第8話 奪われたくない

 ブランシュが立ち去り、静かになった部屋でアスールはぼんやりと床を見つめ続けていた。


(もしレティシアが縁談を望まなければ、告白する?あのブランシュのことだ、本気なのだろうな……もしブランシュが告白して、レティシアがそれを受け入れたら?)


 ダンッ!とアスールは机を叩き、そのまま机に突っ伏した。


(もしもブランシュとレティシアが恋仲になって結婚することになったら?俺は二人を祝福できるのか?俺はレティシアを諦められるのか?)


 レティシアの隣にいるのが自分ではなくブランシュだとしたら。レティシアから笑顔を向けられるのも、レティシアに触れることができるのも自分ではなくブランシュだとしたら。自分のごく身近にいる人間、ブランシュがレティシアの相手になるかもしれないということは、レティシアの祖母が持ってきた縁談の相手のような見知らぬ誰かよりも遥かに許し難い。そもそも、耐え切れる自信がない。


 だからと言って、レティシアに自分の気持ちを伝えられるかと言えばそれはできない。もし伝えたとして、ただの兄としか思っていないと言われたら。そしてその後、今までのような関係性が崩れてしまったらと思うと怖くて仕方がないのだ。


「俺は、一体どうしたらいいんだ……」


 机に突っ伏したまま放たれた言葉は、宙を彷徨った。







 レティシアに縁談話が持ちかけられてから数日が経った。レティシアは今までとは特に変わらず、寮母としての仕事を淡々とこなしている。レティシアの縁談話に盛り上がっていた団員たちも、レティシアの特に変わらない様子に飽きてしまったのだろう、騒ぐことも少なくなっていた。


「レティシア」


 レティシアが寮内の掃除をしていると、ブランシュが声をかけてきた。服装は騎士服ではなくラフな格好で、どうやら今日は非番らしい。


「ブランシュ、今日はお休み?」

「うん、休みだ。何か手伝うことはある?」

「大丈夫、ここの掃除ももうすぐ終わるし。せっかくの休みなんだからゆっくりしててよ」


 非番と言っても騎士団なのだ、突然の召集がいつかかるかわからない。休めるうちにしっかり休んでいてほしいとレティシアは心から思う。


「ねぇ、レティシア。……この間の縁談の話なんだけど」

「うん?」


 ブランシュの言葉に、レティシアの肩が一瞬揺れる。だが、何事もなかったようにすぐブランシュの方を見て首を傾げた。


「どうするつもりなの?」


 じっとレティシアを見つめるブランシュ。その瞳は、不安と焦りが入り混じったような複雑な瞳をして微かに揺れている。だがそんなブランシュの瞳に気づくことなく、レティシアはただブランシュをじっと見つめた。


「……縁談は、お受けするつもりよ。明後日、お相手の方と会う予定なの」


 レティシアの言葉に、ブランシュは両目を見開いて息を呑んだ。


「……そう、なんだ。そっか」

「もしかして結婚したら寮母を辞めるかもとか思ってる?辞めないから心配しないで。って、私みたいな寮母のことなんて誰も心配しないか」


 フフッと笑うレティシアを見て、ブランシュは思わず眉を顰める。だがレティシアはどうしてブランシュが険しい顔をするのか不思議だった。


「どうであれ俺はレティシアにずっと寮母でいてほしいと思ってるよ。俺が心配なのはそこじゃない」


 少し低く静かな声でブランシュが言うと、レティシアはキョトンとしてブランシュを見る。


「レティシアはそれで本当にいいの?」


 ブランシュのキラキラとした薄いアメジスト色の瞳がレティシアをじっと見つめる。あまりにも真っ直ぐな瞳に、思わずレティシアは目を逸らし床を見た。レティシアは口を開いて何かを言いかけてすぐ閉じ、そしてブランシュを見つめ返し、言った。


