8 前

 目を覚ましたとき、身体を起こすより先に、着衣を確かめた。シャツも、スラックスもジャケットも乱れていない。ブラジャーのホックは外れていない。パンプスは脱がされていたが、それだけで、違和感はどこにもなかった。

 何もなかったのだ。

 安心も束の間、何もされていないことが分かると、わざわざ確認したことが恥ずべきことのように思えた。冬の透き通った夜空には、まるで私を見つめるように、切れかけの電灯が浮かんでいた。

 そのとき、隣に人の気配が近づいてきた。

 私は咄嗟に立ち上がった。パンプスを手に持ち、身をかがめる。ストッキングを履いているとはいえ、十二月も中旬だ。冷たい砂が、身体を芯から冷やした。

「そんな警戒するなよ、助けてやったのに」

 その声に、身体から力が抜けた。雨宮がからかうような笑顔で私を見ていた。ブランコが風で揺れてキーキー錆びた音を立てた。このときようやく、自分が公園にいることに気がついた。

「コート、落ちてるぞ」

 指の示す方を見ると、ベンチの傍らで私のピーコートが砂にまみれていた。どうやらブランケット代わりに寝ていたらしい。固いベンチがマットレスの代わりだったのだろう。

 気がつくと寒さが増した気がして、コートとパンプスを着用した。雨宮は鞄も持ってきてくれた。中にはきちんと護身用のスプレーが入っていた。

「な、意味ないだろ。そんなの」

 雨宮は訳知り顔で言った。

「なんで、私……」

 声がひどく掠れた。喉が痛いくらいに渇いている。雨宮はペットボトルのお茶を渡してくれた。受け取って飲もうとすると、

「睡眠薬は入ってないから安心しろよ」

 と、雨宮は忍び笑いを漏らした。一瞬、意味を掴み損ねたが、すぐに気がついた。

「私……袋井とバーに行って、それで……」

 おぼろげだった記憶が蘇ってくる。赤い革張りのスツール、バーテンダーの低く渋い声、袋井に勧められたラクゥエル、腰を抱く熱っぽい手、吐息、視線、どろどろとした眠気、口端から垂れる涎――そして、カウベルの澄んだ音。

「うっ……ぇおッ」

 思い出すと、突然、胃の奥から突き上げられたような吐き気に襲われた。這いずるようにして、茂みへと顔を突っ込む。冬には似つかわしくない青臭さが鼻腔を撫でた。びちゃびちