8 後
二ヶ月前のあの日。新宿駅で待ち合わせて、紀伊國屋書店の一階から八階まで周り、東口にある猫カフェに入って、休憩がてら夕食までの時間を潰していた。
夕方頃から十度を下回るだろうという予報だったが、日中は暑いくらいで、スタジャンは脱いでいた。
『そういえば今日、雰囲気違うね。いつもの服じゃない』
猫とじゃれながら、不意に水川が言った。
その日の服装は、普段のフェミニン系ではなく、アメリカンカジュアルだった。髪型もコテも当てず、ひとつに括っただけのシンプルなものにした。水川の好みが「友人のような距離感の人」だったからだ。
『そうなの、変かな』
『別に変じゃないと思うけど……』
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、という反応だった。もう少し踏み込もうかとも思ったが、水川の興味がすぐ猫に向いたのでこの話はそれで終わった。このときばかりは猫を恨んだ。
苦手なりに駆け引きもした。
大学の友人から教わったように、さりげなく身体に触れたりもした。「初めは肩とか腕とかがいいよ」「緋奈、胸でかいし、押し当てたら?」「相手の反応を見て、問題がなさそうだったら背中とか、あと髪もいいかもね」と教えてもらった。その子は、ゴミがついてると言って、相手の髪を撫でるのだそうだ。
だが、水川はこれといった反応を示さなかった。
待ち合わせ場所で呼び止めるとき肩を叩いてみても、ゴミがついていると髪を触ってみても、ふざけて腕を組んで身体を密着させてみても、いつも通りの微笑を返されるだけで、拒絶されることも、応じてもらえることもなかった。
思わせぶりなことを言ってみるといいとは雨宮の言だった。「なんでもいいんだよ、気を持たせるようなことを言ったら」と軽く言われた。
これも失敗した。どのタイミングだったが忘れたが、
『そういうところ好きだよ』
『水川の彼女になったら幸せだろうね』
と言ってみたが、どちらも水川は、
『友達に褒めてもらえるならそれが一番うれしいわ』
と、あくまで「友達」という言葉を強調した。
気落ちはした。これでは雨宮と三人で遊んでいるときと変わらない。所詮、自分は友人に過ぎないのだ。きっと女としての魅力が足りないのだ、と。
夜は、新宿三丁目にある半個室の和食居酒屋に入った。店内の照明は暗めで、ラウンジミュージックが優しく流れていた。
笑顔を崩さないように気をつけてはいたが、私の心の中は腐っていた。
『桔梗は普段からこういう店来るの?』
慣れていないのか、水川はいつになく身体を固くしていた。墨色のノンカラーシャツと同系色のエプロンを合わせた店員がメニューを持ってきた。注文をとる声も上品に響いた。
それぞれ、八海山とレモンサワー、揚げ物を数種類頼んだ。水川は下がっていく店員に軽く頭を下げて、また視線をキョロキョロと動かした。
『すごいオシャレだね。あんまり来ないから、緊張するわ』
そんな水川を見ていると、それまでの捨て鉢な気分が吹き飛んだ。こういう気取らなさが水川の魅力だ。そもそも「友達のような距離感の人」が好みなのだ。だったら、間違っていないはずだ、と自分を励ました。
『私もあんまり来ないよ。せっかくだから予約しただけ』
『ああ、せっかく新宿まで来たしね』
水川は考えることもなくそう言った。普段は会社から近い中目黒の店が多いので、勘違いされても仕方ないような気がした。
私はもっきりに八海山が注がれるのを見つめながら、
『せっかく二人きりだから』
と言い直した。升まで溢れた清酒は一点の濁りもなく澄んでいた。水川は真意を測るように視線をうつろわせ、
『雨宮に何か隠しごとでもあるの?』
冗談めかして笑った。店員は左右対称の笑顔で、ごゆっくりお楽しみください、と下がっていった。
開き直った私はそれからも、勘違いされるような言葉を吐き、積極的に身体に触れ、距離を詰めていった。酒の力もあったのかもしれない。
