第8話

 タクシーは左へと方向指示器を点滅させると、病院を出て大通りを北上した。

「たーちゃん、元気かなぁ」

 タクシーの車内でアキがボソッとつぶやいた。

「はなが大切に預かっているから大丈夫よ」

はるが答えた。タクシーの助手席に座っていたタツヤは、「アキちゃん、お腹が減っていないか?」とたずねた。

「そうね。少し」

「病院の給食は味気ないだろう?」

「味がないのよ。あんな食事じゃ食欲なんて湧かないわ」

「家に帰ったら何を食べたい?」

「そうねぇ……」

 仕事中に倒れてそのまま入院。お店は休店したままとなっている。そんな私は今、何を食べたいのだろう? 2週間の入院生活。本当はアキにもわかっていた。病院食に味がなかったのではない。抗がん剤の影響で味覚を感じにくくなっていたのだと。そして、連日繰り返す胃のムカつきと吐き気。食事など見たくもなかった。

「しっかりと食べないと化学療法を完遂できませんよ」と医師や看護師に何度も言われた。「じゃあ、あなたたちはこの状態で味のしない食事を全部食べることができるのか!」と反論したい気持ちをいつもぐっと堪え、「すみません」というしかなかった。

でも、そんな苦しみからやっと解放される。私は家に帰るのだ。

そう思うとアキは急に食欲を覚えた。

「病院では食べられなかったもの。おにぎりなんか食べたいなぁ。ねえ、みんなで公園行っておにぎりを食べない? 今日は天気がいいし、青空の下で食べたいなぁ」

「それもいいわね」とはるが応じた。

「アキちゃん、ずっと病室から出られなかったもんね。みんなで一緒に公園行って、おにぎりを食べましょう。運転手さん、この辺で気持ちがいい公園を知りませんか?」


「ありがとうございました!」

 元気のいい女性店員の声を背に、3人はご機嫌で店を後にした。

「あの運転手さん、気がきくよなぁ。公園だけじゃなくて、その近くのおいしそうなおにぎり屋さんまで紹介してくれるんだもんなぁ」

「あなた、正確にはお米屋さんよ。お米屋さんがツヤツヤの新米で熱々のおにぎりを作ってくれるなんて最高ね」

公園へ続く、うっすらと色づいたイチョウ並木。タツヤとはるは、退院したばかりのアキの歩調に合わせてゆっくりと歩いた。秋の柔らかな陽がうす黄色の葉を通して、キラキラと3人の頭上に降り注ぐ。はるは買ったばかりのおにぎりの入った袋をカサッと覗き込んだ。

「海苔のいい香りがする」

はなは袋から満面の笑みを上げた。

「うれしいなぁ。鮭のおにぎりなんて何年ぶりだろう」

「たっちゃん、運送の仕事を辞めたんだってね」

「うん、3年前にね。体がもたなくなってさ」

大腸がんから始まり、転倒骨折、脳梗塞、肺炎……。タツヤはいくつもの病と戦ってきた。入院回数が増えるにつれて、病はタツヤの体から筋肉を奪い取っていった。アキの前を行くタツヤの後ろ姿は、痩せて老いの影を色濃く宿していた。

「今もシルバー人材センターで仕事を紹介してもらっているんだけどね」とはるは続けた。

「収入はボチボチなのよ。私も保育士の仕事はもう体力的に無理なので、今はスーパーのパートで家計の足しにしているの。2人で何とか支えあっている感じね」

「そうか……」

アキは空を見上げた。イチョウの葉のすき間から真っ青な空が顔を覗かせていた。

「あと何回、この青空を見上げることができるだろう?」とアキは考えた。わからないが、そんなに多くないことは確かだった。だから今、この瞬間を大切に生きなければと、アキはひっそりと天に向かって涙した。

「ねえ、たっちゃん。今日はみんな青空の下でおにぎりを楽しもうね。ホラ、公園が見えてきたよ。たーちゃんがいてくれたら、楽しいだろうなぁ」

「たーちゃんは今日もはなが預かってくれているの。私たち2人はもう、たーちゃんが重くて抱っこするのがしんどいのよ」と、はるが寂しそうに答えた。

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