一章 2

 畑川はたかわ小麦こむぎ


 その日の朝は、雪が窓の外を舞っていた。

 折からの風を伴い、横に強く吹き付けるその様はまさに吹雪であり、外に出れば体温も気力も削られていく。

 私は寒さに強くはない。どちらかと言えば寒がりなので、こういう日は屋内で過ごす方が好きだった。いや、そうせざるを得ない、と言ったほうが正しい。

 やることがないという事それ自体を楽しむ、要するに暇を楽しむタイプの人間であると自負しているし、そういった時に色々なことを考えるのが好きだった。

 テーマはその日その日で移り変わる。哲学的なことを考えるのも良いし、今日作る料理やお菓子の献立を考えるのも楽しい。

 だけど今はたった一つの事にしか思考のタスクを割けない。まさに昨日の晩に「影」を見たことだ。

 朱音あかねちゃんはまだ起きてきてはいない。私は記憶を整理するために、先程淹れたココアにマシュマロを乗せ、リビングのソファに腰を下ろした。


 私は、私立探偵の新堂しんどう朱音あかねと共に、細々とした探偵業に身を置いている。形としては助手のようなものだが、一緒に探偵をしているといっても過言ではない。

 新堂探偵事務所は、浮気調査などが主な業務だったのだが、一年ほど前に世間を賑わせた大事件をきっかけに、ここ最近は幽霊絡みの依頼が舞い込むようになった。

 そもそもの発端となったその大事件「」は、私も深く関わっていた事件だった。

 人の記憶を読み取れるという不思議な力が備わっていた私はオカルトに興味を持ち、占い師を開業していた。

 あの事件が起きる前、私は複数のお客さんから妙な相談を持ちかけられていた。「霊視は出来るのか?」と。

 奇妙な能力こそあれど、昔に存在したいわゆる霊能力者のような真似、つまり除霊だのお祓いだのは一切出来ない私は、「幽霊を見る」というその客たちの言葉を半ば眉唾もののように思っていた。

 しかしある日、お客さんの一人が呪いの影響によって目の前で命を絶つのを目撃したことをきっかけに、彼女の友人たちや別件で事件を追っていた朱音ちゃんとも出会い、事件に深く関わっていくことになった。

 掻い摘むと、この事件は「カクリヨ社」という企業が提供する、メタバース空間で故人との再会を可能にするサービス「YOMIヨミ」が大きく関わっていた。

 生きた人間の意識と人格を生前にデータとしてコピーし、その人物の死後、遺族の承認を経てメタバース、つまり仮想空間上にアップロードし、「黄泉人よみびと」として死者の意識を電子的に覚醒させる。

 そして遺族たちは「リンクス」と呼ばれる脳波送受信機を体内にインプラントし、これを使って意識だけを仮想空間に転送して、データ化された故人との時間を過ごせる、というものだ。

 この利用者たちの間で、メタバース空間内にいるはずのない女の影を見る、という噂が広まり、次第にそれが現実にも侵食し、「」という幽霊を見るようになり、最後には自ら命を断ってしまう、というのが「さやかの呪い」である。

 その後、朱音ちゃんやカクリヨ社の人間の協力もあり、私たちはこの事件を収束させ、見事に解決した。

 こうして新堂探偵事務所は「幽霊事件を解決した」という名声が広まり、連日のように依頼が舞い込んでくる事態となったのだった。

 この「幽霊が見えるメカニズム」というのは、科学に疎い私には少し難しい内容だったが、要するにリンクスという機械を通して、人の脳に侵入し作用してしまうウイルスデータの仕業だそうだ。

 これが人の脳に悪さをするせいで、視神経がいじられて見えないはずのものが見え、聴覚もおかしくなって聞こえないはずのものが聞こえる。

 しかしこれは、YOMIというメタバース空間を通して起こる現象である。つまるところ、リンクスを持っていない私には、幽霊は見えないと言ってもいい。

 そのウイルスに感染していないどころか、そもそも感染経路が存在しないのだから、見えるはずがない。

 ところが、昨日の晩。朱音ちゃんの心の内に抱えた暗い部分を見たあと、部屋の扉の向こうに影が見えた。

 私は改めてその一瞬の記憶を手繰ったが、何度思い返してもハッキリと自覚出来る。

 確かに見た、と。

 あれは紛れもなく、朱音ちゃんの記憶の中で見た、かつての彼女の親友の姿。火災に巻き込まれ亡くなってしまった、林藤りんどう七彩ななせさんという子の姿だった。朱音ちゃんの記憶の中で実際に彼女の姿を見たから、見間違いようもない。

