8 自分の手で、自分の足で

 歩き始めてまだほんの二日しか経っていないが、とても長い時間が過ぎたように感じるほど疲れていた。

日が沈み始めている。

 思えば、丸一日以上一人で過ごすなんてほぼ初めてのことだった。村ではいつも、じいさんが側にいてくれたし、じいさんがいない日はヤカやナハ、その家族の人たちが一緒に過ごしてくれていた。

(…一度だけ一人で夜を過ごしたことがあったな。それも家ではなく、深い深い森の中だった)

 イーゴとの最後の狩りの修行の日だ。彼女は優しく、そして厳しい師匠であった。


その日は、イーゴとの最後の修行の夜だった。それまでおおよそ一年程色んな事を学び、その仕上げに夜の森で一人過ごしてみろと言われたのだ。

イーゴは焚き火を消すとスッと夜の森に姿を消してしまった。

初めは、急に夜の森で一人になり怖くて動けなかった。暗闇で獣に襲われ、どうにか木の上に逃げた。怖さを紛らわすため独り言を言いながら夜明けを待った。

そうこうしている間に月がほとんど沈みかけており、もうすぐ夜が明けそうだった。ずっと木の上に同じ体勢でいるのは辛く、意を決して木から降りることにした。

どうやってこんなとことへ登ったんだと考えながら、滑らないよう幹の手を掛けられるところを確認しながらゆっくり降りる。どうにか地面に足が着いた時、チーリは驚きの余り大きな声を出してしまった。

「なんだい、大きな声を出して。まだ夜は明けてないよ」

 イーゴが木の下で、落ち葉を被り座って眠っていたのだ。チーリの声ですっかり目を覚ましたようだ。少し体を動かすと、チーリの頭を撫でてくれた。

「初めて一人で過ごす夜にしては悪くなかったよ。怖くても、危なくれば冷静に行動できてたじゃないか。逃げる判断も、しっかり相手の動きを見て逃げたことも最高だったよ。その後木の上で過ごしたことも良かった。少し声が大きかったけどね」

 一人言を聞かれていたのかと恥ずかしくなり顔を逸らす。

「くくくっ…。恥ずかしい気持ちは分かるけどね、それでも悪い方法では無かったよ。けど一つ問題なのはクセになるってことだよ。村でブツブツ一人言を言って歩くことがないよう気をつけるんだよ」

 悪くないというの嬉しかったが、まだ顔を上げられない。頭だけ動かし返事をする。

「ただね、木から降りて来たのはダメだね。もっと周囲が明るくなってからそうするべきだったよ。どれだけ不安でも体が辛くても安全なところから動くべきじゃない」

 今度はしっかり顔を見て頷く。彼女はいつも先にたくさん褒めてから、改善すべき点を伝えてくれた。

「まあ、言ってしまえば、また焚き火を起こしてあそこで過ごしてれば安全だったんだよ」

「そうなの…?」

「ああそうさ。なんたってあそこは私が安全だと思って選んだ場所だからね。なかなか火を起こさないから、信頼されてないのかと落ち込んだよ」

「ごめんなさい。怖くて何をしたら良いのか分からなくって…」

「はは。冗談さ。ただ、森の中にはたまに先人の跡が残っている場合がある。そこで安全に過ごしたかも知れないし、あるいはそこで怪我をしたり場合によっては命を落としたりしているだろう。ただね、そういう物を見つけたら、気に留めておくことは大事だよ。なぜここを選んだろう、ってね。そうすれば、思いがけず快適な夜を過ごせることもあるからさ」

 イーゴは伝えたいことを伝えると、また目を瞑り眠ってしまったようだった。

彼女はいつも多くを語らなかった。


「ねぇ、イーゴ」

 彼女が眠りについても、チーリは全く眠れそうになかった。

イーゴが答えてくれるか分からないが、それでもずっと尋ねてみたいことがあった。

「イーゴはさ、弔権者なんだよね。何があったのか聞いてもいいかな?」

 しばらく焚き火がぱちぱちと燃えている音しかしなかった。

「一年くらい一緒にいるけど、僕さ、イーゴのこと何にも知らないなーって思って。もちろん言いたくなかったらいいんだよ。だけど、そのうちまた旅に出るんでしょ?このままお別れになったら寂しいなーって思ってたんだ」

 またしばらく焚き火の音を聞いていた。

どこかで鳥のピューホロホロという鳴き声がした。

「別にね、黙ってたわけじゃなかったんだ」

 イーゴが目は瞑ったまま静かな声で話し始めた。いつもと違いその声は焚き火の音にかき消されそうな程小さい声だった。

「話しても良かったんだよ。だけどね、楽しい話でもないし気持ちの良い話でもない。おそらくこの村の人たちには一生起こることのないような話さ。だから敢えてするまでもないかなって、さ」

 そう言うと目を開き「寒いね」と言って焚き火に薪を追加した。そしてチーリを見つめ「それでもアンタは聞きたいのかい?」と尋ねてきた。

 少し戸惑った。尋ねてみたはいいが、本当に答えてもらえると思っていなかったし、何より話すことが少し辛そうだと感じた。

「もちろん、イーゴが話してもいいって思うなら聞いてみたいよ。だけどね、辛いなら無理しなくてもいいよ」

 イーゴがチーリの頭を撫でた。彼女は目を細め笑っている。少し悲しそうな顔にも見えた。

「あんたはさ、ほんとうに、もっと子どもらしくしてなきゃダメだよ。聞きたいことは聞きたいって言えばいいんだ。やりたいことはやりたいって言わなきゃダメだ。その後は大人に判断を任せたらいい」

 そう言って手をチーリの頭から下ろし、左肩に巻いている黒い布を外した。

「私はね、弔権者ってわけじゃないんだよ」

「えっ」

「あの人たちはさ、死者からの許しを得るために旅をしているんだ。だけどね、私はそんなえらそうな願いは持っちゃいない。これはちょっと村のみんなには黙っててほしいんだけどね」

「じゃあなんで、イーゴは旅をしているの?」

「私には目的が二つある。悪いけどそれが何かは言えない。だけど、そうだね、アンタと過ごした時間が居心地が良すぎてここに長居しすぎちゃってるよ」

 そう言うとイーゴは照れ臭そうに地面を見て笑った。

「イーゴがさ居心地がいいなら、いつまでもいたらいいんだよ。僕ももともとここの村の生まれじゃないんだ。今更一人くらい増えても一緒だよ」

「アンタは全く…。そう言ってくれるのは嬉しいけどね、そういう訳にはいかない。だけどね、また帰る場所が出来たみたいで心強いよ。ありがとね」

「また?」

「ああ、そうさ。私が帰る場所は、生まれた場所は、もうないんだ」

 そう言うとイーゴは拳を握りしめた。それを見て悲しくなり、これ以上聞いていいのか分からなくなった。それが表情に出ていたのかも知れない。

「さっきも言っただろ。聞きたいことは聞けばいいんだよ。話すか話さないかは私が決めるからさ。アンタは聞きたいんだろ?」

「うん…」

「私が住んでいたのはね、ここよりもさらに深い森の中だった。人なんか誰も通らないし獣がたくさんいてね。あんたくらいの年の頃にはすっかり狩人だったよ」

「なんでそんなとこに住んでいたの?」

「年寄り連中が言うにはね、大昔に一族が大罪を犯したんだと。この国の人たちに酷いことをしたそうだ。それで、二度と罪を犯さないように、この国の人たちと離れて暮らすことに決めたんだとさ」

「だけど、大昔ならもう関係ないのにね」

「ふふ。私の親友も同じことを言っていたよ。過去や運命に縛られたくないっていうのが口癖だった。いつかここを出て色んなことを経験してみたいってね」

 そう言うと空を見上げ、しばらく黙っていた。チーリも一緒に空を眺め続きを待った。

「だけどね、その願いは叶わなかった」

「どうして?」

「なんて言えばいいかな…彼女は攫われてしまったんだ。彼女以外にも数少ない仲間の多くが攫われてしまった」

 チーリには攫われるということが想像できなかった。しかし、じいさんが良く、森の奥深くに子どもだけで入ると森の精霊に連れ去られてしまうと言っていたのを思い出した。

「森の精霊が出たの?」

イーゴは声を出して笑った。

「アンタはたまーにすごく子どもぽくなるね。戸惑うよ。だけどね、それがアンタの本当の姿なんじゃないかなとも思うよ」

 イーゴは呼吸を落ちつけると、また真剣な顔に戻り続けた。

「私の親友たちはね、精霊に連れていかれたんじゃないんだ。人間に連れていかれたんだよ」

「人間に…。なんでそんなことを…」

「この世界にはね、アンタが考えもつかないような悪い奴らがいるってことだよ。アンタが知らなくていいような、悪いことがたくさんあるんだ」

「イーゴは大丈夫だったの?」

「その時狩りに出ていたのさ。その日はね、大きな鹿を捕まえてさ。それはもうすごくウキウキして戻ったんだ。そしてそこで怪我をして倒れている仲間たちを見つけた。残っていたのはすごく小さな子どもと老人たちばかりでさ。私は急いで彼らの手当てをして何が起きたのか聞いて、そして親友が攫われてしまったことを知ったんだ」

