一章 3

 新堂しんどう朱音あかね


 私にとって、長時間の車の運転はあまり苦ではない。

 周囲の景色が移り変わっていくのが楽しく感じるし、煩わしい都会の喧騒から離れられるのならなおさらだ。

 それでも、雪が深く積もった山道を進むのは想像以上に大変だった。

 最後に目にした信号脇の標識が、村の入り口はここだと告げていた。私は駐車場に車を停めると、外に出て大きく伸びをした。

 愛車である真紅のステーションワゴンが積雪を反射し、いつもより明るい色に見える。

 千代ちしろが記憶喪失の少女を匿っているのは、ここ「篠宮しのみや村」にある自分の医院だそうだ。

 あれだけ格好つけていざ来たのはいいが、一瞬、何も解決出来なかったらどうしようかという不安が頭を過ぎった。

 続いて車から降りてきた小麦こむぎと目が合うと、彼女がくれた微笑みがその不安も消し飛ばしてくれた。彼女の能力に期待しよう。そう思ってしかし、私は自身の身勝手さをまた悔やんだ。。

 昨日と同じだ。また彼女に一方的に頼ろうとしてしまった。

 自分でも分かっているのだ。特殊な能力を持つ小麦とは違い、私自身には何も無いのだと。培ってきた探偵としてのノウハウや、人の特徴や嘘を見抜く能力には長けているのかもしれないが、結局のところ私にあるのはそれだけだ。

 他人の幸せを心から願い、サイコメトラーとしての能力を占いという分かりやすい形でパッケージングしてその手助けをしてきた小麦と私では、その人間性が全く違う。

 私は、探偵として受けた依頼で、ただ愚直に頼まれたことを解決しているだけだ。本当の意味で、その人の助けにはなっていない場合もある。

 私は誰かにとっての救世主でも、心の拠り所でもない。結局のところ、私は何者にもなれないのだ。

 心がネガティブな方向に向いたのは良くないと思い、私はわざとらしく大きく深呼吸して、周りへと意識を集中させた。

 千代に先導されて車を停めたここはどうやら、村の総合観光案内所らしい。それなりに大きな駐車場がアスファルトできっちり整備され、観光目的で訪れた人間がまず足を止める場所のようだ。

 外は快晴で、昨夜降り積もった雪が陽を反射してとても眩しい。

 私は左耳の裏に手を当て、そこに装着されたリンクスを用いて、両目に入れているコンタクトレンズに偏光作用を加えようとする。

 脳で命令すると、景色はたちまち紫外線を抑えて若干暗くなり、直視出来るようになった。

 脳波送受信機であるリンクスは、このように相互作用のあるウェアラブルデバイスのオンオフを実行できる。最も、さやかの呪い事件の時はこれのせいで大量に犠牲者が出てしまったので暗い思い出もあるが、同じくらい現在の私の生活に溶け込んでしまっている。

 いや、私だけではなく、現代の人類にはほぼ必需品だろう、今も昔も、便利なデバイスに依存するのは人としての性なのだろうか。

 先導していた車から千代が降りてきて、私たちと同じように身体を伸ばしている。

 さすがに三時間強ほどの運転を続けると、いくら運転が苦ではないとはいえ、それなりに疲労も溜まるのだろうか、先程から続く軽い頭痛が煩わしい。それを払拭するように、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「篠宮村、かぁ」

 小麦が言いながら見上げた観光案内所には、二階のベランダにある看板が、粗雑だが手作りの温かみを感じさせるアーチに書かれた「ようこそ篠宮へ」という文字を掲げていた。

「それで、千代医院はどこに?」

 私がそう聞くと、千代はもう少し先にあると答えながら、観光案内所の外にある小さな地図を指し示した。

 そこには村の主な観光スポットが記されているようで、今いる案内所の建物から小さな道をたどった先に、「千代医院」とこじんまり書かれていた。

 この場所はどうやら村のメイン通りのようなものだろうか、この役場の建物以外にも、近くには郵便局や、ちょっとした飲食店やお店などがある。小学校や保育園もこの近くに備わっているようだ。