 二人共、この記憶にあてられてしまったのだろうか、だとしても二人一斉に同じものを見るなど、いくら偶然だとしてもさすがにおかしい。

 だけど同時に、幻覚を見てしまってもおかしくないほど、朱音ちゃんの記憶の中は辛かったとも思う。現実から目を背けたくなり、もう一度七彩さんに会いたい、と強く思うほど。

 一夜明けた今でも、思い出すのは辛い。私にとっては知らない人間だが、記憶の共有をすると、まるで自分のことのように感じるからだ。

 だとしても、あれを妄想や幻覚の類として片付けるには、あまりにも生々しい姿だったように思える。

 輪郭を持ち、立体的なその存在感は、彼女が本当にそこに存在しているようなリアリティを確かに感じさせた。

「おはよう」

 瞼を酷く腫らした朱音ちゃんが、まだ半分寝ながら部屋から出てきたのを見て、私は彼女の分のココアを抱えて事務机へ置いた。

 朱音ちゃんはいつも通りの寝ぼけ具合で、たどたどしくまだ湯気の残るココアを一口飲んではにかんでいた。その様子を見て私は安心する。昨日の出来事を引きずっていやしないかと心配だったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 それについて話そうかとも思ったが、どうにも口火が切れない。朱音ちゃんから話しかけられることもなく、そのうちになんだか気まずくなってしまい、私は何か気分転換をしようと思い、テレビをつけることにした。

 テーブルの上においたホロプロジェクターの電源をいれると、たちまち空間上に映像が浮かび上がる。

 つけた番組はなんと偶然にも、カクリヨの特集を扱っていた。

 YOMI崩壊後、再起を望むカクリヨ社のメタバース事業は結局失敗に終わり、その後、「霊廟れいびょう」と名付けた新たなサービスは単純に、人物の死後も意識の保存が電子的に出来る、というだけを謳ったもので、一般客ではなく、著名人や文化人、政治家や富裕層という層にターゲティングを絞り、事業の安定化を図っていた。

 この番組は、いかにそのサービスが素晴らしいか、安全性の担保と宣伝をこれでもかと打ち出している。

「あんなことがあったのにまだ意識保存サービスだって。凄いね」

 良い会話のきっかけになる。そう思った私が皮肉を言うと、朱音ちゃんはココアをゆっくり啜りながら鼻で笑ってくれた。

「イメージ回復に必死なんでしょ。利益を取り戻さないと株主からの印象も最悪だろうしね。いい気味だよ」

 そう言ってまるで悪魔のような笑みを浮かべた。

 本当に、この新堂朱音という人間は、一度倫理を踏み外した対象には容赦がない。徹底的に嫌って蔑み、情状酌量の余地すら無い。

 それはひとえに彼女の持つ正義感故だが、少々行き過ぎた表現をする時もあるので、宥めるこちらとしては毎回肝が冷える思いだ。

「どんな理由があっても、倫理や道徳を踏み外すようなことはやっちゃいけないんだよ」

 くるりと椅子を回して目線を外した朱音ちゃんは、冷徹な背中でそう言った。

 それについては非常に同感である。カクリヨ社の事業、ひいてはそれに癒着していた「伊邪那美いざなみの声」という宗教団体が人の信仰心を利用し、事業拡大のためにユーザーを無理やり獲得していた事は許しがたい。

 それに加えてカクリヨ社は、さやかの呪い事件が起きても、対策を講じるどころか被害者の死亡を偶発の事故として隠蔽しようとしたのだ。到底許される行為ではない。

 しかし、こうして一年と少し経った今考えてみても、物凄い事をしたと思う。一時期社会現象にもなってしまった大きな事件を解決しただけでなく、会社をまるごと潰したようなものだ。

 朱音ちゃんはよくもまぁ報復を恐れずに探偵業を続けているものだと感心する。最も、「有名になりすぎたら逆に有利、あたしが不審死したら確実にカクリヨが犯人になるから」という彼女の理論は間違っては居ないのかもしれないが。

 私は当時の記憶を断片的に思い出しながら、「カクリヨ社の新サービス『霊廟』特集!」の番組を消した。

 来客を告げる軽快なインターホンが鳴ったのはそれと同時のタイミングだった。朱音ちゃんが「早いなぁ」と漏らしながらもう一度自室へ着替えに戻った。

 あわよくば、あの影の話を朱音ちゃんと深堀りしたいと思っていたのだが、このところ探偵業はずっとこうだ。ほぼ毎日、開業時間と同時に客が押し寄せる。

 私は朱音ちゃんの代わりに来客の対応をしようと玄関へ向かい、ロックを手動で解錠した。

 冷たい空気と僅かばかりの雪の粒を伴って、背の高い男性が何度も会釈しながら入ってきた。

「えらい朝早くに悪いですね」

 よそ行きの小綺麗な格好をしてこそいるが、あまり着慣れていないのか、男性はしきりに身なりを整えるような仕草をしている。

 剃り残しの無精髭をなぞりながら喋った彼のその馴染のないイントネーションを聞くと、どうやらこの街の人間ではないようだ。

「助手の畑川はたかわです。どうぞこちらへお掛けください」

 事務的に挨拶し、応接用のソファに座らせ、男性のコートを預かってハンガーへ掛ける。

 自分たちのためにお湯を沸かしてあったので、来客用のココアをすぐに出して、私も彼の対面に座る。その後すぐに朱音ちゃんも着替え終わって出てきた。

 さっきまでほとんど下着も同然の格好だったのが、暗い朱色が主役の綿素材のタートルネックにタイトなジーンズを合わせ、冬の時期のいつもの仕事スタイルに変わっている。

「どうも、探偵の新堂です」

 朱音ちゃんが簡素に挨拶をすると、男性は名刺をぎこちなく差し出してきた。

「慣れてないもんで、すいません。千代です。千代ちしろ正樹まさき

 彼が真っ直ぐに朱音ちゃんの方を見て名刺を差し出してきたのを見て、朱音ちゃんが慌てて事務机から自分の名刺を取り出し、名刺交換を済ませる。こういう社交的な場は久しぶりだったので、彼女は慣れない手つきでぎくしゃくしていた。

 千代さんは私にも名刺を渡してくれた。いつ作ったのか、隣から朱音ちゃんが私用の名刺を寄越してきたので、それと交換する。

 ここに書いてあるのは、私のも朱音ちゃんのも偽名だ。私には「畑川琴理ことり」、朱音ちゃんには「新堂あおい」という名前が与えられている。

 仮にもカクリヨ社という大企業を潰したという背景がある私達は、受ける依頼の大小に関わらず、警戒せねばならない。今更遅いかもしれないが、少しでもリスクヘッジをすることは損にはならない、という判断だった。

 千代さんと名乗った彼から貰った名刺には「千代医院 院長」と記載されていた。

「へぇ、お医者さんですか」

 朱音ちゃんが名刺を一瞥いちべつした後に仕舞いながら聞いた。

「いやぁ、小さい村のですよ。若いのはそうおらんし、毎日じいさまばあさまの相手ばっかです」

 こうして聞いてみると、標準語と比べて軽くではあるが、言葉が訛っている。私は本物の方言というものをあまり聞いたことがなかったので、ついつい聞き入ってしまった。それほど崩れた表現は無いので、意味はしっかりと伝わる。

「それで今日はどういったご用件で?」

「こちらの探偵さんは、幽霊絡みの事件に強いと聞いたもんでね」

 またか、といった様子で朱音ちゃんが最大限表情を変えず、押し殺した溜息を吐いた。それに千代さんがまだ気付いてないうちに、私がすかさずフォローを入れる。

「最近良く来るんですよね、そういったご依頼」

「そうでしょうね、自分らの村にも評判が届くくらいですから」

 千代さんが私を見てにっこりと笑いそう答えると、しかしすぐに頭を振った。

「どうもジジババに囲まれてると前置きが長くていけんな。あーその、うちの患者さんの事なんですがね……」

 見た目はまだ若く、私よりいくらか歳上なだけなのだろうが、訛って喋るとより一層老け込んで見えてしまう。言葉が訛るのは、彼の周りにある環境の影響も強いようだった。

 そして一息ついてから身を乗り出し、千代さんは真っ直ぐ朱音ちゃんを見つめて本題を話し始めた。

「その子にはどうも、普通じゃ見えない何かが見えとるらしいんですよ」


 千代さんが数日前に保護し、入院という形で医院で身を預かっている身元不明の少女が、見えない何かに怯えているのだという。

 彼女は見た所十代後半から二十代前半で、身元の証明となるものどころか、携帯や手持ちのものを何一つ身につけておらず、まるで着の身着のまま飛び出してきたような格好だったそうだ。