「それからどうしたの?」

「それからかい?もうそこは私の帰るところではなかった。大好きな親友も、仲の良かった友達も、恥ずかしいけどさ、好きだった男の子もいない。よく遊んでいた木は切り倒されていて、私の家は中をひっくり返されボロボロだった。両親も攫われていた。だからね、私は旅に出ることにしたんだ」

「どうして?」

「アンタはこの村が好きかい?」

「僕…?えっと、嫌なことを言ってくる人もまだいるけど、それでも優しくしてくれる人が増えたし、じいさんやシュカさん、それにヤカとかハナがいるから好きだよ」

「そりゃいいことだよ。私はね、きっと、自分の生まれた場所が好きじゃなかったんだ。怪我人の手当てをして、一通り落ち着いた時にね、辺りを見回して本当に驚いた。なんでこいつらが残ったんだって思ってさ。だから旅に出たんだ。もうあそこにはいたくなかった」

 そう言いまた焚き火に薪をくべた。そして顔を拭うと話を続けた。

「旅を始めてしばらくしてね、仲間を攫っていた連中を見つけたんだよ。そこには、仲間たちもいた。私はね、考えることを放棄していた。捨て鉢になっていたのかもしれないね。十人くらい悪者がいたんだけどね、そこへ飛び込んでいったんだ」

「えっ…それはちょっと、なんていうか…大丈夫だったの?」

「ふふふ。今元気でいるんだから大丈夫だったんだよ。心配しなくてもいい。ただね、なんで奴らを倒せたのかは自分でも分からない。どう考えても無謀だったんだからさ。私は人間と戦ったことすらなかったのにね…」

「それはなんていうか、ものすごいね」

「ほんとにね。とにかく奴らを倒してしまった後、仲間たちを逃すことにしたんだ。一人一人声を掛けて、元の場所へ戻る道を教えてさ。なかには死んでしまった人もいたようだった。私の両親もね。もう何年も口を聞いていなかったけど悲しいと感じていて、それに驚いたよ。とにかくさ、それでも生きている人だけでもって思ってね。その後ほとんど逃した後に、親友の姿がないことに気づいたんだ。だからね、逃したやつをまた追いかけて聞いたんだ。だけどね、誰も訳を話さなかった」

「彼らはね私と親友、サシャって言うんだけどね、二人が仲が良いことを知っていた。それで隠してくれているけど、何か悪いことがあったんだろうって思ってさ。仲間たちの口を割らせることにしたんだ」

「一体どうやって聞いたの?」恐る恐る聞いてみた。

「簡単さ。彼らは目の前で私が暴れているのを見ていたからね。言わなければ、アンタたちをまた檻に戻すぞ、だから教えてくれないかなって優しくお願いしたんだ。そしたら気持ちよく教えてくれたよ」

 イーゴはしばらくこちらの表情をニヤニヤしながら伺っていた。

「ふふふ、冗談さ。逃した仲間の一人にサシャの母さんがいてね。彼女も辛かっただろうに教えてくれたんだよ。サシャはね、攫われた時には、お腹に赤ちゃんがいたんだ。それをね、どうにか悪者たちに見つからないよう隠れて産んだそうだ。そしてその赤ん坊が辛い目に合わないよう、その子を連れて逃げたって教えてくれたよ。逃げた時には酷い怪我をしていたみたいでね、その後どうなったか分からないってね」

「そんな…」

「私はさ、あんまり泣いたりしたことがないんだ。遊んでいて怪我した時も、狩りで獣に襲われた時もさ、泣いたことがない。だけど、その時ばっかりはサシャの母さんと大泣きしたよ。それこそ獣みたいな大きな声を出してね。逃した連中たちが、見つかるからどうか静かにしてくれって言いに来るほどね」

「それは想像つかないね」

「だろ。私も自分が自分じゃないみたいでね。頭には変な声が聞こえていたし。しばらくして落ち着いた後、彼らを全部逃してね、悪者のところへ戻ったんだ」

「どうしてそんなこと…」

「奴らは話し振りからして下っ端連中だった。だから、親玉がどこにいるのか聞こうと思ってね。だけど戻ると誰もいなかった。思いがけず時間が経っていたようで、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ行ってしまったみたいだった」

「仕返しされなくて良かったね」

「それが下っ端たる所以だろうね。幸か不幸か根性の据わった奴がいなかったんだ。だから私の旅は未だに続いているって訳さ」

「もしかしてイーゴはさ、復讐しようって思ってるの?」

「そんな不安な顔をしなくてもいいよ。無茶はしないさ。私もね、アンタと同じようにちょっと先のことが分かる時があるんだ。良い猟師の性なのかね。悪者を襲った時からだいぶはっきりと分かるようになったような気がしてね。だから、自分の命が危ないときは真っ先に逃げるさ」

「じゃあ、さっき言っていた旅をする理由の一つは、復讐するためってこと?」

「それはアンタの想像に任せるよ。一つ言えば、もう一つも聞きたくなるだろう。だから私からそれは言わないことにするよ」

「分かった。聞かないよ」

「中途半端に話して悪いね。ありがと。これが私が旅に出た経緯だよ。確かに死んでしまった人もいたけど、私は彼らに許しを得るつもりはない。彼らが死んでしまったのは悪者のせいだし、サシャにしても彼女の決断だ。だからそれに私が関与しようと思うつもりはない。だからね、私は弔権者じゃないんだよ」

「じゃあ、なんで弔権者だってふりをしていたの?」

「これはね、行儀が悪いんだけどね、便利なんだよ」

「便利って?」

「弔権者だって言えば、どの村もほとんど怪しまずに受け入れてくれる。もちろん彼らに力を貸すことが前提だけど、食糧や水を分けて貰えるしね。それにたまに今回のような嬉しい出会いもある」

 そう言うとイーゴはぎゅっとチーリを抱きしめた。女の人に抱きしめられるのは初めてでとても恥ずかしかった。だけどイーゴの体が震えているのが分かったので、力を込めて抱き返した。

「ありがとね」

 

「言ったことがあったかも知れないけど、アンタはさ、少しサシャに似てるんだよ。今まで意識しないようにしてたんだけどね。特に話し方とかいろんなことを尋ねたくてしょうがないところなんて、ほんと笑っちゃうくらい瓜二つさ。小さい頃のサシャと話してるんじゃないかって勘違いしそうなほどだったよ」

「そうなんだね。僕も会ってみたかったよ。小さい頃のイーゴは想像もつかないから、どんなだったか聞いてみたかった」

「それは残念だったね」

 イーゴはまた、頭を撫でてくれた。

「だけどね、一つ知っていて欲しい」

「なに?」

「私はね、アンタがサシャと似てるから色々教えたわけじゃないよ。確かに最初はそうだっかもしれないけどね。ただ、一年近くアンタと楽しく過ごせたのは、アンタのことが好きだったからさ」

 チーリはあまりにも恥ずかしくて顔を伏せた。今日は恥ずかしいことが多すぎる。

「私はね、朝になって村へ戻ったらまた旅に出ることにするよ」

 顔をバッと上げ、イーゴを見つめる。

「これが最後の修行だって言ったの忘れていたのかい」

「僕が無理に話を聞いたから、嫌になって出て行くの?」

「何を言ってるんだい。聞きたいことを聞きたいって言ったのはアンタで、話すと決めたのは私さ。それにさっきも言ったけどね、アンタのことは大好きなんだよ。だけどね、私には私の生きる目的がある。あまりに居心地が良いからってアンタのとこに居続けたら、それを果たせないからね。生きてればね、アンタの側を離れるみたいな、難しい決断をしないといけない時もあるってことさ」

 顔を逸らすことができなかった。それでもどんな表情をすれば良いのか分からず、泣きそうになっていた。

「アンタね、泣かないでおくれよ。きっとこれが腰を据えて二人で話す最後だよ。笑顔を見せてくれないか」

 そう言うとイーゴは満面の笑みを見せてくれた。そうしていつも被っていた黒色の頭巾を外すと、それを渡してくれた。

「何か他に渡せるものがあれば良かったんだけどね。生憎そのボロ布くらいしか思いつかなかったよ。色気のない師匠で悪いね」

 チーリは返事ができなかった。それを懐にしまい、腕で顔を拭う。イーゴは笑って欲しいと言っていたんだ。ちゃんと笑おう。

 イーゴは待ってくれていた。そしてやっとの思いで、チーリもなんとか笑顔を見せることができた。

「そうそう、その顔だよ。あんたの笑顔ね、きっと自分が思っている以上に、人を幸せにする力があるよ。私が保証する。さて最後の教えをアンタに伝えるよ。よく聞きな、いいかい」