 来る途中の道にはガソリンスタンドもあったし、大きな貯水ダムが構えているのも見た。観光案内板を見る限り、ここから西へ遠く行った先の山に発電所があるのも見えるので、インフラの設備や生活の基盤に必要な施設は一通り存在し、村としての機能はしっかりしていて何の問題も無さそうに見える。

 こうしてみると、村内の八割ほどは山林で構成されているようだが、山の中には他にも、登山道やスキー場への道が示してあり、観光業に力を入れているのが見て取れる。案内所のガラスには、レジャーを推す宣伝ポスターがこれでもかと貼り付けられているし。

 それらを見ているとまるで、自分たちがただ田舎にレジャーしにきただけのような気分になる。

 ふと、案内板に三角形の記号がいくつも描かれているのが目に入る。何かの印か地図記号の一種だろうか。

「まぁ歩いてもすぐだで、このまま行きましょう」

 そう言って歩き出した彼を追って、私達も歩き出す。

 アスファルトの上は流石に溶けているが、道の脇には昨晩に降り積もったのだろう雪が未だ残っている。

 思わず必要もないのにわざと雪を踏んでみるが、その感触は都会のものとは大違いだった。

 気温が比較的高い都会の雪には水分が多く、積もった雪を踏んでも湿っているので、ぐしょりと潰れて弾け、ただ不快なだけだ。

 しかしここの雪はまるで綿のように軽く、踏むと密度が上がってぎゅうっと音がする。踏みしめるという言葉がピッタリだ。ブーツを伝わるその感触は不思議と心地良い。まるで雪の結晶一粒一粒を感じることが出来るようで、不思議な感覚だった。

 村の景観の第一印象は、この雪を含めてとにかく「綺麗だ」ということに尽きる。普段はビル群や車、狭く濁った空しか見ていないのでなおさらそう感じるのだろう。

 透き通った青い空、冬の乾いた空気の中に、ほんのりと香る緑。景色を遮るものがないため、遠くに山の稜線がどっしりと構え、白い雪化粧を施しているのがとても鮮明に見える。

 歩く道も都会のそれとは全く違い、申し訳程度に植林された街路樹など一つもなく、生き生きとした木々が、建物や石垣の近く、そこかしこに生い茂っている。

 そのどれもが、とっくに枯れたはずの葉をも連想させるほど生命力に満ちており、枝に積もった雪すら持ち上げる力強さが逞しい。

 どの方向を見ても感動を覚えるほど綺麗な景色だったが、それでもやはり、標高の高い位置にあるせいだろう、晴れているとはいえ街よりも一段と気温は低かった。自然の景色に抱いた感動をかき消してしまうほど肌に刺さる風が冷たく、痛く感じる。

 吐息は白くなり、隣を歩く小麦などはもう顔が火照っている。だが寒さに苦手なはずの小麦も、先程から村の景観を無邪気な顔でキョロキョロと見回していた。

 さっきから誰一人として出会わないことを除けば、概ね何も問題はない、とてものどかで美しい村に見える。

 もう一度空を仰いで深く息を吸ってみる。

 透明な冬の匂いがツンと鼻腔を駆け抜けたその一瞬だけ、依頼の事や全ての不安事を忘れ去り、私も空気に溶けて、この白銀の世界と一つになった気がした。

「その子は今、医院に居るんですか?」

 小麦が千代に聞くと、千代はこくんと頷いた。

「車移動で時間食っちゃったし、早く行きましょうか」

 そう言って千代は私達を先導し、雪解け水が僅かに流れる坂になった細い道の方へ向かって歩き出した。

「何もない村でしょう? これでも、前はそれなりに観光客が居たんだけどもね」

 前を歩く千代が時折振り返りながら話しかけてくる。確かに先程から村人や観光客の類は全く見ていない。それは私も気になっていた事だ。

 通る家屋の軒先や庭には誰の人影も見ない。窓をじっくり見ても反射されたこちらの景色が鏡写しになるだけでよく見えないが、僅かに奥の方で人影らしきものが動くのは見える気がするのだが。

