39:一〇月五日(土)/大柿谷/「捌芽祭り」(1)

 一〇月五日の土曜日は、ついに「捌芽祭り」の開催当日なのだった。

 この日の午前中から約二日間にわたって、藍ヶ崎市内最大の祭礼がり行われる。

 初秋に至って若干肌寒さを感じる早朝、耶泉神社の境内にはすでに多くの人が集まっていた。

 行事の運営幹部、地元町内会や実行委員会の面々、大柿谷青年団の成員たち、外部からの一般参加者……。

 皆は誰しも法被はっぴ腹掛はらがけなど、衣紋祓えもんはらえで清めた衣装に身を包み、神事の進行を見守っていた。


 まずは参道で、神輿みこし曳山ひきやまが所定の位置にく。

 次いで拝殿では、宮司ぐうじ禰宜ねぎによって、修祓しゅうばつのあと、神前へ供え物が献じられた。

 それから祝詞のりと奏上がされ、榊舞さかきまい、弓の舞、花の舞……と、舞踊の奉納が続く。

 さらに玉串が奉じられたのち、社殿の外から大幣束だいへいそくが運ばれてきた。大幣束は湯を立てた釜の上に掲げ、湯気にさらして清めてから、本殿へ安置する。

 そこで再び祝詞を奏上し、以前に大幣束へ降ろした御分霊ごぶんれいを、神輿に移す儀式となった。

 おごそかな雰囲気がただよう中で、一連の神事が完了し、神輿と曳山はやっと移動の準備が整う。


 青年団が中心となって、掛け声と共に神輿が担がれ、前進を開始した。

 そうして曳山も、皆の手で土台の車が押され、ゆっくりとそのあとに続いた。

 群衆が各々の持ち場で、己の役目に従事しはじめると、集団は行列に変わる。

 私は、拝殿でひと通り神事を見てから、このとき曳山側の運行に加わっていた。

 ほどなく神輿と曳山は、順に鳥居の下をくぐって、耶泉神社の境内を出る。

 直後に行列を先導する旗が振られ、曳山の上で音頭取りが太鼓たいこを叩いた。


 沿道には、神輿と曳山が出発する場面を見逃すまいと、大勢の見物人があふれていた。

 大きな歓声が上がり、あちこちでスマートフォンやデジタルカメラのシャッターが切られた。



 こうして、いよいよ本年度の捌芽祭りが幕を開けたのだった。




     〇  〇  〇




「おまえの友人知人を殺した怪異は、まだ現世で本来のちからを十全に発揮していない」


 紫之嶋叡心は先日、星峰館のビルで社長室を訪ねた際にそう言った。


「これまでに暴れまわってきたのは怪異の分身、本体から遊離して漂っている霊体だった。それはなぜかと言うと、藍ヶ崎は北東の方位、大柿谷の端に耶泉神社を置いているからだ。祭神たる少彦名命すくなひこなのみことの神徳が鬼門をふさぎ、怪異が完全なかたちで顕現するのを防いでいる」


 ただし数日のうちには、異界から真の姿をこの地で現わし、より大きな災禍さいかを生み出すだろう――

 と、紫之嶋は予言じみた見解を示した。


 驚くべき言説で、私は自分の聴覚に異常が生じ、紫之嶋の言葉を聞き間違えたのかと思った。

 しかし冗談でないことは、場に居合わせた七峰社長の顔を見ても、間違いなさそうだった。

 それでなぜかとたずねてみたところ、原因は「捌芽祭り」にある、という答えが返ってきた。


「『捌芽祭り』の初日には、少彦名命の分御魂わけみたまを神輿で、耶泉神社から大柿谷の域外へ運び出すだろう。それから陽乃丘の雨柳神社に乗り込み、そこで神輿は翌朝まで一夜を過ごす。神輿には祭神の御分霊を下ろしているから、たとえ耶泉神社本殿に御神体がまつられているにしろ、いくらか大柿谷から少彦名命の加護は薄れてしまう。元来日本の神道では、どれだけ分霊しようと祭神の影響力が低下することなどないはずなのだが、捌芽祭りに限っては事情が異なる。雨柳神社で執り行われる神事には、昔から神力をいっそう多く費やさねばならなかったせいだ。するとそのあいだ怪異にとっては、現世で顕現するために都合の良い状況が発生する。わかるか?」


 私は、紫之嶋が語る言葉の意味をよく反芻はんすうしてから、差し当たり首肯してみせた。

 正直言って正確に理解できたかは怪しいものの、何となく「祭りの夜に神輿が大柿谷を離れていると、藍ヶ崎の鬼門を塞ぐちからが弱まる」という意味であろうことは察せられた。



 紫之嶋は、こちらの反応をたしかめると、先を続けた。


「だが一方で、怪異の本体が現世に顕現するタイミングというのは、決定的な打撃を加えることさえ可能なら、逆にそいつを調伏する絶好機にもなり得る。そこで俺としては鬼門が開く直後を狙って、最大限有効と推定される呪術を行使し、対象を一撃で駆逐したい」


 どうやら紫之嶋は、怪異に対して一種のカウンター攻撃をくわだてているらしかった。

 そうして計画を成功に導くためには、私の協力が必要になる、と言っているのだった――

 呪術の行使に際し、怪異を儀式の場まで誘い出すための「おとり」として! 


「俺が見る限り、おまえは随分ずいぶん以前から怪異の標的になっている」


 紫之嶋は、淡々とした口調で言った。


「それをこの際は逆手に取って、怪異の調伏に利用したい。おまえにしても現状から生き残ろうとするなら、俺に協力する方が身のためだ。これまでは怪異が嫌う魔除けの庇護もあり、幸いにして殺されずに済んできたのだろうが、それもどうせ長くは持たないはずだからな」



 このとき私は「魔除けの庇護」という言葉に対し、妙な引っ掛かりを覚えた。

 なぜ何度となく怪異と遭遇しても、いまだ生き残ることができているのか、ずっと内心疑問に感じていたからだ。

 とはいえ私としては、魔除けのちからが自分の身体に備わっていると指摘されても、まったく心当たりがない。

 それでいったい自分の何が怪異を退けているのかをくと、思い掛けない答えが返ってきた。


「おまえは藍ヶ崎や星澄の生まれじゃなく、出身は他所よその地域だろう。そこでまだ生まれて間もない時期、一升餅いっしょうもちを背負った経験があるんじゃないか」


 私と皆月は、思わず顔を見合わせ、互いに目を白黒させた。

 紫之嶋が言う通り、乳児期の祝いで一升餅を背負った、と親から聞いたことはある。

 たしか皆月も出身自体は他地域で、同じ行事を経験していると言っていたはずだ。

 しかしそれが怪異の魔除けになっていたとは、にわかには信じられなかった。



「米を原材料とするものには、古来神聖なちからが宿るとされる。我が国における米はちからの源泉であり、また生命の象徴と見做されてきた。田の神の信仰もそこに由来する」


 紫之嶋は、やはり淡々と疑問に答えた。


「そうして、耶泉神社が祀る少彦名命は田の神でもあり、だから餅の儀式で加護を受けた者を、あの怪異は嫌う」


「まだちょっとわからないんですけれど、どうして田の神のことを、カタツムリのお化けは苦手にしているんでしょうか」


 いささか気後れした様子ながら、皆月は尚も率直にたずねた。

 紫之嶋は、こちらを振り向こうともせず、再び答えを寄越よこした。


「耶泉神社のヤイズミというのは、元々ヤセンという読み方だった。耶泉やせんは『谷潜やせん』の書き換えで、谷潜たにくぐりの意味がある。谷を潜る生き物とはカエルのことで、『古事記』で少彦名命に関する記述を調べると、文中には『多邇具久たにぐく』とあり、これは神の使いのヒキガエルだ。今回の件で人を殺し続けている怪異にとって、カエルは天敵だろう。と言っても霊的概念的な関係であって、そのへんの田畑でカエルを捕まえてくればどうにかなるというわけでもないがな」


 まだ私はいまひとつ、紫之嶋の説明が充分に理解できなかった。

 カタツムリの怪異にとって、どうしてカエルが天敵となり得るのか? 

 この点に関しても、紫之嶋はあくまで淡々と答えを寄越してきた。常に返事は不愛想だし、個々の言葉は情報量が充分でもないのだが、意外に回答を面倒臭がるようなことはなかった。


「柳田國男の『蝸牛考』によると、古く方言は近畿地方から同心円状に各地へ広がったとされ、関東地方でカタツムリと呼ばれる生き物が、他地域では昔ナメクジと呼ばれていたことがあったという。もちろん現代においては、カタツムリとナメクジを混同したり、まして同一視することなどあり得ない。だから奇異な話に聞こえるのは無理もないが――」


 そこまで話を聞いて、私はやっと紫之嶋が示唆するところを把握した。

 紫之嶋もこちらの反応に気付いて、答え合わせするように付け足す。


「カタツムリなら意味がわからなくても、ナメクジならカエルとの関係性は理解できるだろう」



 ――三すくみの関係だ。ナメクジならカエルにかなわない。


 カエルはナメクジに勝り、ナメクジはヘビに勝り、ヘビはカエルに勝る――

 中国の古典『関尹子かんいんし』の中で語られ、のちに日本へ伝来した俗信だ。

 いわゆる「ジャンケンの法則」で生物三種の優劣が定められているわけだが、天保一〇年から明治元年にかけて刊行された『児雷也じらいや豪傑譚ごうけつたん』作中でも、登場人物の関係性を描く際にモチーフとなった。

 尚、生物三種のうちの一種は、当初ナメクジではなくムカデが入っていたとも言われている。

 それが入れ替わった経緯については諸説あるらしい。


 また紫之嶋は、再度カエルについて言及し、磐城いわき地方の俗信を持ち出した。

 そこでは一〇月九日に刈り上げ餅をき、神棚に供えて、田の神を祀るらしい。

 カエルは神使として、その餅を背負って持ち帰る、という言い伝えがあるそうだ。



 かくいう説話を照応すれば、あの不気味な怪異が少彦名命を恐れていて、これまで幾度となく私や皆月が死の危機をまぬかれてきた理由も、ごく自明なことだろう――

 と、紫之嶋は感情の窺い知れない面持ちで言った。

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