第6話

「女将さん、お忙しいところわがままを言って申し訳ありません」

「いいのよ、すぐ終わるから。それに人助けだもんね」

ある日の昼下がり、はなが住むワンルームのアパートの一室。はなの父、タツヤの行きつけの居酒屋食堂の女将は、バットにおいた紅鮭の切り身に日本酒を振った。

「これでね、5分ほどおいて浮き出した鮭の水分をキッチンペーパーでよく拭き取るのよ。そうすると鮭の臭みがなくなるからね」

はなは、シズさんと一緒にご飯を食べるにあたって、おいしい焼き鮭を提供したいと考えた。いつもの魚焼きグリルで焼いた鮭は、少しパサついていてる。そこで女将さんにはなが住むアパートのキッチンでもできるおいしい鮭の焼き方を指導してもらうことにした。

「うちの店みたいに炭火で炙った鮭なんて、普通の家じゃできないわよね。いいわ。フライパンでできるおいしい鮭の焼き方を教えてあげる」と、女将さんは快く引き受けてくれた。

浸み出した水分を拭き取った紅鮭の2つの切り身は、油をひかないテフロンのフライパンの上に並べられた。そして、女将はコンロに火をつけると中火で切り身にゆっくりと熱を通していった。

「片面を焼いて熱が通って表面が白くなったら、切り身を裏返してフライパンに蓋をして蒸し焼きにするの。こうすると鮭がパサつかず、ジューシーに仕上がるのよ」

切り身の両面に火が通ったら、女将は切り身についている皮をフライパンのヘリに押し付け、ジュージューと焼いた。香ばしい香りがはなのワンルームに立ち込めた。

「皮をカリカリに焼くと食感がいいし、生臭さもなくなるのよ。鮭の切り身の曲線をフライパンもカーブに合わせるようにして焼くと上手くいくわよ。さあ、できた!」

ふっくらと焼き上がった紅鮭の切り身が2つ、湯気を立てながらダイニングテーブルの上に供された。女将さんがちょんと箸を入れるとほろりとカリカリの皮から身がほろりとこぼれた。はなは思わず唾を飲み込んだ。

「ご飯は炊いてくれているんでしょ? お味噌汁とお漬物は持って来たから一緒に食べようね。あらっ、起きたの?」

鮭の焼き上がりを待っていたかのように充電を終えた、たーちゃんが眠そうな目でキッチンへやって来た。

「話には聞いていたけど、この子がたーちゃんね。たーちゃん、はじめまして!」

たーちゃんは右手を挙げて「おはよう」と挨拶をした。女将さんは、ニコニコと満面の笑みでたーちゃんを抱き上げた。たーちゃんは、ウキャウキャと声を上げた。

「たーちゃん、えらいね。ちゃんと挨拶できるんだ。それに赤ちゃんみたいに温かい。たーちゃんを抱っこしていると安心するね」

「そうなんですよ、女将さん。たーちゃんを抱っこしていると不安な時だって『大丈夫。きっとうまくいく』って信じられるんですよ」

「確かに、この愛らしさと温かさはそう信じたくなるわね。さあ、ご飯を食べましょう」

はなは、焼きたての鮭を一切れずつ皿に盛り、温めた味噌汁と炊き立てのご飯を椀に盛り付けた。そして、女将さん手作りのナスの漬物を切って小皿に盛ると、ダイニングテーブルにセットした。テーブルの上からホカホカと湯気が上がった。

「いただきます!」

はなと女将さんは手を合わせて合唱すると、子ども用の椅子に座った、たーちゃんも右手を挙げて「いただきます!」と応えた。ホカホカの食卓の上に2人の笑いが広がった。

煮干し出汁の味噌汁の具は、小松菜と油揚げ。炊き立てご飯の上に熱々ジューシーな焼き鮭を一口分、ちょこんと乗せてパクリと頬張れば、ほろりと鮭の身がほぐれてその旨味が口いっぱいに広がる。そして、煮干しの香り立つ味噌汁をずずっと啜ると、深く柔らかな風味にはなはため息をつくしかなかった。

「おいしい……」

「ありがとう。その言葉が一番うれしいわ。自慢の糠漬けも食べてね。いい漬かり具合よ」

厚めに切ったナスの糠漬けをシャキシャキと齧ると、熟成されたナスの酸味と旨味が口腔内に広がり、ご飯がどんどん進みそうになった。はなはため息混じりに「女将さん、すごいなぁ。どうしてこんなにおいしくできるの?」と質問が飛び出した。

女将さんは、ふふふと笑った。

「あのね。今この瞬間にいただくご飯を人生最高の一食にしようといつも思っているの。そして、おいしいと思ったら、明日はもっとおいしくしようって考えるでしょ。毎日、その繰り返しよ」

そう言うと女将さんは、箸でご飯を口に運び、「一口ずつ、大切に味わって噛みしめないとね」と笑顔で言った。

はなも女将さんに倣い、ご飯を箸で口に運び、ゆっくりと噛みしめて味わった。いつもの炊飯器で炊いたいつものご飯。いつもはガサガサと掻き込むご飯だったが、ゆっくりと噛みしめて味わうと、お米の旨味がゆっくりと口の中にじわっと広がっていった。

「本当だ。ゆっくり味わうとおいしくなる。健康にもいいですね」

「そうよ。ゆっくり噛みしめれば噛むほど消化がよくなるし、満腹を感じやすくなるし、ドカ食い防止につながるんだから」

そういうと二人は目を合わせ、互いに微笑んだ。

「でも私、こんなにおいしくシズさんに提供できる自信ないなぁ。女将さん……」

「ダメよ」

女将さんはピシャリと言った。

「はなちゃんが思いを込めて提供することに意味があるの。私が作ったらただのケータリングでしょ。私のケータリングは高くつくよぉ」

女将さんはいたずらっぽく笑った。

「ヘタでも失敗してもいい。はなちゃんの思いを伝えることが大事なのよ。たーちゃんもそう思うでしょ?」

女将さんが問いかけると、たーちゃんは両手を挙げてうれしそうにウキャウキャと笑った。

「ところでね。ここ数日、不思議な高齢の男性のお客さんが来るのよ」

「どんな人ですか?」

「なんでもね、昔の記憶を失った人らしいのよ。でね、なんかこの町に呼ばれている気がするって遠くから来たらしいの。不思議ね」

「そうですね」

はなは、上の空で相槌を打った。

「シズさん、私の料理を食べてくれるだろうか?」とはなは、不安で女将さんの話を聞くどころではなくなっていた。

「大丈夫。たーちゃんがいるよ!」

はなのスマホにまた一つ、ポンとたーちゃんのハートがついた。見ると、たーちゃんがニコッと笑った。

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