10
翌週の仕事終わり、私と雨宮は〈かがりび〉で水川を待っていた。間日だからか店内は閑散としていた。テーブルの上には、変わらず揚げ物が多く並んでいた。
水川は予定より二十分ほど遅れてやってきた。どうやら残業をしていたようだ。店に入ってきたとき、妙に疲れた顔をしていた。
「悪いな、待たせた」
「先、頼んどいたからな」
雨宮は気安く声をかけた。だが水川はテーブルに並んだそれらを見て、微妙な反応をした。コートを脱ぐこともなく、雨宮の隣に腰を下ろした。私とは対面の位置だった。
「飲み物、何か頼む? 私たちはもう頼んじゃったし」
「あ、ああ。そうだな。でも一杯でいいから」
水川は誰かに弁解するような口調で言って、オレンジジュースを頼んだ。一杯目は酒を注文するのに珍しいことだった。
「なんか、久しぶりだよね」
呼び出したのは私だったのに、なかなか水川の目を見れなかった。水川は素っ気ない声で、「まあ、忙しくてな」と言った。
店員が私と雨宮のドリンクを先に運んできた。どちらもビールだった。
「先飲んじゃっていいよ」
水川はそう言って、お冷やに口をつけた。私たちは言われたとおり先に飲んだ。
「そういえば、姪っ子へのプレゼントはどうだった? 喜んでもらえたか?」
雨宮がそう切り出した。水川はにこやかに頷いた。今日初めて見せる笑顔だった。
「まあな、助かったよ。ありがとな」
「何をあげたの?」
私が聞くと、水川の笑顔が固まった。胸をつかれたような気持ちになったが、頬にぐっと力を入れた。水川は何も悪くない。私の過去がすべて悪いのだ。
「雨宮から進められて、ロクシタンのハンドクリームにした。最初はメイク道具とかがいいかなって思ったけど、よく分からないし」
水川の声が少しずつ尻すぼみになっていった。店員がそこでオレンジジュースを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と下がっていくのを待って私は言った。
「コート、脱ぎなよ。暑くない?」
だが水川は思案顔でオレンジジュースを口に含むと、こう聞き返してきた。
「用件はなんだったの?」
きっと今すぐにでも帰りたいのだろう。視線はいつになく泳ぎ、笑顔もぎこちない。
たとえばここに私がおらず、雨宮だけだったら、水川は酒も頼んだし、コートも脱いだだろう。
私は単刀直入に切り出した。
「水川、最近私のこと避けてたよね」
グラスを握る手がぴくっと動いた。
「……それで?」
「急だったからびっくりしたんだけどさ。でもようやく分かったんだ。なんで水川が私のこと避けてたのか」
「ふうん」
水川はグラスに視線を落として、水滴を親指で拭っていた。私は言葉を切ってビールを呷った。雨宮は唐揚げを三つ小皿によそうと、何も聞かず水川の前に置いた。
それからこう言った。
「桔梗のトップオブクソ元カレのこと覚えてる? 袋井って名前の」
雨宮の問いにはすんなり頷いた。
「ああ。不快なやつだったからよく覚えてる」
きっと忘れられないのだろう、と私は頭の中で水川の言葉を変換して考えた。
「会ったことあるのか?」
「ないよ」
「じゃあ、なんで不快なやつだったって……」
水川は眉間に皺を寄せて、オレンジジュースを半分ほど流し込んだ。
「そんなの言葉のアヤだろ――」
「嘘でしょ」
私は被せるように言った。水川はグラスをゆっくりと置いて、首をかしげて見せた。
「なんの話?」
睨まれているような気がして、手に力がこもった。私はふっと視線を切ってこう切り出した。
「その袋井に、先週会ったんだけど……」
ときどき料理をつまみながら、袋井とバーに行った日のことを話した。水川は話を聞いている間ほとんど無反応だったが、睡眠薬を飲まされたと聞いたときだけ、はっきりと嫌な顔をした。
「――それで、タクシーを呼んでもらって帰れたんだ」
かいつまんで話したから、ざっと二、三分で終わってしまった。水川はまだ話が掴めないようで……いや、理解できないふりを続けるようで、
「それで、なんで俺が呼び出される話になるの?」
と言った。
「水川、もういいよ」
私はなるべく優しい声を作った。雨宮の奥さんとトップオブクソ元カノの話をしたほうがスムーズだったかもしれないと思ったが、それももういい。
「水川、ごめんね。私のせいで、水川に迷惑をかけた。本当にごめんなさい」
水川は戸惑った顔をしていた。無理に笑顔をつくろうとしたのか、唇が半端な弧を描いていた。
「え……?」
「袋井に会ったんでしょ? それでこう言われたんじゃないの? 『緋奈に近づくな』って。聞いたわけじゃないから分からないけどさ。こんな感じのことを」
簡単なことだったのだ。雨宮の奥さんがされたことを、袋井が水川にやった。ただそれだけだ。きっとデートのときキスをした私たちを見て、袋井が勘違いしたのだろう。