「うん。ちゃんと考えて、決めたことだから。だから、大丈夫」


 そう言って静かに微笑むレティシアの顔は、晴れ晴れとしているがほんの少し痛々しくも感じられ、ブランシュは思わずレティシアに近づき、手を握った。その距離は今にも唇が触れてしまいそうなほどで、レティシアは思わず後ずさる。だが、ブランシュがレティシアの手を強く引き寄せ、その距離が離れることはなかった。


「レティシア、もし縁談相手が嫌な奴だったら、すぐに戻ってくるんだよ。我慢することなんてない、レティシアの居場所はここなんだから。もしもここに居場所がないって思うようなら、俺が君の居場所になる」


 ね、と言いながらブランシュはレティシアの額に自分の額をそっと合わせる。あまりに突然のことにレティシアは頭が回らない。ブランシュとのあまりの距離の近さにレティシアの体温はどんどん高くなっていく。


「そ、それって、一体どういう意味……」


 顔を真っ赤にしながら絞り出すように言うレティシアに、ブランシュはほんの少し微笑んで額を離した。


「そのままの意味だよ」


 そう言ってブランシュは掴んでいたレティシアの手を離し、レティシアから数歩距離を取った。


「掃除の邪魔をしてごめんね。それじゃ」


 ブランシュは何事もなかったかのように微笑んで、その場から立ち去る。レティシアは呆然としながらブランシュの背中を見つめていた。


(今のは、一体、何?)


 ブランシュとの距離の近さ、握られた手や合わせた額から伝わる体温、向けられた熱い視線と言葉。今まで感じたことのないブランシュの様子に、レティシアは混乱し顔が赤くなっていく。


(よ、よくわからないけど、とにかく、掃除しなくちゃ……)


 混乱する頭をぶんぶんと大きく振り、くるっと後ろを振り向くとその先に人が見える。そして見えた人物の姿に思わず喉がヒュッとなった。そこには、一言では言い表せないほど複雑な表情をした団長が悠然と佇んでいた。


「だ、団長……!」


「レティシア、ブランシュと随分と仲がいいようだね」


 静かに、じわじわとアスールがレティシアに近づいてくる。あまりの気迫にレティシアは後ずさるが、アスールの歩幅は大きくあっという間にレティシアの目の前に来る。しかもレティシアの背中に壁がぶつかり、レティシアは壁とアスールに挟まれる状態だ。


「い、いつからいたんですか?」

「そこの曲がり角を曲がって来ようとしたら二人の声がしたから何事かと思えば、驚いたよ」


 そう言ってレティシアを見下ろすアスールの目は据わっている。そして静かにレティシアの手を掴み、そっと唇を近づけた。その様子にレティシアは驚いて手を引こうとするが、アスールの掴む力は強く、そのまま手に口づけをされてしまう。


「だ、団長!?何を……」

「レティシアの居場所は、俺だろう?俺だけが、レティシアの居場所であってほしい」


 レティシアの手から唇を離したかと思うと、今度はレティシアの額にそっと口づけた。またもや突然のことにレティシアは混乱し、呆然とアスールを見つめる。レティシアの顔は真っ赤で、まるでゆでだこのようだ。


「だ、団長」

「レティシアの居場所は、あいつじゃない。俺だ。……俺だよね」


 懇願するようにアスールはレティシアを見つめる。答えるまではこの手を離さないという気迫がうかがえる。


「は、い」


 やっとの思いで言葉を口にすると、アスールはホッとしたように微笑んだ。そして静かにレティシアの手を離す。


「驚かせて悪かった。それじゃ」


 困ったような顔をしてそう言うと、アスールは静かにその場から立ち去った。何が起こったのか全く理解できないレティシアはただただ呆然としている。そして、突然その場にへなへなと崩れ落ちた。手や額に残る団長の唇の感触を思い出して、思わず両手で顔を覆う。


(な、な、な、何?何が起こったの?どうして?何?あれは何!?団長、一体どうしちゃったの!?)




 




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