「はい」

「自分の手で運命を掴み、自分の足で歩んでいくように」

「自分の手で、自分の足で…」

「そうさ。自分の人生だ。他人に縛られず、他人に責任を負わせず、自分で決めて、自分の生きたいように生きていくんだ。その自由も責任もアンタにはある。辛い生まれだっていうのは村長から聞いているよ。それでもアンタは自分で力を示し、乗り越えてこれた。それはアンタの力だよ。これからいろんなことがあるけれど、しっかり自分で考え自分で歩んでいくんだよ。自分の人生だからね、人に任せちゃいけない」

「分かりました」

「ふふ。アンタは物分かりが良いね」

「…?」

「これはね、サシャが好きな言葉だったんだ。あんな森の中にいてどうしてこんな事を考えられてたのか知らないけどね、私が辛い時にはよくこの言葉を掛けてくれたんだ。私はね、初めは訳が分からなくてさ。もっと分かりやすい言葉で励ましてくれって怒ったもんだよ」

「サシャさんの…」

「そう。だけどね、私も今では自分なりにこの言葉の意味を理解したつもりさ。だからアンタに私からの教えとして伝えさせてもらったよ。そしてお願いが一つあるんだ。聞いてくれるかい?」

「うん、なんでも言って」

「頼もしいね。じゃあね、よく聞いとくれ。アンタが将来子どもができたり、狩りの弟子ができたときにはね、この言葉を伝えてくれないかい。もちろんその時にはアンタの伝えたいことも別にあるだろうけどね。それと一緒に伝えて欲しいんだ」

「分かったよ。今は僕もなんとなくしか理解出来ていないけど、ちゃんと自分で理解して伝えるようにするよ」

「ありがとね。サシャはおそらく死んでしまっているだろうけどね。彼女の言葉でも残ってくれていたら、それが彼女の生きた証になると思ってるんだ。ちょっと独りよがりかもしれないけどね。…これじゃ弔権者を偉そうだなんて言えないな」

「そんなことはないよ。ありがとう」

「ありがとうって?」

「イーゴが教えてくれたおかげで、僕もサシャさんと知り合えたような気がするんだ。イーゴの親友なら、きっと僕も仲良くなれたと思う。少なくとも僕の中でも生きているような気がするよ。だから、教えてくれてありがとう」

 その時、イーゴの涙を初めて見た。いつも彼女がしてくれるように優しく頭を撫で、泣き止むまで待った。今日は獣のような鳴き声は聞こえなかった。

しばらくして辺りが明るくなってきたので、村へ戻った。帰り道ではいつものように狩りについて色々話をしながら歩いた。


チーリは街道を外れ森の中を歩いていた。もうすっかり夜だ。今日は新月で辺りは真っ暗だった。

イーゴと過ごした時間を思い出すと、いつもぽっかり胸に穴が空いたような気持ちになる。

 あの日、村へ着くとイーゴはそのままじいさんに旅に戻ることを伝えた。

 その間、俺は外で待っているように言われ、家の中ではしばらくじいさんとシュカと話をしていた。

 じいさんは居たければもっと居てくれも良いと言ったそうだが、それでも彼女の決意は固かった。

 彼女は去り際にじいさんとシュカに、俺が一人でも十分に狩りが出来ることを伝えてくれていたそうだ。それから一人で狩りに出ることになった。

 今、どこで何をしているんだろうか。久しぶりに思い出したことで急に会いたい気持ちが湧いてきた。それを押さえつけ、夜を過ごす準備を始める。


 夜がもうすぐ明けるという時に人の喋る声で目が覚めた。

(こんな時間にこんなところで何をしているんだろうか…?)

 落ちていた太い枝を拾い、十分に警戒して声のする方に、ゆっくり進む。

 するとすぐに何人かの姿が見えた。中には子どももいるみたいだ。男の人と女の人が言い争っているようで、彼らの背後には荷馬車が見えた。どうやら迷い込んだようだ。

(やれやれ。そんな大きな声を出したら獣に気づかれるぞ)

 枝を捨て彼らの方に歩いて向かう。

 これからいよいよ、旅が始まる。彼らが良い人であればいいけど。

 不安を感じつつ彼らに声を掛ける。

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