話し終える頃には、ペットボトルのお茶は底をついていた。冴えた月が、さっきまでなかったはずの薄雲に隠されていた。

「これでも、まだ私が悪いと思う?」

 声がふるえそうで、喉に力を入れた。意識するほど泣いてしまいそうで、咄嗟に顔を下げた。

「好きな人に避けられて、後輩にも邪険にされて、そんなの傷つくよ……。そんなときに元カレが現れて揺らぐのってそんなに悪いこと?」

「悪いなんて一言も……」

 雨宮は伏し目の私を覗き込むようにして目を合わせてきた。そういった癖には気をつけなくてはいけないのに。

「うそつき」

「嘘じゃねえって」

 だが、しばらく睨んでいると、雨宮は処置なしというように手を上げた。

「……そりゃあ、少しは思ったけど。危機管理が甘いし、どうせ自分は被害に遭わないだろうって楽観視してるように見える。言ってることも支離滅裂だし。自分を粗末にしたいとかって言って、実際に粗末に扱われたらキレるくせに」

「なにそれ――」

 頭の奥がカッ熱くなった。だが、雨宮は言葉を被せた。

「でも、睡眠薬を盛るやつはさらに悪い。それだけの話だ。どっちにしろ、元カレにのこのこ着いていったお前にも非があった。被害者に付け込むやつもいることを知っておくべきだった。反省しろ、教訓になっただろ」

 反省、教訓。それは本当に私がするべきことなのだろうか。確かに危機意識が薄かったかもしれない。普段だったら元カレに着いていくなんて失態は犯さないはずなのに、正常な判断ができなかったのだ。

 でも、そこに付け込んだのは袋井だ。睡眠薬を盛って、私を暴行しようとした。それでも私は責められるべきなのだろうか。

「……どうせ、雨宮には分からないよ」

 自身の屈辱をどう表現すべきか分からず、私はそう言った。雨宮は怪訝そうに眉をひそめた。話を続けろという意味だと思い、その通りにした。

「雨宮は、袋井に連れられてるのが私だって気づいて、助けてくれたの?」

「いや。似てるなとは思ったけど、近づくまでは分からなかった。声をかけて、お前の顔を見て初めて気づいた」

「でも、助けてくれた」

 雨宮が頷く前に、言葉を重ねる。

「普通のこととしてやってくれたんだよね。困っている人がいたから助ける。犯罪に巻き込まれているかもしれないから助ける。被害者かもしれないから助ける。私でもそうする。たぶん私だけじゃなくて、誰でも」

 雨宮は考える間を置いてから頷いた。

「そうだな。お前が被害に遭っていそうだったから助けた。お前じゃなくても助けた。当たり前のことだ」

 私は被せるように言った。

「じゃあ、私を被害者だと認識したのはどうして?」

 雨宮は眉をひそめた。それは、異論があったわけではなく、なぜそんなことを聞いていくるのか、という表情だった。

 やっぱりこの一点だ。この一点が、雨宮と私の違いだ。ずっと言い表せなかった、雨宮の不理解の元だ。

 私は雨宮を見つめたまま言った。

「たぶん私が女だからじゃない? たとえば袋井が抱えているのが男性だったとしたら、もしくは、私が袋井を抱えていたとしたら、雨宮は抱えられている人を被害者だと思わないんじゃない? ただの酔っ払いだと思わない?」

「まあ、そうかもな。それで?」

 雨宮は察しの悪い方じゃない。それなのに、怪訝な顔は変わらなかった。私は浅い息を吐いて続けた。

「女だから被害者だと認識することはあると思う。実際、被害に遭いやすいしね。だから助けるのは当たり前だって、それも正しい。でもそれって、こう言い換えられると思わない?」

 どうしたら誤解なく伝えられるか、一瞬だけ考えてから、こう言った。

「女は被害者として扱われるせいで、付け込まれやすい」

 雨宮の寄っていた眉がようやく解かれた。

「被害者になると色んな人が近づいてくるよ。善意で助けようとしてくれる人も、悪意ありきで近づいてくる人も。どの手を握ったらいいのかなんて分からない。でも手を取らないと助けてもらえない。そして、一度助けを拒否したら二度と助けてもらえなくなる」

 たぶん、私はもう後輩を助けることはないだろう。男に絡まれていても、きっと見ないふりをしてしまう。

「それが嫌だから、どんな手でも取るしかないんだよ。女っていうデメリットを背負ったまま、安全かどうか分からない手を握るしかないんだ。その怖さ、雨宮には分からないでしょ?」

 雨宮は黙ったまま、頷きもしない。私は続ける。

「そういうことを全部見ないふりして、被害に遭いたくなかったら気を引き締めろっていうのもひどい話じゃない? 正しいかどうかじゃなくてさ。もっと感情的な話として。ひどいと思わない?」