 よく見ると、家屋によっては表札の脇に三角形が描いてあるものがある。家紋の一種かなとも思ったが、案内板にも同じ模様が描かれていたのを思い出した。

 村のシンボルマークのようなものだろうか。

「観光客と言うか、村人がいないようですけど」

 私が突っ込んでそう聞くと、千代は困り顔を作ってから答える。

「まだ飯時だで、みんな家に引っ込んじゃうんでしょう。まぁそれよりも、人口自体が減ってるってのも理由の一つですかね。限界集落みたいなもんですから」

 少子高齢化社会という問題は、この村に限らず、かなり以前から社会全体に存在する問題だ。

 観光業を盛んに行っても、村自体の人口増加に繋がるわけではない。今どきこんな山奥にある村へ移住したいという若者はそう多くないのではないか。

 確かに、田舎にしかない魅力はたくさんある。この澄んだ空気や自然は、決して人工的には作り出せない。

 しかし、いざ生活してみるとなると違うのだろう。それらの魅力を差し引いても、観光しに来るのと実際に住むのとは訳が違う。街の方が仕事も娯楽もそれこそ飽きるほどあるのだから。

 だがそれでも、今目にしている美しい光景を前にすると、探偵業が落ち着いたらこういう田舎に移住するのもいいかもしれない、と私は密かに思った。

「私はこういうところ、好きだけどなぁ」

 頭を覗かれたような気がして恥ずかしくなり、そう言った小麦の方を見ると、私からは少し離れた位置で鼻をすすりながらもにこやかにそう言った。記憶に潜られていないのに同じようなことを思ったならば、彼女と私はやはり価値観が似ているのだろう。

 確かに、彼女が占いをしていた時に構えていた店は、喧騒から離れた自然の中にあった。

小麦畑こむぎばたけ」という、冗談なのか本気なのか分からない名前のその店は、かつては評判高い占いの館だったようだ。

 そんな店もさやかの呪い事件のせいで、凄惨な現場となってしまったのだが。

「ほら、見えてきた」

 私の思考を遮り、千代が声を張り上げた。彼が指差すその向こうには、建物が見えてきた。どうやらあれが「千代医院」らしい。

 千代医院の周りは、古い家屋や田畑に囲まれていた。

 メインの通りとはまた違う、反対側に広がる田園風景が穏やかな趣のある道の横に建っており、普通の規模の家屋二、三軒ほどの敷地に、少し大きめの駐車場を備えている。

 こんなに大きな敷地があるのだから、わざわざ歩いてこなくても良かったんじゃないかと私は少し辟易した。既にブーツは雪と泥に塗れている。

 景色が美しいとはいえ、広大な自然というのは時として何かしらの脅威になり得る。こんな思いをするなら日頃からもっと運動をしておけば良かったなと後悔する。

 きっと村にある医療機関はここだけなのだろうが、建物の外装は決して新しくはない。元々は白かっただろう外壁は、長年の風雨に曝された結果、なかなかにくすんでしまっている。

 だが特段この場所が不気味だとかそんな印象はない。田舎町にならよくある、年季の入った診療所、というイメージだ。

 好き勝手に印象を思い浮かべたが、よく考えたら院長本人が横にいるので、聞かれるはずがない心の声が漏れた様な気がして思わず焦った。

 起伏が多く険しい道のせいで乱れた息を整えつつ体を休めていると、千代が「午後からは休診にしたので」と言いながら玄関の鍵を開け、入るように促された。

 玄関口の部分だけがガラス張りになっており、中が少しだけ透けて見える。

 どうやら、医院としての設備は家の前面に留まっているらしい。玄関を上がったすぐの受付カウンターの手前は広く、待合用のソファが広がっている。

「お邪魔します」

 一応そう声を出して私は偏光レンズの機能を元に戻して中へ入った。

 ゆっくりと明らかになる屋内の様子は、カウンター横には廊下が奥へと続き、脇には診察室が二つほど並んである造りだった。

 休診にしたから当たり前だろうが、待合室から廊下の奥まで、人っ子一人いない。しんとした受付は、普段見慣れたそれとは全く違って見える。薬品の匂いも相まって、流石に中の様子は少しばかり不気味に思った。

 千代は廊下の奥の突き当り、一番奥の扉に私達を案内した。

「調子はどうかな?」

 扉を開け放ち、私達を招き入れ、千代は奥に向かってそう言った。

 部屋には医療用のベッドが脇に洗面台を備えて一台だけ置かれ、そこに、一人の女の子が腰掛けていた。

 私が彼女に抱いた印象は、「儚い」だった。

 肩口で切り揃えられた明るい黒色のボブカットをぺこりと揺らして会釈をし、私を見つめながら消え入りそうなか細い声でその子が「こんにちは」と抑揚無く喋った。

 冬用の起毛加工された寝間着らしき服を着ており、会釈以外で身じろぎ一つせずに光のない瞳で私達を交互に見やっていた。

 体つきは寝間着の上からでも分かるほど華奢で、袖口が長く余っており、小さく細い指先が見えた。

 確かに年齢的には十代から二十代ほどだろうが、この子が持つ雰囲気のせいなのか、私にはもっと幼い、少女のようにも見えた。

「知らない人たちが来ると怖いもんで、ちょっと緊張しとるみたいです」

 千代がそう言って苦笑し、少女の脇に膝をついて座る。少女は千代を追って目だけを動かした。

「前に言ってた人たちだよ。問題を解決してくれるかもしれない」

 少女はそれを聞くと、視線を私達に戻すと、また小さな声で「よろしくお願いします」とだけ言い、またぺこりと会釈だけした。

 一見だけすると、ただ物静かな性格なだけにも見える。本当に彼女が記憶喪失なのかどうか、その外見と仕草からでは判断出来ない。今のところ可憐な普通の少女だ。

 かといって、千代が「記憶喪失の少女が幽霊を見ている」などという嘘を吐く理由も無いだろう。

 そういえば、「嘘」で思い出したことがあったが、それより先に自己紹介を済ませる。

「探偵の、新堂あおいです」

 その私の自己紹介を見て、千代の横に座り込んだ小麦も続けた。

「探偵補佐の畑川こ、琴理ことりです。よろしくね、えっと……」

 小麦が言い淀み、視線を千代に投げかけた。

「あぁいかん、忘れてました。名前が分からないと困るし、便宜上彼女のことは『』って呼んでるんです。ホラ」

 千代が慌てつつ、その少女の左の耳元を指した。そこには、傷が付いてボロボロになったリンクスが装着されていた。

 私はそれを見て内心、成果があったと喜んだ。

 リンクスは、個人証明のデータが内部に存在する。勿論ロックが掛けられているので他人が簡単にアクセスすることは出来ないが、侵入さえ出来れば閲覧は可能だ。

 要するにハッキングだが、幸運なことにそれは私の得意分野だった。これを解析出来れば、彼女の身元はまず判明する。

 だが、千代が示したいのはそういう事ではないらしい。

 リンクスには製造時に個人の名前をイニシャルで刻印出来るのだが、彼女のリンクスにもそれがあった。だが、傷のせいでそれも削れてあまり判然としない。

 しかし確かに、「S」の文字だけは確認できた。

「ふぅん、なるほど。『さっちゃん』とか『すーちゃん』じゃないんですね」

「はは、適当ですよ。Sのつく名前って言ったら、しが付く名前のほうが多いかやぁって」

 これは職業病なのかもしれないが、少しでも気になる部分があるとつつかないわけにはいかない。

 名前一つでは大きな手がかりにはならないかもしれないが、それでも探偵としてはこういう聞き方をしてしまう。

 しーちゃんと呼ばれた彼女は、このやり取りをしていても、どこか心ここに在らずと言った感じでぼーっとしていた。

 自分の名前に関する事なのに、まるで興味無さ気な様子で虚空を見つめている。

「ねぇ、何か覚えてることってあるかな?」

 小麦が、まるで小さな子に話しかけるように柔らかな口調で質問すると、彼女は少し考えるように斜め上を見つめ、それからゆっくりと首を横に振った。

「先生に助けてもらったんだよね? そういう最近のことは覚えてるの?」

 小麦が続けて同じ調子で問いかける。少女はその質問には素早くこくんと頷いた。

「じゃあ、幽霊を見たことも、覚えてる?」

 私が続いてそう聞くと、彼女はすぐさま眉尻を下げて怯えたような顔になり、小刻みに震えながら小さく頷いた。

「二人にも、話してくれるかな?」

 千代がそう聞くと、彼女は私たち二人を交互に見やってから、不安そうな表情で千代に視線を投げかけた。

 千代が大丈夫だよと促すと、大きく息を吸ってから、やはり小さな声で彼女は話し始めた。

「真っ白な、女の人を見ます」

 それから私と小麦が交互に質問し、補足を入れつつ聞き取った情報はこうだ。

 曰く、何の前触れもなく「白い女」が自分の周りに現れるそうだ。

 それがいつ起きるか法則性はなく、気がつくと窓の外に女が居て、こちらをじっと見ている。何をしてくるでもなく、何度か瞬きをしているといつの間にか消えており、他の人には見えないのだそうだ。