水川は終始、
『飲み過ぎじゃない?』
と心配そうに眉を寄せた。やはり拒絶されることも、応じてもらえることもなかった。
支払いは水川が持ってくれた。また返すねと言ったら、じゃあ今度は奢りな、と笑ってくれた。
予報通り、冷える夜だった。十一月も下旬にさしかかり、もうすっかり秋も深くなっていた。
日曜日の九時前ということもあって、新宿駅構内は人で溢れかえっていた。手を振り合う友達連れも、抱きしめ合っているカップルも、そこら中にいた。
水川は小田急線まで見送りに来てくれた。水川は大崎付近に住んでいるので、山手線だった。もう少し一緒にいたい気も、もうこれ以上失態を重ねたくない気もした。
『じゃあ、また会社でな』
小田急線にも人は多かった。でも、みんな他人には無関心だった。あと、外気が吹き込んできて寒かった。このまま私の思いが通じないまま終わるのが悲しかった。行動しないと変わらないのも分かっていた。
そうして色々な理由をつけて、私は手を振る水川に抱きついた。
『え……?』
水川は狼狽えていたけど、拒絶しなかった。振っていた手は中途半端に揺れて、抱きしめ返すこともなかった。私は水川を見上げてかかとを持ち上げた。
柔らかい、懐かしい感触が唇をおした。久しぶりのキスの相手が水川で心の底から良かったと思えた。
唇を離すと、水川は目を丸くしたまま、口許を隠すようにした。
『じゃあ、また会社でね』
そうして一度も振り返らず、私は改札を抜けた。冷たい空気が妙に心地よかった。心臓が痛いほど鳴っていた。
キスをしてしまったという罪悪感は僅かにあったが、深くは考えていなかった。何より私自身、自分の突飛な行動に驚いていた。まさかあんな往来で自分からキスをしてしまうなんて。
しかし三週間が過ぎたころ、ラインを送ったが返信がもらえず異変に気がついた。思えば、インスタに上げた大学時代の友人との写真にも反応はなかった。職場でも話すことはおろか会うことすらなかった。それまでだったら、部署が違えど、週に一度くらいは顔を会わせることもあったのに。
ようやく避けられていると気づいたときには、手遅れになっていた。
それからの自分の荒れ具合はひどいものだ。水川の尾行、雨宮への八つ当たり、後輩に邪険にされるに至って、こうして元カレとバーで隣り合っている。
「まあ、だから……傷心中って感じ」
話しているうちにラクゥエルを飲み干してしまっていた。酒が悪く回ったのか、呂律は怪しくなっていた。
それまでじっと聞いていた袋井はぼそりと、
「あいつ、水川っていうのか……」
どういう意味か聞き返す間もなく、袋井は笑顔をつくって腰に手を回してきた。タンブラーの中の、形を崩した氷が、カランと音を立てた。
「緋奈、寂しかったんだな」
慰めるようでも、励ますようでもなく、語尾にはどこか嘲笑する気配が感じられた。
「そんなやつじゃなくて、俺にしとけよ。大事にするから」
脇腹に中指がはしる。背中に鳥肌が立った。こいつは躊躇いなく人を馬鹿にする、セックスのことばかり考えているようなやつだった。
冷や水をぶっかけられたような気分になった。もう帰ろう。今日のことは忘れよう。二度と会わないようにしよう。そう決めた。
だが、袋井の手を振りほどこうとした瞬間、視界が歪んだ。まぶたが溶けてしまうほどの眠気に襲われ、頭がぼうっとした。
なに、これ……
声に出したつもりが、喉に力が入らなかった。
「どうしたの、緋奈?」
白々しい声が囁いた。吐息に耳たぶをなぞられるたび、脇腹を撫でられるたび、脇にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
それから意識を失うまで、そう時間はかからなかった。
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