第4話

 その次の日、樋口さんは来なかった。

 素直に、よし、と喜んだものである。

 思う存分、本が読めるといったもんだ。


 しかし、そうは本屋、いや問屋が卸さなかった、ということがその翌日判った。


「ねぇ、賢い速水くんに相談があるんだけど」

 すっかり、常連である。ちゃっかりササキさんとも話をして僕の前の席に来た。

 というか、どれだけ根に持っているんだ。

「僕は別に無料相談所、という訳ではないんだけど」

「じゃぁ、料金は私の体で」

 っ……!

「冗談でも、そんなこと言うべきじゃない。これは、真面目に」

「ごめん、気を付ける」

 

「で、何かあるのか?」

「うん。私も昨日聞いた話なんだけどね」

 どうやら、昨日ここに来なかったのは(僕としては永遠に来ないで欲しいもんだが)、テニス部に行っていたことが理由だという話だ。

「私の友達なんだけど……2組の美佳みかちゃんって知ってる?ええと、根木ねぎ美佳ちゃん」

 いいや、知らないな。僕はあの少女に大人気の厚化粧の人形リカちゃんしか知らない。

 僕が首を振ると、そうだよね、と樋口さんは言った。

 今回、知らなかったのは偶然だゾ?あまり、僕の交友範囲を舐めないで頂きたい。いいや、ツッコミを待っている訳じゃなくて……。

「その子がね、ああ、私と同じテニス部なんだけど、昨日言ってたんだけどね。

 上靴が誰かに汚されたんだって。しかも、


 ——不可能犯罪。

 言うまでもなく推理小説で多用される、人間が実現不可能と思われる状況下での犯罪のことを指す。密室やアリバイがその王道と言える。

 しかし、例のフェル博士の生みの親、カーや二階堂黎人などが定義するように一括りで言っても様々に分類される。そもそも不可能になったのは故意なのか、偶然なのか。不可能にしたのは犯人本人か、被害者か。その不可能状態は犯人一人で作り上げられたのか。


「詳しく、話してくれないか?」

 ミステリファンでいながらこんな美味しい機会を逃しては、悔しいじゃないか。

「うん」

 口許を「掛かった」というように緩めながら樋口さんは首を縦に振った。



 樋口さんの——よくカンペなしでそんなに上手くプレゼンが出来るな。大体、あんなものなんて陽の民のためにあるようなものだ——説明をまとめると以下の通り。

 うん?上手かったのならそのまま載せろ?

 僕の今までの説明の上手下手が判ってしまうだろ。


 昨日、根木美佳——なんだ、農園みたいな名前だな、ネギとミカン——が学校に来て、いつも通り下駄箱から上靴を出そうとすると至る所に汚れがあったと言う。

 その汚れは美術などで使われる練り消しが至る所にこべりついたようなものだった。

 ここまではよくある嫌がらせの一種に過ぎないが、その嫌がらせが人間に不可能な状況下でなされたというのである。

 一応、あの学校にも防犯カメラなるものが存在している、もちろん昇降口にも。

 例の根木さんの下駄箱もギリギリ防犯カメラに映る範囲にあったらしい。

 根木さんはカンカンで、絶対に犯人を捕まえてやると言い切り、2組の担任もそれに押され、犯人の追及に乗り出した。

 その結果、防犯カメラで根木さんの上靴に触れた者、ひいては下駄箱に近付いた者を調べたらしい。

「そりゃ、もう徹底的にね。目を皿のようにして見たよ」

 これは、樋口さんの言葉である。

 どうやら、樋口さんも防犯カメラの映像を見たようである。ほぼ、無関係な人にまで見せてしまっていいもんなのか?

 だが、その結果として判ったのは、一昨日、根木さんが下駄箱に上靴をなおしてから、昨日の朝下駄箱から上靴を取り出すまで、怪しい行動をしていた人は皆無だったということらしい。


「こんなの無理だよ。人間業じゃないもん。仮に人間だったらプロだね、間違いなく」

 ポーは『モルグ街の殺人』でオラウータンを犯人とした。

 今回、それに準えるとすると、蟻あたりが容疑者か。

 と、冗談はさておいて。

「根木さんの裏側に下駄箱がある人はいないのか?」

 目の前の樋口さんは、ふぅと息をひとつ吐いて、言う。

「いるよ、でも言ったでしょ、目を皿のようにして見たって。

 当然、私たちも速水くんと同じようなことを考えて裏側を通る人物にも注意を払った。

 床を這いずるようにして裏側までいったらそこまではカメラに映らないけど、当の下駄箱は1番上にあるの。だから一瞬でも立たないとならない」

 やはり、そうか。

 それと、と樋口さんは加える。

「根木さん、じゃなくて美佳ちゃんね。彼女、根木っていう苗字が嫌いなの」

「知りもしない女子のことを名前で呼ぶのには抵抗があるのだが」

「知りもしないからこそ、名前で呼べるってもんじゃないの?」

「トンデモ理論だな」

「じゃぁ、試してみる?私のことを名前で呼んでみてよ」

 そんなことで証明できるもんでもないだろうが、仕方あるまい。

 お望みなら呼んでやろぅ?

 名前……。樋口さんの名前ってなんだ?

 『樋口さん、眼福だわ〜』『ま、俺らには高嶺の花だな』エトセトラ。

 クラスの男子どもの会話の一部が頭を流れるが、おい、誰か名前で言えよ。

「え〜と、下の名前って何?」

「まじで言ってる?」

「冗談で言う理由が見つからないが」

「私たちって同じ世界線にいるよね」

「おそらく」

 はぁ、と樋口さんはため息を吐くが、仕方ないだろ、知らないんだから。

「いろり。いろどりに人里のさとで彩里よ」

「そうか。で、さっきの話だが、汚された上靴の写真っていうのは持っていないのか?」

「私に対する興味ゼロ!?」

「いや、今は多少の興味はある。何せ、面白い話を持ってきてくれたしな」

「不謹慎な発言!」

「不謹慎ととったのなら謝ろう。で、写真は?」

「あるけど……。ん、これ」

 樋口さんの差し出すスマホを受け取って、写真を確認する。

 確かに、左右両方とも足の甲の部分、踵の部分など様々な場所に練り消しのようなものが付き、汚れている。

「でも可哀想だよね。美佳ちゃん買い直すにも特注だから届くまで時間あるし……」

「いいや、違う」

 何が? と樋口さんは尋ねるが、僕にはこの簡単な悪戯の真相が見えていた。



————

 お読み下さり、ありがとうございます。

 いよいよ、次話完結です。

 最後までお付き合い願います。

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