 今までの依頼でも良くあったような、典型的なものだった。全て見間違いで説明が出来てしまう。

「なるほどね……。他に何か気づいたことは? どんなに小さなことでもいいよ」

 私がそう聞くと、彼女は難しそうな表情をして、「気の所為かもしれませんが」と前置きをして続けた。

「女の人が現れるときはいつも、頭が痛い気がします」

 それを聞いて私は、ずっと疑問に思っていたことが確信に変わりつつあった。

 きっと、この子の症状の原因は何か心因性のものだろう。

 例えば、心的外傷後ストレス。PTSDというやつだ。何かの事件や事故に巻き込まれたか、それとも被害者になったか。いずれにせよ本人の記憶が消えてしまう程に酷い目に遭ってしまったのではないだろうか。

 そういった背景があって、記憶喪失及び幻覚が見えてしまうのではないか? それに伴って強い頭痛を覚えることはよくある。

 今はまだ仮説に過ぎないし、自分がそれに近い体験をしているせいでもあるのだろうが、当たらずとも遠からずな気はしている。

「千代さん、ちょっといいですか?」

 そう言って私は廊下に出ようとする。小麦には目で合図を出した。

 小麦には、千代の見ていないところで記憶の中に潜ってもらうつもりだ。小麦は意図を汲んでくれたようで、小さく頷いてからしーちゃんに手を握ってもいいかと確認していた。

 扉が閉まったのを確認し、私は小声で千代に色々と聞いた。

「あの子を見つけた時、身体の状態はどうでしたか」

 千代は真剣な眼差しになり、大きく一息ついてから答えた。

「外傷は特に何も。転んだ跡のような小さい傷はありましたけどね」

「襲われた可能性は?」

「俺もそう思って一応確認したけど、特に損傷は無かったです」

「彼女を見つけた場所は?」

「丘の上にある神社の近く……だったかや。その日はまぁ、ちょっと朝早く出てたもんで」

 私はそこで質問を止めた。

 やはりそうだ。この人は何か隠し事をしている。「嘘を吐いている」のだ。

 最初からそうだった。事務所に来たときも、普通の話をしている時は医者らしく、てきぱきとした受け答えをしているのだが、たまにこうやってはぐらかすような、覚えていないような風で何かを誤魔化す時がある。

 決まってそういう時、彼は喋っている人物と合わせていた目線をわざと外している。今もそうだった。

 何のつもりがあって隠し事をするのかは分からないが、今のところ彼が目線を泳がしたタイミングは三つある。

 一つは、あのしーちゃんという少女の呼び名の時。もう一つは今聞いた、彼女の発見時の状況。

 そして、最初に事務所で話していた時の、「」という発言の時である。

 つまり、この千代という男は恐らくだが、少女の身元を知っているという事になる。まだ確信は無いのだが、それでも長年探偵としてやってきた自分の勘には自信がある。

「直接の被害者じゃなくても、何かの事件や事故に巻き込まれたという可能性は」

「……分かりませんね」

 また千代の目線が泳いだ。

 その時、響くような深い耳鳴りが私の頭を一気に覆った。思わず軽く立ち眩みを覚えてしまうほどで、ふらついた体制を整えるために壁に寄りかかった。

 千代を見ると、彼はなんとも言えない表情をして扉の向こうを見つめていた。何かに驚いたように目を剥いている。

 それに気づくのと、部屋から小麦が辛そうな表情で出てくるのは同時だった。

「本当に無いよ、記憶。一個も。いつもと違う。上手く見れなかった」

 小麦はそう言うと、顔をしかめて頭を抑えた。もしかして、彼女にも今の耳鳴りがしていたのだろうか?

