
「朱音ちゃん!」
私が呼び止めるのも構わず、朱音ちゃんは門構えのところへ一直線に走っていく。反射的に私も窓から飛び出し、後についていく。
車の前まで来てから気づくと、門構えのところにもう母の姿は無かった。
その代わりに、金属のような硬く冷たい物音とすれ違った。振り返って玄関の方を見ても何も無い。ただ、一瞬だけ錆びた鉄の臭いが鼻を刺激した。
その後急に、耳鳴りと重い頭痛が一気にやってきて、思わず頭を抑えた。
門構えを乗り出して左右を見回す朱音ちゃんを落ち着かせようと、彼女を門から引き剥がす。息を荒くして、うわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
「今……
もう一度門の向こうを見てもそこには何もなく、誰もおらず、ただ夜の風が木々の枝に積もった雪を散らすのを見るだけだった。
少しだけ風が止んで静かになった時、私は背中にツララを刺されたような感覚を覚える。
開け放たれた窓から朱音ちゃんと部屋に戻って振り返ると、何も無い夜の闇から染み出る得体の知れない不気味な空気がそよいでくるのを感じ、私は急いで窓を閉めた。
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