7 北へ・弔権者・イーゴ
村を出発して丸一日が経った。食糧や水などは村の倉庫から、焼けずに残っていたものを持って来ていた。それでもそれ程多くは無い。これが尽きる前にどこかで補給しなければならない。
食べるものについてはあまり心配していなかった。街道を外れたすぐの所に森が見えている。そこに入れば、一人分の食糧などすぐに見つかるだろう。
問題は飲み水の確保だった。雨でも降ってくれれば、僅かでも補給することが出来るが、空は快晴で雲一つなく、雨は期待できそうにない。
川があればかなり助かるが、街道の近くには流れていない。川沿いには村があることが多く、一番近い村でも王都とは反対の方向に一日程度歩かなければならないはずだった。
それでもこのまま水分補給の目処が立たないまま、王都へ向かうのは無謀だ。まだまだ先は長い。一日や二日回り道をすることになっても、どこかの村へ寄って色々分けてもらうのが良いだろう。
そこまで考えるとチーリは懐から黒く煤けた布を取り出した。焦げた匂いを嗅ぐと、村での事を思い出して苦しい気持ちになる。しかし、これから旅をしていく上で、他の村で食糧や水を分けてもらうにはこれが最良だろう。
チーリは取り出した黒い布を左肩に巻き付けると解けないようギュッと強く結んだ。そして、持っていた水を少し地面に垂らすと、泥土を右手の人差し指、中指、薬指の先につけ、それで肩の布に三本の線を描いた。
これは、死者を弔い旅をしている目印になる。このような旅をする人のことを「弔権者(ちょうけんじゃ)」と呼ぶ。弔権者は死者から許しを得るために、行く先々で人助けを行う。
人々は、彼らを見かけると積極的に声を掛け、手伝いをお願いする。
死者を弔うという背景があるので、彼らを邪険に扱うことはせず、状況が許せば話を聞き、共に祈りを捧げる。そして、旅がうまくいくことを願い、旅人に援助を行うのである。
自分が育ったウスベ村の外のことは全く知らない。なるべく早く誰か見つけられたら良いのだけれど。飲み水の残量が不安なことも勿論だが、夜を一人で過ごしたくはなかった。月が陰り辺りが暗くなって来ると、嫌でも村でのことが思い起こされた。
甘さは置いて行く、と決めたはずだった。それでも、一人の夜が怖かった。
頭に巻いた頭巾をぎゅっと締め付ける。
とにかく歩き続けるしかなかった。
当てもなく歩きながら、五年前に初めて弔権者と名乗る者に出会った時のことを思い返していた。
まだ十歳で狩りを見よう見まねで始めたばかりの頃だった。普段は原っぱや森の浅いところでウサギなどの小動物を捕まえて、それを家に持ち帰っていた。自分が捕まえる獲物は小さいものばかりだったので、物足りない思いを感じ始め、もっと立派な獲物を捕まえたいという思いが日に日に増していた。
そんなある日、いつものようにヤカを森に誘おうと彼の家を訪ねた。しかし珍しい事に、家には誰もいなかった。何かあったのかなと思い、家の中を覗いてみた。
後からヤカに尋ねると、この日は親戚のところへ皆んなで遊びに行っていただけだったようだ。
とにかくそんな事だとは、露ほども知らなかったので家のあちこちを見て回った。誰もいない家というのは、少し不気味な感じがするので、そろそろ外へ出ようかと思った時だった。ふと目の端に短い弓と小刀が写った。それは最近ヤカが狩りの練習に使っていると言っていたものだ。じいさんは武器を持つ事を未だに許可してくれないので、その話を聞く度に羨ましい思いだった。
魔が刺した、としか言いようがない。一応小さな声で「ヤカ、これ借りるよー」とは言った。「返事が無いならちょっとだけ借りて行くよー」とも続けた。これでしっかり許可を取ったと自分に言い訳し、短弓と小刀を脇に抱え、家を飛び出し、そのままいつも遊んでいる森へ走って向かった。
森へ着き息を整えるとすぐに、酷い罪悪感が胸に押し寄せてきた。が、それと同時に高揚感も感じていた。とにかく勝手に道具を持ち出した事は、ヤカ達が帰ってきたら謝ろう。
いつも遊んでいる森の入り口は、村からもかろうじて様子が窺えた。そこで遊ぶことがじいさんとの約束だったが、今は都合が悪い。少し森の深いところへ入った方がいいだろう。
その時の自分は森の怖さを知らなかったし、自分の力を過信していた。
森に入ってすぐには動物が見当たらなかった。どうせ勝手に道具を持ち出して怒られる事は決まっているのだ。それならばちょっと大きな獲物に出会えるまでずんずん進んでみようかと考えた。