「だから私のことを避けてたんだよね。もしかして脅されたりもしたのかな。今もすぐ帰ろうとしてさ……」
水川は否定も肯定もせず、オレンジジュースを飲んだ。もういつもの無表情に戻っていた。にわかに不安になったが、私は笑顔で続けた。
「でも、もう大丈夫だから。二度と近づかないよう袋井にはメッセージを送って……」
カン、と音を立ててグラスが置かれた。結露で浮いていた滴がつーっとテーブルに流れた。
水川は私の目を見据えてこう言った。
「だから、なんの話だよ」
その声には、はっきりと嫌悪感が表れていた。
雨宮も私も咄嗟に言葉を継げなかった。水川は小さく溜め息をつくと、コートの袖を捲って時間を確認した。私もつられてスマートフォンをひらく。十九時半を少し過ぎたところだった。
「八時の電車には乗りたいんだ」
水川はそう呟いて、
「俺が桔梗のことを避けてた理由ってさ。それ以外に、本当に思いつかなかったの?」
正直、思い当たるのはもう一つしかなかった。
「……デートのとき、キスしたこと?」
水川はふっと溜め息をついた。
「そうだよ、今日呼び出されたとき、その話をされるのかなって思ってたんだ。謝られたら水に流そうって思ってた。なのに、袋井がどうこうって……」
水川はやはり無表情だったが、怒っているのだとすぐに分かった。
「……たぶん、桔梗にとっては、ああいうことって大したことないんだよね? だから人に簡単にできるんでしょ?」
「そんなことないと思うぞ。だって桔梗、前の飲み会でもさあ、後輩へのスキンシップが激しいからって、先輩にめっちゃ怒ってて……」
雨宮は殊更明るく取り繕おうとしてくれたが、水川は呆気なく黙殺した。
「桔梗はたぶん、その後輩が女性だったから怒ったんじゃないの? たとえば男女が逆で同じことが起こっていても声をかけないでしょ?」
「それは……」
言葉に詰まった。図星だったからだ。
水川は新品の割り箸を取り出すと、小皿にのった三つの唐揚げのうち、一つを大皿に戻した。
「……桔梗がどういう気持ちかはしらないけど、ああいうことって普通はしないものじゃん。なんでやってきたの?」
ああいうこと、と濁しされるとばつが悪かった。まるで口に出すのも憚られるようなことをしてしまったように感じた。
私は声のふるえを抑えながら言った。
「好きだったから、想いが伝わったらいいなって思って。それに、水川ならたぶん許してくれるだろうって思って……ごめん」
嘘をつくのが得策でないことくらい分かった。水川は二つ目の唐揚げを大皿に戻した。
「たとえば雨宮にいきなり、そういうことされたら嫌じゃないの? 袋井だったら? どうして自分は嫌がられないって思ったの?」
そこで雨宮が割って入ってくれた。
「本当に嫌だったら抵抗できただろ。その前からずっとそういう気配はあったのに、それはよくてキスしたら怒るっていうのは、さすがに桔梗が可哀想だろ。水川はたっぱもあるんだしさあ……」
味方をしてくれるのはありがたかった。でもこの反論がズレていることは私にも分かった。水川はいっそ悲しげな目をして、最後の唐揚げを箸でつかんだ。
「それが三つ目だよ。前までは友達としてつるんでいた人がさ、突然パーソナルスペース詰めてきて、ベタベタ触ってきたら怖いだろ。雰囲気だってあるし、断り切れなかったんだよ。確かにそれは俺も悪かったけど……でも、桔梗ならそういうこと分かってくれるって思ってたのに」
水川は弱々しく笑って、最後の一つを大皿に置いた。綺麗に箸袋に戻すと、先を斜めに折った。こうした所作も彼の美点だった。
「だから、桔梗のことを避けてた。たぶん言ったところで分かってもらえないだろうし、実際、雨宮は納得いかない顔してるしな」
水川は冗談めかして笑って、席を立った。時間を見ると十九時四十七分だった。
「悪いけど、桔梗の気持ちには応えられないし。そういうことを平然としてくる人とはもう付き合っていけない。だから、ごめんな」
水川は自分の飲んだジュース代だけ置いて、店を出て行った。
雨宮も相当堪えたようで、水川の空白を見つめたまま煙草に火をつけた。私はビールを飲み干してこう言った。
「嫌だったら、そう言ってくれたらよかったのに」
今の率直な気持ちだった。間違った気持ちだと頭では分かっている。だが、やはりそれだけが悔やまれた。
「そしたら私も勘違いしなかったのにさ」
雨宮はふうっと煙を吐き出した。手で払うことはしない。濃い紫煙が私の身体に絡んでくる。
お前も同じだぞ、と言われている気分だった。
しえん 冬場蚕〈とうば かいこ〉 @Toba-kaiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます