02 魔王皇帝【1/4】
シエラ・エル・ドラゴミールが帝国へ嫁いできてから、皇室の雰囲気はすっかり変わった。暗く重たい皇室だったが、今では子どもの笑い声が響く明るい皇室となった。
はじめこそ家族を恋しく思うシエラの夜泣きが酷かったのだが、ジェフリーに言われ渋々ではあるがアレクサンドロスが献身的に支えたことにより、今ではすっかりそれも良くなっていた。
「あっ!」
シエラはとある人物の姿を見付けて、笑顔で走り出した。
「皇后様、皇后っ…シエラ様! そのように走ってはなりません!」
追いかけてくる侍女の言葉を無視して、シエラは目的の人物まで駆けていく。
「パパ〜!」
そして体当たりするかのようにその者へ飛び付いた。
「違う、夫だ!」
アレクサンドロスは自身の腰に飛び掛かってきたシエラを軽々抱き抱えると、目を合わせて彼女に言い聞かせるように言った。
「俺はお前の父ではない、分かったか」
「そっかぁ…あ、ちょうちょ!」
「シエラ、聞いているのか!」
アレクサンドロスが叱りつけようとしたが、無駄だ。シエラの意識は周りを羽ばたく蝶へと移っており、アレクサンドロスの言葉はもう届かないようだった。
「も…申し訳、ございません! 皇帝、陛下!」
やっと追いついたシエラの侍女が息も絶え絶えな様子で謝罪してきたので、アレクサンドロスは頷いて許す意を示す。
「俺は向かう所があるから、もう行く」
シエラを侍女に渡し、アレクサンドロスは背を向けた。
「えー…パパ、もう行っちゃうの?」
つい先ほどまで蝶に夢中になっていた癖に…、と現金な態度を見せる幼妻にモヤっとして、そして気付く。自分が意外にもいじけていた事に、気恥ずかしさを感じてアレクサンドロスは咳払いをすると、平静を装った。
「何度も言うが、父ではない。不愉快だ」
振り返り、咎めるように目を細めてシエラを見る。あくまでも一貫した態度をつらぬくアレクサンドロスだったが、内心では諦めている部分もあった。
夜泣きしていたシエラをあやすとき、本当の父母になれはしないが、その代わりにはなってやろうと接したのだ。おかげでシエラはアレクサンドロスを父と慕い懐いている。
公務の間に空いた時間でシエラの遊び相手や字を教えてやったりしていた。まるで子育てのような新婚生活で、夫婦、というにはあまりにも掛け離れた関係性だろう。
けれど、不思議とアレクサンドロスはシエラとの新婚生活に満足していた。
虐げられた日々を過ごし凍り付いていたアレクサンドロスの心を溶かしたシエラの温かな光に惹かれるからなのか…それとも…。
「パパ、抱っこして!」
シエラが両手を広げてせがむ。
(俺に『家族』を教えてくれたのは、シエラだけだ)
シエラに出会って初めて、アレクサンドロスは自身が心の奥底で求めていた本当の願いを知った。求められる喜びと、注ぐ愛を知った。
アレクサンドロスは無意識に微笑んで再びシエラを抱えると、壊れないように優しく抱き締めてやった。その微笑みを目の当たりにした侍女は頬を赤く染めて見惚れてしまう。
魔王皇帝と恐れられているアレクサンドロスだが、190センチを超える高い背丈と稀に見る整った顔立ちの青年だ。
夜の帳のような漆黒の髪に肉食獣のような鋭さと輝きを放つ金の瞳、精悍な顔に鍛えられたその身体は女性にとってたまらなく魅力的に映るだろう。
シエラという妻があっても、アレクサンドロスに密かな想いを抱く淑女は多い。
シエラとアレクサンドロスの婚姻関係は歳の差がありすぎる事で政治的な意味合いが強く白い結婚なのは分かりきっていて、熱りが冷めれば解消されるだろうというのが周りの見解だ。
シエラが去った後の後釜を狙っている者も多い。
ただ、アレクサンドロスはシエラを大切にしているし、彼の冷酷な性格ゆえに下手を打って処罰されるなんてことは避けたいと様子を窺っているだけなのだ。
アレクサンドロス自体も将来、シエラと離縁するつもりだ。シエラが適齢期になる前に離縁し、彼女に相応しい相手を見繕ってやろうと考えていた。シエラには必ず幸せになって欲しい。
「パパ大好き! お仕事頑張ってね」
チュッと、シエラからの不意打ちのキスが唇に落ちてきた。もう何度シエラに唇を奪われた事だろう。
これで本当に頑張ろうと思えるのだから、不思議なものだ。
シエラを降ろすと、今度こそアレクサンドロスはその場を後にした。
「…ジェフリー。シエラに茶と菓子の用意を」
歩みを進めながら側に控えていたジェフリーへ指示を出す。
「はい、最高級のものをすぐに手配いたします」
シエラと婚姻を結び、一年の時が経とうとしていた。あれからアレクサンドロスは満たされた日々を送っている。
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