第9話

 車いすを押しながら公園に入ると、はなの目の前に赤く色づいた紅葉が広がった。その紅葉の木の周りをぐるぐると歓声を上げながら、子どもたちが走り回っている。見上げると空はどこまでも青く、天高くいわし雲が秋風にたなびいていた。

「わーっ、気持ちいい!」

はなは思わず歓声を上げた。

「ねえ、たーちゃん。来てよかったね」とシズが声をかけると、抱っこ紐の中でたーちゃんがウキュウキュと笑い声を上げた。

「シズさん、どこでお弁当を食べましょう? 紅葉の木の側に日当たりの良さそうなベンチがありますよ。そこはどうですか?」

「そうねぇ……」とはなの指差すベンチを見遣ったシズの目線が、その隣のベンチにじっと注がれた。

はながその視線の先を追うと、年老いた男性が一人、ベンチに座って空を見上げていた。その表情は悲しげだった。

「あなた……」

そう呟くと、シズはふらふらと立ち上がり、その男性のベンチへ向かって歩き出した。

「シズさん?」

ふらつくシズの足を気遣い、はなは慌てて立ち上がり、シズに寄り添った。

「シズさん、気をつけてくださいね。急に立ち上がると危ないですよ」

「あの人……」

シズははなの目のじっと見詰めて言った。

「失踪した私の夫なの」

「えっ……」

はなとシズはゆっくりとそのベンチに近づいた。やがて、男性が何かブツブツ言っているのが聞こえてきた。二人はそっと聞き耳を立てた。

「なくなっちゃった、俺の記憶。どこに落としてきたんだろう。入水自殺しようとしていたらしいけど。川底に落としてきたんだろうか? 切ないな。自分が誰かわからないって切ないなぁ……。ところで、あんた誰?」

 男性の目がいつの間にか真っ直ぐシズさんに向けられていた。シズはその男性に向かって手を差し伸べた。

「あなたお帰りなさい。長い旅でしたね」

 2人はじっと見つめ合った。見つめ合う互いの目から一筋の涙がゆっくりと流れた。ゆっくりと男性の脳裏に過去の記憶が戻りつつあった。

 はなは手に持ったおにぎりの袋をそっと男性の脇へ置くと、「たーちゃん、私たちは少し離れていようね」と言って、向かいのベンチに歩き出した。

「きれいね……」

 赤く色づいた紅葉の葉の下で手を取り合う2人。会話がなくても、2人の目がそれぞれの思いを語り合っていた。

はなが向かいのベンチに座ってうっとりと2人を眺めていたとき突然、たーちゃんが「ウキュー! ウキュー!」と大騒ぎを始めた。

「どうしたの? たーちゃん?」

「ただいま、たーちゃん!」

 見ると、はなが座るベンチに向かってアキが近づいていた。

「アキちゃん! お帰りなさい!」

「はなちゃん、ただいま!」

 久しぶりに会ったアキは、以前に比べて一回り痩せて小さくなり、笑みもどこか弱々しく見えた。アキの後ろでは、タツヤとはるが笑顔で立っていた。

「どうしてここへ?」

「はなこそどうしてここにいる?」

 4人は大笑いした。たーちゃんも一緒に笑った。偶然だったが、皆が一堂に会したことがうれしかった。皆が久しぶりに集まって大きな声で笑った。4人の笑い声が秋の空に高く響き渡った。

「ところで今日は仕事か?」

「仕事ってわけじゃないけど……」

 タツヤの問いにはなはこれまでの経緯を説明した。

「そうか。大変だったな。あの2人、これからどうするんだろうな」

 はなはタツヤの視線の先を追った。

「あっ!」

 はなは思わず声を上げた。そこにはシズと男性がじっと見つめ合いながらおにぎりを食べている姿があった。

「シズさんがおにぎりを食べている!」

「あれって、はなちゃんが作ったおにぎり?」と問うアキに、「そう。女将さんに習ったやり方で焼いた鮭を具にしたのよ」とはなが答えた。

「女将さん、ありがとう……」とアキはボソリと呟いた。そして、「女将さんっていったい何歳なんだろう?」と思いつつ、「さあ、私たちもご飯にしましょう。はなちゃん、おいしいおにぎりを買ってきたのよ。みんなで食べよう」と提案した。その提案にたーちゃんが真っ先に「ウキュー!」と言って両手を上げた。再び、