 どこかの学校指定の制服を着ている様子で、登校する途中の学生のように見えたが、本当のところは不明。

 そんな格好で倒れているのを千代さん本人が発見し、現在自分の医院でその子の身を預かっている、との事だった。

「ちょっとストップ。……情報が多すぎやしませんか?」

 朱音ちゃんが分かりやすくしかめっ面になってそう言った。まだ起き抜けだし、頭を仕事モードに切り替えきれていないのだろう。目元も多少濃いめのメイクで隠してはいるが、まだ若干赤みが隠しきれていない。

 千代さんはその不機嫌そうな朱音ちゃんの空気を感じ取ったのか、申し訳無さそうに頭をかく仕草をする。

「えっと、その子は村の人間ではないんですか?」

 私が情報を整理するためにそう聞くと、千代さんは少し詰まって、考えるような仕草で視線を宙に投げ、答えた。

「いや、よその子じゃねぇかやぁ? 村じゃあんな若い子は珍しいで、どこの誰かってすぐ分かりますけど……見たことないでなぁ」

 私の質問に答えるように、だが自問自答するように目を伏せたまま唸る彼に、今度は朱音ちゃんが質問する。

「本人は何て言ってるんですか?」

 千代がそれを受けて、落とした視線を今度は朱音ちゃんに真っ直ぐ向けた。

「いやそれがね。覚えてない、って言うんです。自分はそういうのは専門でないから、ワケ分かんなくて」

 朱音ちゃんは顔を更にしかめ、遂に頭を抱えてしまった。無理もないなと思う。私もついていくのに精一杯だった。

「つまりその子は……記憶喪失って事ですか?」

 私がそう補足してみると、千代さんは私の方を見て口をへの字に曲げ、ゆっくりと頷いた。

 私が朱音ちゃんと目を合わせると、彼女は首をわざとらしく傾げてみせ、これでもかと言うくらい嫌悪感丸出しの顔になった。

「……えーっと、警察には?」

 より強くなったしかめっ面を伏せたまま、朱音ちゃんは床に落とすように言った。

「探偵さんに見てもらってから届けようかと」

 千代さんはそう言うと大きく溜息を吐いて、目線と肩を落とした。

「あの子の怯えぶりはなかなか……尋常でない。探偵さんたち、どうにか出来ませんか」

 その時の千代さんの表情は本当に痛々しく、心の底から患者のことを心配している事がひしひしと伝わってくる。

「それが見えるたびにね、あの子言うんですよ。『』って」

 その言葉が持つ不快な響きが嫌な反響を起こし、私は思わず悲鳴を上げそうになったのをどうにか抑えた。

 朱音ちゃんを振り返ると、彼女も驚いた様子で固まっている。

 無理もない反応だった。「その言葉」をまた聞くことになるなんて思っても居なかったからだ。

「……どうかしました?」

 怪訝そうな顔で千代さんが私達二人を見やる。

「いえ、すみません……。わかりました。じゃ現地向かうんで、先導してください」

 朱音ちゃんが大きく吐き出すように言って立ち上がり、自分と私の分のコートを掴んだ。

「ちょっ……え? 今から?」

 私は思わず大きな声を出してしまった。投げ渡されたコートに袖を通すかどうか迷っている間にも、朱音ちゃんは既に玄関へと向かっていた。千代さんもたじろいだ様子で朱音ちゃんと私を交互に見やっている。

「行動は速い方がいいでしょ。それに、記憶に纏わる話なら得意分野だし」

 彼女が言わんとすることはすぐに理解出来た。私がその子の記憶を見ればいい、ということだろう。

 それに、このところ舞い込んでくる幽霊絡みの依頼は、そのほとんど全てが見間違いか気の所為、もしくは強い思い込みなどだった。

 きっと今回の件も、強い精神的ショックを受けた少女が、そのストレスから来る幻覚か何かを見ている、と、少なくとも朱音ちゃんはそう踏んだし、そうじゃなくても私の能力を使えば、一発で何があったのか分かる。

 探偵としてはそれはかなりズルじゃないかとは思うが、確かにそれが一番手っ取り早い。

 それに、これは私もそうなのだが、このところこういう幽霊絡みの依頼には少々参ってきた。

 本物の幽霊と相対したいわけでは全く無いし、困っている人を助けるのは当然だ。

 それでも、触ってないのに物が動いた、誰かの声が聞こえた、といったような少し不可思議な出来事を「幽霊の仕業だ」と強烈に思い込んでいる人間を説得するのはなかなかに骨が折れるものだ。