 雨宮が否定か肯定か、口を開きかけた。でも私は被せるようにして言った。

「私も、雨宮みたいだったらよかったよ」

 その声は図らずも、自嘲的に響いた。

「男だったら、こんな被害に怯えることもなかった。雨宮もさあ、元カノが粘着してきたとき、そんなに怖がってなかったでしょ。面倒だなって思っただけで。その程度だったでしょ?」

 責めるような口調になってしまった。きっと雨宮だって不安はあったはずなのに。あとで激しい自己嫌悪が揺り戻してくるだろう。

 でも、口は止まらなかった。

「雨宮、女に生まれたかったって思ったことないでしょ。男だからこんな屈辱的な目に遭うって、そういう経験ないでしょ? だから――」

「もういいよ」

 雨宮が静かな声で制した。その声があまりにも優しくて、言葉に詰まった。

「さっき俺が言ったこと、間違ってるとは思わない。でも……ごめんな、桔梗。お前もいろいろ抱えてたのは分かってたのに。デリカシーが足りなかった。嫁にもよく言われるんだよ。気をつけるべきだったのにな」

 雨宮はハンカチを渡してくれた。

「だから、もう泣くなよ」

「え……?」

 言われて、ようやく気がついた。気がつくとダメだった。泣いていると同情を求めているみたいで、私は雨宮に背を向けた。

 しばらく待っていると、雨宮が呼んでくれたタクシーがやってきた。

「そういえば言いそびれてたんだけど」

 雨宮は公園を出る直前、思い出したように言った。

「桔梗が目覚ますの待ってる間に、水川に彼女でもできたのか聞いたんだけど……」

 いきなりのことに心の準備すら出来なかった。

 ただ呆然と次の言葉を持った。

「一緒に映画行ってたの、姪っ子だって。プレゼントはその子の誕生日用らしい。ほら、年の離れたお兄さんがいるって言っただろ? その娘だって」

「そうだったんだ……」

 それなら距離の近さにも説明がつく。親族相手なら。ほっと胸をなで下ろすが、女の子の姿が頭によぎって、眉に皺が寄った。

「あ、でも、あの女の子、大学生くらいだったよ。水川のお兄さんって……」

「今年で三十六になるって。姪っ子の方は二十歳らしい。若いパパさんってことだな」

 水川の兄が十六で父親になったというのにも、水川との年の差にも驚いた。雨宮は目を白黒させる私を楽しげに見ていた。

「俺もびっくりしたよ。異母兄弟らしくて、あんまり詳しくは聞いてないけどな」

「そっか……」

 タクシーは公園を出てすぐの路肩に停車していた。私は雨宮に礼を言って乗り込んだ。雨宮はぎりぎり終電があるからと、電車で帰るらしかった。

「とりあえず良かったな。水川がまだフリーで」

「うん……」

「じゃあな。今日はゆっくり休めよ」

 その言葉を皮切りに扉が閉まり、行き先を告げるとタクシーが発進した。

「夜遅くまでお仕事、ご苦労様です」

 運転手は痩せた中年男性だった。またセクハラでもされたらどうしようかと気を揉んだが、杞憂だった。

 むしろ「寒くないですか」「音楽でもかけますか」「近道できるところがあるのでそちらを通っても大丈夫ですか」「お加減が優れませんか」と気を遣われた。

 そんなにひどい顔をしているのかとスマートフォンの内カメラで確認すると、顔色を失って生気の抜けた顔が映った。

「うわ……」

 思わず声を出すと、また運転手が気にしだした。ありがたい反面、煩わしくなって、到着したら起こしてもらえるよう頼み、イヤホンをして目をつむった。懲りずに水川の好きなバンドの音楽を流した。

 考えるのは二つだった。

 映画にいた子が恋人ではなく姪だったなら、どうして私は避けられていたのか。それと、袋井が水川を知っている風だったのはなぜか。

 少し考える。ドラムの音が激しく鳴り響いている――

「ああ、そっか」

 そこで気がついた。そうだ、簡単なことだった。きっと雨宮と同じだったのだ。正確には、雨宮の奥さんと。

 水川お気に入りのギターソロに入った。前に聞いたときよりもずっと、一音一音の繊細さが伝わってくるようだった。


 〉今度、時間作ってくれない? 話がある


 水川の個人ラインにそれだけ送った。返事があるかは分からない。もしかしたらこのまま既読すらつかないかもしれない。

 でも、もうそれでいいような気もした。

 もしいつまでも気を遣わせるようなら、直接会いにいってしまえばいいのだ。

 そして誤解を解こう。

 窓に顔を近づけると、冬の外気が頬を冷やしてくれた。テールランプがぽつぽつと間隔を空けて深夜の都道を走っていく。

 しずかな夜だった。

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