あたりは笑いに包まれた。

「さあ、食べようよ!」と言うと、はなは袋の中から大きなおにぎりを6つ取り出した。どれも真っ黒な海苔に包まれていてズシリと思い。はなはおにぎりを包んでいるラップをベリベリと剥がすと真っ黒なおにぎりにガブリとかぶりついた。

「あっ、おいしい!」

 ツヤツヤのお米はやや硬めに炊いてあり、一粒一粒に米の旨味がギュッと濃縮されていた。その旨味をしっかりと噛み締めながら、歯型のついた断面を見ると、ゴロリと大きな紅鮭の切り身が顔をのぞかせていた。

 2口目、鮭と一緒に米を口の中に入れた。鮭の旨味と米の甘味、海苔の香味がはなの口の中いっぱいに広がった。はなは目を細めて、旨味と甘味、風味のマリアージュを噛み締めた。

「ウヒャヒャヒャ!」

 たーちゃんの笑い声が響く。アキはおにぎりを食べながらたーちゃんを抱っこしていた。久しぶりなアキの抱っこ。たーちゃんはご機嫌だった。

「たーちゃん、よかったね。うれしいね」

 おにぎりを食べながら、はなはそう言ってたーちゃんの顔をやさしくなでた。

「はなちゃん……」

 アキがたーちゃんの笑顔を見つめながら呟いた。

「私ね、今回の退院が最期の帰宅って言われているの……」

 はなのおにぎりを食べる手が止まった。そして、アキの表情を凝視した。そこに悲しみや苦しみはなかった。たーちゃんを慈愛の目で見つめる安寧の顔があった。

「大丈夫。私は生きるよ。こんなに可愛いたーちゃんを遺して逝けるもんですか」

 そう言うと、アキははなの顔をじっと見つめた。

「私ね、家でたーちゃんと過ごして英気を養ったら、もう一度入院してたーちゃんのために病と戦ってこようと思うの。ねっ、たーちゃん。私は生きてまた戻ってくるよ」

 アキはおにぎりを持ったまま、たーちゃんをギュッと抱きしめた。アキの涙がたーちゃんの顔を濡らした。

「はなちゃん、私がもう一度入院したら、たーちゃんを預かってね。私、絶対にたーちゃんの元に帰ってくるからね」

「アキちゃん、大丈夫。私、ずっとたーちゃんと待っているから。しっかりと病気を治して帰ってきてね」

 アキは、はなの左手にそっと手を添えた。その薬指には1年ほど前に買ってもらったプラチナのリングが光り、はなのお腹はふっくらと大きくなっていた。

「はなちゃん、このお腹の赤ちゃんにきっと会いにくるよ。待っててね。赤ちゃんとたーちゃんに会うことを楽しみに治療を頑張るからね」

「私も待っていますよ」

 突然、声をかけられて驚いたはなが顔を上げると、そこには車椅子のシズとそれを押す男性の姿があった。

「私たちね、一緒に暮らすことにしたんですよ。頑張って2人で生きていきます。息子の分まで生きようって話したんです。アキさん、話を聞きました。一緒に頑張って生きましょう」

「ありがとうございます!」

 秋の空高く、青い空を真っ白い旅客機が飛行機雲で一本の長い線を描いた。その空を見上げてタツヤはボソリとはるに言った。

「俺たちもまだ生きなきゃな」

 たーちゃんの首のお守りがゆらりと揺れて、子どもたちの嬉しそうな歓声が公園に響いた。

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