一章 Dissonance

一章 1

 新堂しんどう朱音あかね


 焦燥、恐怖、憤慨、そして虚無──。

 それらが大挙して押し寄せ、脳内に飛び込んできた衝撃で目が覚めた時は、ここが現実なのか夢なのか分からなかった。

 荒い呼吸を必死に整えようとしても上手くいかない。肺の中に空気が足りず、酸素が脳に運ばれて来ない。痛みと苦しみが私を支配していき、胸を抑えていた手は次に頭を支える。

 だけどこうしたところで痛みは和らがない。強くなる苦痛にやがて涙が滲み始め、まだ鮮明でない視界が余計に霞んでいく。

 恐ろしい夢を見た。それは自分でも分かっていた。だが覚醒したばかりの脳ではそれを処理する能力がない。体が震え、正体不明の不安感だけが心に重く残っている。

 更に荒くなっていく呼吸をなんとか抑えようと、私は自分の喉を無意識に締め始める。他に方法が分からなかった。最初は片手で、それでも治まらないなら両手で。

 荒くなり続ける呼吸はその間隔をどんどん縮めていき、冷や汗が止まらないまま、ついには指先が痺れてくる。そうしていると意識が再びまどろみの向こう側へ引っ張られていくのだが、どうしたって止める術がない。

 向こう側は、真っ暗だ。私はこのまま、あっけなく死んでいくのだろうか。

「ゆっくり、吸うんじゃなくて吐くんだよ」

 半ば諦めかけた時、誰かの手が私の背中を優しくさすった。

 その温かい声色と感触に緊張が解かれていき、ゆっくりとだが呼吸の感覚を思い出す。リズムを作り、隣の彼女が一緒になって正しいやり方を促してくれた。呼吸と心拍が落ち着いてくると共に、霞んでいた視界のピントも戻ってきた。

 寝癖がついて乱れた赤毛の長い髪を直そうともせず、優しそうな表情を浮かべた彼女は、私の呼吸が完全に落ち着くまで、ずっとそのまま支えてくれていた。

「……ありがとう、むぎちゃん」

 彼女はここに一緒に住んでいる畑川はたかわ小麦こむぎ。一部屋隔てた隣に居たはずだったが、起こしてしまったようだった。

「また、怖い夢を見たの?」

 小麦は優しい表情のままそう聞いてきた。そして私の手を握ろうとしたが、しかし一瞬止まって手を引っ込めた。

 これが、彼女の優しさから来る行動だということを私は知っている。だからこそ、彼女に気を遣わせている自分の弱さが嫌になった。

「うん、同じ。あの、燃える夢……」

 頭の天辺から足元まで貫く轟音、肌を焦がす熱風、飛び交う悲鳴と怒号、その中で自分がただ一人、赤を背景に立っている。

 自分は無力で、その場から一歩も動くことは出来ない。目の前のたった一人さえ救うことが出来ない。絶望に苛まれ、それでもただ突っ立って涙するしかない自分の非力さを、嫌というほど味わわせられる。

 そして大切な人を失ったことに気づいた時、全てが凍りついて冷たくなった。どこにも温もりはなく、自分の手すら氷のように冷え切っている。

 何もかもが冷たくなった真っ黒な世界で、ただ一人自分だけが遠くを見つめている。

 喪失と憎悪が混ざり合い、やがてはいくつもの感情が絡み合った濁流に変わり、次第に勢いを増していく。どうしようもなく辛くなり、喉を潰して叫ぶのだが、自分の声も濁流も飲み込まれていき、最後に自分の声がこだまのように返ってくる。