そしてしばらく歩いた時だった。チーリは自分と同じ大きさはあるであろうイノシシを見つけた。まだこちらには気づいていない。音を立てないよう猪の左側に周り、矢を番え、弦を目一杯力を込めて張り、肩の後ろあたり心臓目掛けて狙いを定め、矢を放った。
果たして矢は狙い通りの部分に当たり、イノシシは少しよろめいた後、倒れた。
今思えばしばらく様子を見て、本当に絶命したのか確認するべきだったのだ。初めて弓を使い獲物を仕留められたと勘違いし油断していた。
イノシシの側へ向かい、紐で足を縛ろうとした時だった。
イノシシはいきなり体を捻り、チーリにぶつかろうとしてきた。辛うじてその攻撃を交わせたまでは良かったが、変な体勢で踏ん張ったせいで足を痛めてしまった。その後もイノシシの命を賭けた攻撃は止まらず、遠くへ逃げることができないまま、なんとか避けるのに精一杯だった。
何度かの攻撃を交わした後だった。どこからか「伏せろっ」と叫ぶ女の人の声が聞こえた。聞こえてきた声に従い体を伏せると、イノシシが覆いかぶさろうとしてきた。その瞬間、矢がイノシシの体に刺さる。絶命したイノシシは、一瞬後ろに仰け反り、それからドスンと自分の体の上に倒れてきた。その衝撃で息が詰まったが、なんとかそこから這い出すことができた。体にはイノシシの血が付いていた。
「はあ、全く信じらんない。こんな小さな子ども一人で狩りをしてるなんて」
そう言って手を差し出してくれた女の人は、村で見たことのない人だった。
そばかすが目立つ顔は良く日焼けしており、赤白かった。眉を顰めこちらを睨んでいる目はとても大きい。真っ黒な瞳でじっと見つめられると少し恥ずかしかった。頭には耳まですっぽり黒色の頭巾を被っている。その頭巾から黒い髪が肩あたりまで伸びており、左肩には泥の線が三本ついた黒い布が巻き付けられていた。
声は少し皺がれていたが、耳に心地よかった。
「それにしてもアンタ、足、怪我してたでしょ。それなのによくあれだけ動けたね。ちょっと感心しちゃって助けるのが遅くなっちゃったよ」
彼女に助け起こされながら、足の痛みを確認してみたが、かなり痛んだ。
「あーいいよいいよ。無理すんな。私が村まで一緒に着いて行ってやるよ。ただ、そのかわいそうなイノシシはここに置いて行くよ。怪我したアンタと一緒に連れて歩くのは無理だ」
「かわいそう?」
「そうだよ。そのイノシシはアンタが一人でこんな所へ来なきゃ殺されることは無かったんだ。アンタを村へ連れ戻って、誰か大人がここへ来た時には獣に食べられているだろうさ。私はね、生きる目的以外に狩りをすることが大嫌いなんだ」
「お姉さんも猟師なんだね。いつもじいさんやシュカさんに同じ事言われてるよ。徒に命を奪うなって。今日は皆んなのところへ帰ったら怒られることばかりだよ。お姉さんも、ごめんなさい」
「アンタのじいさんもシュカさんだっけ、その人も良い狩人なんだね。とにかくアンタを村へ連れて戻るよ。私の名前はイーゴってんだ。村へ戻って『イーゴさんが命を守ってくれたんだ』って言ってくれたら、私のことは許したげる」
「イーゴお姉さん。そんなの当たり前だよ。ちゃんと伝えるよ。僕の命の恩人だってさ」
「ふっ、さっきから、お姉さんはよしてくれ。なんだかムズムズするよ。それにしても、さっきも言ったけど、アンタ、よくイノシシの動きを避け続けられたね」
「僕ね、昔からなんとなく獲物が次にどこへ動くのか分かるんだよ。だから、すばしっこい動物も捕まえられるし、襲われても避けられるんだ。それでもさっきは怪我してたから、本当に危なかったんだ。ありがとう」
「ふーん…」
彼女はじっとこちらを見つめていた。
「アンタ良く見ると私と似てるところあるね。日に焼けて顔が赤白いのとかさ」
イーゴはしばらくこちらをまじまじ観察した後、「とにかくアンタの村へ帰ろう。日が暮れるまでに帰らないと皆んな心配しちゃうからさ」と言い、イノシシに手を合わせた。自分もそうした方が良いのかなと思い手を合わせていると「アンタはいいんだよ」と笑った。
村へ戻り、じいさんとシュカにしっかり怒られたのは言うまでもない。そしてイーゴが弔権者(ちょうけんじゃ)だということ、弔権者がどういった人たちなのかということを、じいさんに教えてもらったのだった。
その後イーゴは忙しいじいさんの代わりに、チーリに狩りを教えたいとお願いしたようだ。じいさんは最初は戸惑っていたが、話を交わすうちに、イーゴのことを気に入ったようで、修行を任せることになった。
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