ディストーション・デルタ
りっきぃ
序章
序章
凍てついた冬の匂いがする。
乾いた風がそれと共に鈍痛を運んできて、わたしは目を覚ました。
耳鳴りがいつまでも鼓膜に張り付き、瞼もまともに開けられないが、自分が今横たわっているのはなんとなく感覚で分かった。
酷く軋む体は鉛のように重く、やっとのことで顔をあげると、どうやらそこは屋外のようだった。
周りを見回しても、何も無い。いや、知っているものが何もない、と言ったほうが正しい。
何が起こったのかを思い出そうとして、わたしは恐ろしいことに気がついた。
頭の中に、情報が全く無いのだ。
ここが何処で、今は何日の何時で、今まで何をしていて……。それらが分からないだけでも異常なのに、更に信じ難い事が起こっていた。
自分の名前が思い出せないのだ。なんという名前の誰なのか、全く分からない。
「自分」という存在が白紙そのものになっていた。
背筋に冷たいものが走る。疑問と焦燥がもの凄い勢いで襲いかかってきて、何度も何度も自問するが、自分の事は何一つ思い出せない。
起こした身体の各所を触って確かめる。この時まで、自分が女であることすら不明だった。顔を触り、土混じりのざらついた髪を乱暴にかきあげる。視界の端に映る髪の毛は黒い。肩口より上で短く切り揃えているようだ。
上半身は滑るような手触りの、柔らかいがしっかりした作りの服を着ている。ジャケット、いや、これはブレザーだ。
下はプリーツのついたスカートを履いており、伸びた足先の向こうに泥塗れのローファーが二足、転がっていた。倒れたときに脱げてしまったのだろうか。
今自分が着ている服装が、どこかの学校指定の制服なのはわかったが、どこの学校か、誰のものかは相変わらず分からない。
着ているということは自分の服で、わたしは学生であるということなのだろうが、そうだとしても全く腑に落ちない。身に覚えが一切無いのだ。
何が起こったのだろう、靴を履いていたということは、外出中に何かが原因で気を失って倒れた、と考えるのが妥当だろうが、では一体何故こんなところで倒れていたのか。
震える足に力を込めながらゆっくり立ち上がって、もう一度周囲を見渡してみると、周囲は森のようになっているようだった。
舗装されていない砂利道の周りに色彩の消えた木々が佇んでいる。その葉は枯れ、冷たい風を受けて不気味に踊っている。
曇天の空を仰ぐと、はらはらと雪が舞っているのに気づく。目眩にふらつきながらも雪の粒を一つ追いかけて、掌で受け止めると、体温ですぐに溶けてしまった。
その景色の向こう側、砂利道の真ん中に誰かが立っていた。
真っ白な女性が、降る雪の合間に見えた。服装は分からない、ワンピースなのかドレスなのか、はたまた何も着ていないようにも見える。
その形は一定ではなく、不規則な水面の波のようにゆっくりと姿を変え続けている。
だが表情だけは不思議とハッキリ見える。彼女は、儚い笑顔を浮かべていた。
その人はわたしの方を見据えていたと思ったら、波のように緩やかな動きで振り返ると、道の奥へと歩いていく。視界から外れそうな位置まで歩くと、こちらをまた振り向く。
誘導しているのだ。どこかへ。
それが正しい判断なのかはともかく、このまま何も分からないよりはマシだろう。他の情報が少しでも知れるのなら。
そう思い、わたしは未だおぼつかない足元をゆっくりと踏みしめ、少しずつ彼女の後ろを着いて歩く。
砂利道はやがて舗装された道路になり、木々の間から一軒の家屋のようなものが見えてきた。
その軒先と道路の間に、人が倒れているのが見えた。駆け寄って安否を確かめようかとも思ったが、不思議なことに、前を歩く女の人の許可無しで勝手な行動は出来ないと感じる。
本人にそう命令されたわけではない、脅されたわけでもない。彼女は依然として、足を止めたわたしを微笑んで振り返り、そちらへ向かうのを待っているだけ。何か言われるどころか、干渉される事など何もない。
なのに、それ以外の事をしてはいけない、とわたし自身が強く思っている。まるで彼女にそう呪縛されているようだった。
倒れた人を横目に、再び歩き出す。通り過ぎる合間、ちらりとだがその顔が見えた。
笑顔だった。
目がカッと見開き、しかしその目尻は緩み、広角がつり上がっている。中年の女性だった。自分もこのようにして倒れていたのだろうか?