 「お前は、何者でもない」

 それで終わり。

 夢の内容はいつも同じで、心が憔悴しきっている時によく見てしまう。

 しかも最近はそれだけに留まらず、うっすらとではあるが、幻覚のようなものも見え始めていると自覚している。

 今だって、小麦の後ろに立つ何かが私には見えている。いや、見えていないのかもしれない。よく見れば何もいない。光の具合でそう見えるだけなのだ、きっと。

 心配そうに覗き込む小麦がその視線に気づくも、彼女にはやはり何も見えてはいない様子だった。

「少し、休んだらどうかな」

 小麦が優しくそう問いかける。

「そうしたいところだけど……。そうもいかないんだよね」

 ブラウスを摘み、胸元でばたつかせて汗ばんだ肌を扇ぐ。その勢いで髪をかきあげてついでに額も拭った。

 思った以上に汗をかいていた。部屋の室温は低いはずなのに、それほど自分がこの夢を恐れているのだと実感する。

 一息ついてから、私は小麦へゆっくりと手を差し出した。この行為の意味は、彼女も理解してくれている。

 小麦は少し驚いたようだったが、何も言わずに差し出した私の手を握ってくれた。彼女には、普通の人間では有り得ない、ある特殊な能力が備わっている。

 畑川小麦は、である。すなわち、自らが触れた場所、物体、人物に宿る記憶や感情へと意識を潜り込ませ、読み取ることが出来る。

 彼女曰く、記憶への潜行はまるで夢を見ているように、自分で体験したように目で見て感じることが出来るのだそうだ。

 しかしそれは、人の心に土足で踏み入るようなものである。だから小麦はいたずらにこの能力を使ったりしない。先程私の手を握ろうとして躊躇したのも、うっかり記憶を覗いてしまう事を避けるためだった。

 だけど今は違う。私の方から小麦に、心に秘めていることを見て欲しいと頼んだのだ。

 握った手がびくりと跳ねる。何かに怯えているかのように小刻みに震え、その後はぐったりと力が抜けていった。きっとさっき見た私の夢の記憶を同じように追体験しているのだろう。

 滲んだ手汗の感触が掌に伝わってくるが、しかし緊張で上がるはずの体温はまるで感じられない。

 彼女の手は、死体を彷彿とさせるほど冷たい手になっていた。

 ゆっくりと引っ込めた手で、小麦はいつの間にか零していた涙を拭う。彼女がこんなにも落涙するのを、私は初めて目にした。

「残酷過ぎるよ」

 押し殺したような声で小麦はそう呟き、また一粒の涙を零した。やがて表情を崩し、嗚咽し始めてしまった。

 この夢を見るのは辛い。それを承知で、小麦に自分の過去を知ってもらいたくて手を差し出した。だけどそれは自分勝手で残酷な行為だったとすぐに後悔する。

 小麦は恐らく、私の記憶の中に潜りすぎている。

 先程からずっと涙が止まらない様子だった。両手で顔を覆い、止まらない涙を拭いすぎて、もう目が真っ赤に充血している。

 少しでも分かち合えたら、少しでも負担が減るなら、ただそう思っただけだったのに、それはとても軽率な行動だったと思い知らされた。

 私の想像する以上に、彼女の力は強力で、苛酷なものだった。

 感情の影響が信じられない勢いで流れ込むということも、記憶を通して冷たい世界が体温ごと下げるような影響を与えることも知らなかった。

 私は咄嗟に、小麦の両手を止めた。そして、涙で濡れた両手を強く握りしめる。後悔の表現の仕方が、他に分からなかった。

「ごめんね」

 ある大きな事件をきっかけに、私と小麦は一緒に住むことになった。それは確かにただの成り行きではあったのだが、私は小麦を友人だと思っていた。

 だけど、心の奥底ではまだ他人であるという認識が強かったのかもしれない。だから、彼女が傷付くとしても、自分の抱える暗い部分を、ただ一方的に共有したかった。悩みを聞いて欲しかった。