 もう、「さやかの呪い」は無くなっている。幽霊を見ることなどあり得ない。

 しかし、では昨日のあれは──。

「評判以上だんなぁ。んじゃ先導しますから、長い道のりでしょうが、ついてきてください」

 千代さんが目を輝かせて立ち上がる。私もコートを羽織って後に続いた。

 事務所を後にし、朱音ちゃんの車に乗り込んでナビが示す目的地を見ると、到着時刻はおよそ三時間後を示していた。

 朱音ちゃんの顔がより一層沈み込んでいるのを見て、私も思わず溜息を吐いた。

「ねぇ、記憶喪失の人の中に潜ったことある?」

 エンジンをかけ、先導する千代さんの車を追いかける形で道路に出た後、朱音ちゃんが話しかけてきた。

「ううん。まだ試したこと無いかな」

 思い返してみても、そのような症状を持つ人の記憶に潜ったことはない。

 多少の記憶の欠如であれば、例えば失せ物探しなどの場合は、その失くした物に関する記憶を見ることが可能だ。実際、探偵業の一環で似たような状況になったことがあるが、その時は問題なく記憶に潜れた。

 ただ、記憶喪失というのが私のイメージ通りなら、ほとんどの記憶が抜け落ちている可能性が高い。

 症状に詳しい訳では無いし、千代さんが保護するその女の子の症状がどのぐらいなのかで程度は変わるだろうが、それでも微かに残った記憶が残留しているのなら出来ない事はないだろう。多少薄い記憶でも、中に潜れたなら、そこから本人も覚えていない記憶を辿っていく事は出来る。

「でも、ちょっとでも覚えていることがあれば、それを足がかりにして潜行し続ける事は出来るよ」

 長い間人の記憶の中に潜るのは、その人の感情に強く影響されるということでもあるので、多少の危険を伴う。私がその人の感情に支配されることになるからだ。

 しかしそれでも、私の能力が朱音ちゃんの役に、何より人の役に立つのなら、そうしたい。出来るだけ頑張りたい。

 そう思う意志が、たとえ難しい問題だとしてもそれを解決する助けになる。そう私は信じている。あの時、強い意志でさやかの呪い事件を解決に導いた朱音ちゃんを見ていたから、自分もそうなりたいと余計に思っている。

 朱音ちゃんは私の返答に頷きながら、鋭い目付きになっていった。仕事モードの顔だ。

 それからの間、私は話す必要があると思ったのだが、何故だか向かう道中、昨日見たあの影の話はしなかった。

 したくなかった……という方が正しいのだろうか、とにかく私も朱音ちゃんもそのことは話さなかった。

 その代わり私は、千代さんが言っていたあの言葉を思い出し、口に出した。

……」

 朱音ちゃんが私の発した言葉に反応し、すぐに口を開く。

「あたし、その言葉すごい嫌。めちゃくちゃ嫌悪感がある」

 私も全く同じ感情だったので、深く頷いて同意する。

「覚えてる? あの事件の後、幽霊を見たっていう依頼者たち、みんながみんな、『』って言ってたの」

 朱音ちゃんは眉をひそめて頷く。

「そのせいで嫌いになったからね。何の共通点もないはずなのに、その言葉だけが一致してたなんて、気味が悪いにも程があるでしょ」

「今回の依頼もだけど、何か関係あるのかな? ほら、あの……カクリヨの新サービス」

「百パー無い……とは、言い切れないね」

 それっきり、私も朱音ちゃんも何も言わず、車内は静かになった。

 現場まで、三時間ほどの長距離移動になる。私は窓の外を見上げた。

 舞い散る雪が薄く窓に落ちては溶けていくのが見える。儚げで美しくも思うその光景を眺めていても、不安は晴れない。と同時に、自分がそう思っていたことを意外に思った。

 本当に今回の依頼は上手くいくのだろうか、自分はその子の記憶をなんとかしてあげられるだろうか?

 出来ると言っておきながら、出来なかったらどうすればいいだろうか。

 私は実のところ、自信が無かったのだ。

 それに気づいてからはずっと、窓の向こうの溶けていく雪をただ眺め続けていた。雪と共に不安も消えて欲しいと願ったが、結局、現地に着くまでそうはならなかった。

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