25:九月八日(日)/大柿谷/清祓

 石塚先生のお宅へうかがい、皆月と染織工房を訪ねた日の深夜も、私は悪夢に悩まされた。


 この夜の夢の中では、ついに怪異が暗闇の奥からい出てきて、驚くほど大きな全身を現わすようになっていた。

 長短二対で四本の触覚、そのうち二本の先端から私を凝視する眼球。ぶよぶよとした肉の塊のような本体は、頭部から反対側の端まで全長五メートル近い。さらにその上には巻貝のような、黒光りする殻が乗っている。


 すべてがあらわになってみれば、それは皆月の指摘通り「カタツムリ」以外のなにものにも見えなかった。

 とはいえ巨躯きょくほこる怪異は、改めて外形を認識しても、到底童謡に歌われるユーモラスな生物と思えない。ぬめり気を帯びた外皮が怖気を誘い、触覚や軟体は薄気味悪く、挙動からは禍々まがまがしさしか感じられなかった。


 そうして怪異は、借家の和室へ侵入し、ますます就寝時の私に間近まで迫ろうとしていた。

 しかし幸い、あと数メートルという距離まで接近したところで、目が覚めて意識を取り戻す。

 現実の屋内を見回すと、すでに巨大なカタツムリの姿はなく、畳が湿しめっているだけだった。



 怪異の危険から逃れ、どうにか平静を取り戻すたび、私はしばしば沈思してしまった。

 夢の中と現実とを問わず、藍ヶ崎で遭遇する怪奇現象には、あまりに謎が多いからだ。


 念のためにインターネットの検索サイトを開いて、サーチボックスに「カタツムリ/妖怪」と打ち込んでみた。ブラウザに検索結果として表示された見出しを、上位候補から順にひとつずつながめていく。

 あまり期待できそうな記事は見当たらなかった。


 例えば一九八〇年代に刊行され、子供向けに妖怪を紹介する書籍の中には、化けかたつむりに関する記述が存在したらしい。もっとも古くから伝わる怪異譚というわけではなさそうだった。

 人間の頭部がカタツムリになっているという、不思議な絵画の画像も出てきた。しかしこれも作者名や制作時期以外の情報が少なすぎて、由来がどうにも判然としない。

 西尾にしお維新いしんの伝奇小説の中では、カタツムリの怪異を題材にしたエピソードが描かれているものもあるそうだ。だが身近な人々の悪夢に出てくるものとは、まったく特徴が合致していると思えなかった。

 他には、新潟県に蝸牛かぎゅう様と呼ばれるカタツムリの妖怪が存在する、という内容のプログ記事を見付けた。こちらは怪異と関連する郷土史的な背景にも言及されていて、かなり興味を引く要素があった。ただし出典に関する記載が見当たらず、情報源の裏を取ることができない。


 こうした情報はいずれも、謎の手掛かりになり得るかを判断するのがむずかしかった。



 いったい何が原因で、多数の人間が類似した悪夢をてしまうのか。

 悪夢を視る人間と、そうではない人間とでは、何が異なるのだろうか。

 最近発生した事件の被害者は、本当に悪夢に登場する怪異のせいで死亡したのか。

 だとしたら、被害者は同じ悪夢を共有しているのに無事な人々と、何が異なっていたのか。

 換言すると、私や皆月、ネット上で散見される悪夢を視た人々、学習塾やボランティアの場に集う小学生はなぜ、今のところ怪異によって殺されずに済んでいるのか。

 また警察は、紫シャツの男性を容疑者と見做しているようだが、彼は悪夢や怪異に何かしらの因縁を持つ人物なのだろうか。しからば、彼は何者なのだろうか。

 もちろん怪異自体も謎めいていた。なぜカタツムリに襲われるのかがわからない。

 石塚先生がのこした「泥の死」という言葉の意味も、この時点では不明のままだった。



 ――これら全部の謎を解く答えが、本当に存在しているのだろうか……? 