 ふと千代の方を向くと、彼は相変わらず目を剥いたまま、小麦を凝視していた。

 口元が震えて、何かを言いかけている。

「み……。何で」

 私達がその様子の変貌ぶりに固まっていると、千代は我に返ったように強く瞬きをすると、そのまま喋り始めた。

「調査、長くなりますよね。いけなきゃあうちに泊まっていきませんか?」

 突然の申し出に、私は面食らった。いきなり何を言っているのだ、この男は。

 千代は大げさな身振り手振りを加えて続けた。

「あぁ違う違う。勘違いせんでくださいね。しーちゃん、夜はうちに泊めてるんです。医院に一人置いておくわけにも行かないし、妻も一緒に見てくれてるので」

「いや、だからと言って……」

 所帯持ちだろうとなんだろうと、いきなり他所の家に泊まれと言われて泊まるバカはいないだろう。私がすぐに断ろうとすると、千代はより一層語気を強めて言った。

「まだ色々お話があるんです。あの子にも関わる事だし、依頼の一貫って事で。それに……」

 千代は少し間をおいて、小麦を見ながら信じられないことを言った。

「畑川さんの力についても、聞きたい」

 心臓が飛び上がり、思わず口から出てくるのではないかと思うくらい焦った。冷や汗が一気に滲み、肌が粟立つ。

「なんで……?」

 小麦も非常に驚いた様子で、あんぐりと口を開けて固まっている。

 記憶の中に潜行する彼女の能力は、他人に看破されにくい。

 本人同士でないと伝わらないことばかりだし、私は実際に目の当たりにしたから信じているだけだ。

 赤の他人が、先程のような「見えた見えなかった」などという言葉の端々だけで推理出来るとは到底思えない。なのにも関わらず、この男はまるで、以前からその能力を知っていたかのような口ぶりで「小麦に特殊な能力がある」と理解している。

「まぁとりあえず、場所を移しましょ、そろそろ日も暮れる頃ですし」

 私達が何か言う間もなく、千代はそう言って車の鍵を取り出した。

 小麦と目を見合わせるが、彼女はすっかり怯えてしまって混乱しているようだ。

「……分かりました」

 完全に全て従うつもりではないし、今は提案を飲み込むしか無いかもしれないが、この男がまだ善人かどうかの判断も出来ていない。警戒は常に貼り付けたまま、何のつもりなのか探る必要がある。

 私はそう返事をすると、不安そうな表情の小麦を連れて、医院を後にした。

 大きなパーカーのような服に着替えたしーちゃんを連れ、千代が前方を歩き、私達はその後に続いた。

「ねぇ、あの人何者なの? なんで私の力に気付いてるの?」

 小麦がひそひそと耳元で話しかけてくる。私は千代から目線を外さないよう前を向いたまま答える。

「あたしも分かんない。でも嘘は吐いてる。あの女の子に関して、沢山」

「嘘?」

「うん。だから麦ちゃんも警戒だけは解かないで。何かあるよ、この依頼」

 車を停めた駐車場に着くと、千代は着いてきて下さいと言って再び先導し始めた。

 私は一度後部座席に寄り、持ってきた荷物の中から一つ選び、それを取り出した。小さなディスク状のそれを手のひらに乗せると、リンクス経由で起動する。瞬く間にディスクは昆虫が羽化するように展開し、小型のドローンへ変わった。

 私達の位置情報を常に把握させ、そのついでにこの村全体をマッピングするよう指示すると、ドローンは羽の回転数を上げて甲高く唸ると、上空高くに飛んでいき、やがてその音も聞こえなくなった。

「本腰入れないとね」

 私はそう呟いて、エンジンを始動してアクセルを蹴った。

 外はもう黄昏時になってきており、窓の向こうにはオレンジ色の夕日が積もった銀の絨毯を照らし、昼とはまた違った幻想的な景色を写していた。

 その夢のような光景とは裏腹に、私の心はざわついていた。何か大きいことの前触れのような予感がして堪らない。

 思わず、さやかの呪い事件の時のことを思い出す。考えただけでぞっとする、あの不気味な事件を。

 胸の内に抱えた不安は、そのままいつまでも消えずに、心の中に沈殿していった。

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