家屋の玄関は開け放たれており、その奥にもう一人倒れているのが見えた。
今度は中年の男性。先程の中年女性と全く同じ笑顔で、同じように倒れ込んでいる。
奇妙な光景だった。
二人共、肺が息を吸い込み、胸が収縮する様子が全く無い。そこでやっと気づいた。
死んでいるのだ。
さっきまで混乱が支配していたわたしの感情が、一気に恐怖へと変わり、血が凍ったような感覚を覚える。その瞬間からもう周りを見ることは出来なくなった。
先導する白い女性を追って歩いていく道中も、同じような様子の人たちが
皆一様に同じ笑顔で倒れ込み、瞬きも呼吸もせず、ぴくりとも動かない。
歩いていくほど景色は変わっていくが、生きた人間には遂に一人として出会わなかった。
その代わり、ここが村のような地域だという新たな情報を得た。歩くほど文明を感じられるのは僅かな希望だった。
しかし、その文明の象徴たる人間は、誰もが不気味な笑顔で倒れ、死んでいる。
未だ自分が誰かも思い出せず、何をすればいいのかも分からず、雪の積もっていく誰もいない村を歩き続ける。自分を何処かへ誘おうとする女性の後を追って。
もしかしたら、私は夢か何かを見ているのではないだろうか?
そう考えれば考えるほど、目の前の景色から色が失われていく。今この瞬間が本当に現実なのか分からなくなった。
だが、身体の軋みや頭痛、そして何よりも、冷たく乾いた冬の匂いが、これは現実だと教えている。五感は嫌にハッキリしていた。
途轍もない不安が涙になって頬を伝っていく。
恐ろしくなって足を止め、後ろを振り返ってみた。何か他に縋るものがないのか、何でも良いから目に留めたかったのかもしれない。
遠くにはぼんやり浮かぶ山の稜線が、白く染まっているのが見える。雪は勢いを増していた。
今歩いているここは、かつては小さな商店街として活気づいていたように見えるが、きっとさっきまでそこにいたであろう人たちは、今や無惨にも、誰も彼もが四肢を投げ出し、場所を選ばずそこかしこに倒れていた。皆やはり、同じ笑顔を貼り付けて。
彼らに降り積もっていく雪が、まるで死に装束のように見えた。世界全体が丸ごと全て、死に覆われている。
気づけば、前を歩いていた女性がわたしの隣に立ち、同じようにこの光景を眺めていた。
何もかも霧がかかったように不明瞭で、一切合切が理解不能で、これらの事象全部が恐ろしい。恐ろしすぎて、もはや今何に対して涙を流しているのかすら分からない。
自分の記憶が全く無いことになのか、この村の寂しい光景になのか、どこへ行っても同じ死体だらけの異常な状況になのか。
ふと、視界にノイズのようなものが走った気がした。さっきまで聞こえていた耳鳴りがより強くなり、幾らか和らいでいた頭痛が再来した。
耳鳴りはやがて重くなっていき、それが上の方から聞こえているように感じる。ふと空を見上げると、降りてくる雪と真逆の方へ上っていく点のようなものがある気がした。
よく見ると、上へ登っていく点はいくつもあり、それはどこか、人の顔のように見えた。
情報の処理がもう追いつかなかった。
わたしは本能のままに、一気に飛び出した。走ることを忘れていた肉体は何度もバランスを崩して地面に倒れ込んだが、その度に「逃げなくては」という強い意志が足を動かした。
最後に振り返った時、白い女の人はやはり悲しそうに儚い笑顔でこちらをただ見つめていた。だが、もう先導することも、追いかけてくることもなかった。
そして、いつの間にか身体の自由が効いていることに安堵し、この異常な場所から一刻も早く抜け出そうと駆け出したが、未だ襲い来る激しい頭痛に耐えきれず、わたしは崩れ落ち、倒れた。
薄れゆく視界の中、最後に映ったのは、舞い散る雪と笑顔の死体たち。そして、目の前に鎮座する鳥居のような建造物だった。
その瞬間の世界は途轍もなく
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