 のちにすべてを知るまで、私には怪奇現象の真相がおよそ想像も付かなかった。

 ただうっすらとした予感だが、まだ私自身は死に至らしめられていないものの、徐々じょじょに怪異の危険が増しつつあるのはたしかそうだった。少なくとも当初の怪異は、悪夢の中で眼球以外に姿を見せようとしなかったにもかかわらず、いまや本体すべてをさらけ出している。


 私はこのとき、真綿で首をめられるような恐怖を抱きはじめていた。




     〇  〇  〇




 九月八日の日曜日は、捌芽祭りの「清祓きよはらえ」がり行われることになっていた。


 清祓とは、祭礼に先んじ、祭事の運営関係者を修祓しゅうばつする儀式だ。この日は午前中から、耶泉神社の宮司ぐうじ禰宜ねぎ、その付人らが運営幹部各位の居宅を訪問する。そこで祈祷をほどこして、来たる神事に備える慣例だった。

 総合本部長、顧問、相談役らの家々を順に巡り、その都度清めはらえの祈りが捧げられる。

 私は、町内会長である曽我さんのお宅を宮司が訪れた際、特別にご厚意で見学させて頂いた。

 個人が起居している家屋で、簡易ながらも八脚案はっきゃくあんが組まれ、神事が繰り広げられる様子は非常に興味深かった。



 午後からは耶泉神社の境内へおもむくと、先週の蔵出しに続いて、青年団の曳山ひきやま制作に参加した。

 すでに曳山は土台部分が組み上げられていて、作業は装飾物を造形する段階に入っていた。


 人手が一番多くかれていたのは、祭神である少彦名命すくなひこなのみことの人形造りだった。全高三メートル以上の大きさで、特別に設計図を見せて頂いたところ、細部まで大変凝った造形になっている。次いでまた、その脇に飾られる鳥やかえるなどといったような、祭祀に所縁ゆかりが深い動物の人形にも、かなり労力が掛けられているようだ。

 いずれも制作には、市内の老舗人形店が全面協力しているそうだった。素材の加工にも専門的な技巧の数々が見て取れる。曳山に乗せる飾り付けの中でも、特に注目される部分だけあって、非常にちからが入っていた。


 そこで私は相変わらず、大柿谷青年団の面々に紛れ、彼らの仕事を手伝わせて頂いた。

 これまでも祭りの準備がある日には、必ず参加を志願するようにしていた。そのおかげで最近は少しずつ、私のことを地域の皆さんにも受け入れてもらえはじめているようだった。

 私の側としても、だんだん韮沢さん以外で青年団に参加している方々の名前や顔を把握できるようになってきて、ようやく打ち解けた雰囲気を感じはじめていた。



 もっとも、そうした状況でこの日、明らかに初めて顔を見る人物が神社に一人来ていた。

 緩いシルエットのトレーナーに身を包み、着古したジーンズを穿いた青年だ。前髪が半ば両目を隠していて、立ち姿は猫背気味だった。挙措は気怠けだるそうで、覇気が感じられない。

 他の青年団の成員から、あれこれ指示を受けて働いているようだが、ことある毎に叱責され、その都度小声でびている。それを周囲で眺めている数人のあいだからは、揶揄やゆするような笑いがれていた。


「たまに顔を出したと思っても、これだからあつかいに困るんだよなあササコーはよぉ……」


 韮沢さんは付近を通り掛かった際、叱責される青年を見て言った。

 それでようやく、私はこの日初めて顔を見る青年が、噂のササコー……

 佐々岡公介なる人物だったらしい、と理解した。

 都会から田舎へ出戻りした、酒屋の息子だった。


「まあ高校出たあと、ナンボか都会を見てきたかは知らねぇけどさァ」


 ある青年団の男性は作業のかたわら、佐々岡さんの為人ひととなりを評していた。

 少し鼻に掛かるなまりがあって、声に批難とあざけりをふくむ口振りだった。


「そんならそれで最低限、祭りの仕事ぐらいマトモにやれって話だわな。どんだけ一人で他所よその土地を知っとっても、そんなんぐらいで大柿谷のこともわかんねぇようじゃ駄目よ。やっぱ使えねえわ」



 この日の作業は日没後までも続き、やがて境内には夜間照明の灯りがともった。

 昔はこういう場合に篝火かがりびいたらしいが、現代では素直に文明の利器を頼っている。祭りの当日、屋台で用いられるのと同じ電灯だそうだ。細い鉄柱で頭上の高所に掲げられ、周囲の闇を照らしていた。