 それがとても自分本意なことだとは微塵も思わずに。

 心の内を話すことだけでも、状況や人によっては抱えきれないほどそれが重く伸し掛かることもある。ましてや、それを直接体験出来る彼女なら尚更だ。

 さっき私が見た夢の何倍も何倍も、辛い思いをしたのだろう。

 自分のせいでと思うと、やるせなくて仕方がない。ただただ謝罪するしか私には思いつかなかった。

「……朱音ちゃん。私はきっと、その人の代わりにはなれない」

 小麦が泣き顔を伏せて言った。サイドテーブルのティッシュボックスを掴んで、何枚か一気に引き出して、大きく顔を拭う。

「けど、私は私なりに、朱音ちゃんを支えていきたい」

 そう言い切ると、泣き顔のまま精一杯笑ってみせた。

 私はその笑顔の奥に、かつて親友だった人を見た。思わず忘れかけていた彼女の名前を小さく呟く。

七彩ななせ……」

 小麦が見せた笑顔は、彼女と同じ笑顔だった。誰かを想い、誰かのために一生懸命になれる、今はもういない人と。

 そして思い出す。今度は自分が彼女のために、彼女の意志を継ぐのだと決意したことを。

「麦ちゃん、ありがとう」

 そう言って握っていた手を今一度強く握り直した。後悔ではなく感謝の念を伝えられた頃、もう既に彼女の手は暖かさを取り戻していた。

 見上げた小麦の顔に再び伝った涙は月光を反射し、宝石の様に煌めいていた。

 その最後の涙は嬉し泣きだったらいいなと思いながら、私も気づけば一緒になって泣いていた。いつの間にか呼吸の苦しさも不安感も消え去っていた。

 ベッドから起き上がって窓の向こうを見上げると、雪がハラハラと舞うのが見えた。

 寝直すために二人分の温かい飲み物でも淹れようと、キッチンの方へ向かおうとした時、小麦が部屋の入口を凝視しているのに気づく。

 どうしたのかと目線を追ってみると、少し開いたドアの隙間から、影のようなものが見えた。それが人の形をしていると気付いた瞬間、思わず絶句してしまった。

 瞬きの間に影はいなくなった。視界に焼き付いた残像を、記憶の中の情報と照らし合わせる。影は確かに人の形をしていた。頭と胴体、四肢までしっかりとあった。

 だが、絶句してしまった理由は、その影の姿にあった。自分が高校生の時に着ていた学校指定の制服、それと同じもの。

 顔までは確認できなかったが、恐らくあれは私の知っている人物。なによりも先程、彼女の夢を見ていたのだから間違いないと思う。

 十八歳の時、事故に巻き込まれ死んでしまった、かつての親友、林藤りんどう七彩ななせ

「ねぇ、いま……」

「朱音ちゃんにも見えたの?」

 腫れた目を剥いてこちらを振り向いた小麦の言葉から察するに、どうやら彼女にも同じものが見えていたようだ。

 今のが私の幻覚などではなかった事の裏付けになる。確実に彼女はそこに居たのだ。

 だけど、七彩はもういない。自分のこの目で死を確認したのだ。それは疑いようもない事実だ。

 頭の中に色々な説が浮かぶが、それらをかき消して辿り着く結論は一つ、「」だ。これだけは、消したくても消せない可能性。

「いや……ごめん、きっと気のせいだよね。あれからまだ、一年しか経ってないから」

 小麦が続けたその言葉を拾って、私も頭の中で反芻する。

 この世界は「ある事件」によって、幽霊のような影を見てもおかしくはない不思議な現象が起こりうる。

 しかしそれは、特殊な条件によって引き起こされる脳のバグのようなものだ。そしてそれは直すことが可能で、私も小麦も、幽霊を見る条件からは既に外れているはずだ。

 なのに見た。たったいま、この目で。

 自分の感覚が信じられなくなったが、見てしまったことは事実だ。改めて頭の中でさっき見た姿を思い返しても、ただ確信が強くなっていくだけ。

 眼の前に広がる世界がやけにいびつに見えてくる。いや、そもそも最初から歪だったのだろうか?

 立体的に配置されたジグザグは、角度を変えればただの一本の線にしか見えない。

それと同じで、私が気づいていないだけ、私が見ようとしていなかっただけなのか。

 ただひずんでいるだけで、真実はその歪みの影にこそ隠れているのではないだろうか。

 結露した窓の向こうに広がる闇の中、降っていく雪の合間に垣間見える闇を恐れながらも、私は再び横になり、睡魔が来るのを心から待ち望んだ。

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