 そこで尚も祭りの準備に従事し、午後七時前にいったん休憩時間へ入った。


 私は、手水舎ちょうずしゃの脇まで歩き、そこに設置された石造りの腰掛けへ座った。

 疲労を紛らわすように深く息をいて、夕食に配布された弁当を食べる。


 と、こちらへ近付いてくる人物がいて、にわかに声を掛けられた。


「あのぅ、ぼくも隣に座らせてもらってかまいませんか」


 顔を上げてみると、両目が前髪で隠れた青年がたたずんでいた。

 ササコーこと佐々岡公介さんだ。両手で弁当箱を持ち、居心地悪そうにもじもじしていた。

 どうやら境内をうろつき、夕食を取るために落ち着けそうな場所を探していたらしかった。


 私は、ええどうぞと言って、身体を横へ少しずらして座り直した。

 佐々岡さんは恐縮した様子で、隣の空いた場所に腰掛けた。

 おもむろに弁当箱のふたを開け、おかずにはしを付けはじめる。

 そのまま二人共、しばらく無言で食事を続けた。



 やや気詰まりな空気を感じつつ、私は横目で佐々岡さんをちらりと見た。

 佐々岡さんは、やはり黙々と箸を動かし、白米を口の中へ運んでいた。

 両目が前髪で隠れた顔は、すぐ隣でもやや表情がつかにくかった。

 だが思いのほか、陰気さはなく、ふさいでいるふうにも見えなかった。


 それで私は、良い機会かもしれないと思い、佐々岡さんに話し掛けてみた。

 初めまして。自分は都内から来た者でして、民俗学のフィールドワークでお祭りの準備に参加しているのですが――

 と、ひとまず簡単な自己紹介を兼ね、私がここで作業を手伝っている経緯について説明した。



 佐々岡さんは最初、きょかれたような反応をのぞかせ、まぶたまたたかせていた。

 しかしすぐに元の落ち着きを取り戻すと、ひと通り私の話に耳をかたむけてくれた。

 そこで次は私の出身地の件にからめて、佐々岡さんが以前都内で生活していた時期があったことを、思い切って持ち出してみた。なぜ藍ヶ崎へ戻ってくることにしたのか、気になったからだ。


「……ははは。ぼくが都会へ出ていったのは、いっときの出来心みたいなものですよ。まあ田舎に比べると、人付き合いにわずらわしさがないところは暮らしやすかったのですが」


 佐々岡さんは、ちからなく笑いながら言った。


「でもぼくはほら、何をやってもなので。都会は毎日が忙しくて、付いていくのに大変でした。仕事で取り返しのつかない失敗も、何度も経験しましたからね。それを考えると、今の生活はずっと楽です。――ええと、浅葉さんでしたっけ? ぼくが大柿谷では機械部品の工場に勤務しているのは、もうご存知ですか」


 私が首肯すると、佐々岡さんは地元に戻ってからの勤め先に関する話を聞かせてくれた。

 実はその際に初めて、大柿谷の機械部品工場というのが、以前に単発バイトで知り合った松井さんも勤めていたことのある職場だと気付いた。同僚の中には佐々岡さん以外にも、祭りの準備を手伝うために今日ここへ来ている人物が数名いるらしかった。


「工場勤務の今は、凄く充実していますよ。朝の始業は早いですが、定時は午後五時で、残業もほとんどありません。当然都会で働いていた頃に比べれば、安月給ですけどね」


 佐々岡さんは、それでも帰宅してから自由な時間が多いので、満足しています、という。


「こっちへ戻ってきてから、つくづく幸せっていうのがどういうものかわからなくなりました。まあぼくみたいな人間はもしかすると、資本主義社会じゃ歓迎されない存在なのかもしれませんけど……」



 私は、佐々岡さんの話を聞くうち、彼の人物像に純粋な興味を覚えはじめていた。

 地域住民の方々と親密にコミュニケーションを取ることは、フィールドワークにおける重要なアプローチのひとつだ。

 都会より地方を好む青年の価値観について、佐々岡さんからは貴重な意見を聞き書きできそうだと思った。


 しかし残念ながら、すぐにこのあと休憩時間は終了して、祭りの準備が再開してしまった。

 だから夕食を素早く済ませ、佐々岡さんとのやり取りも途中で切り上げざるを得なかった。

 その後の作業は午後九時まで続き、韮沢さんの指示でようやく中断した。


 佐々岡さんは、明日も仕事が朝から早いそうで、皆が解散すると即座に帰宅したようだった。

 それで私は声を掛けることもできず、次に会うときまで再度会話する機会は得られなかった。

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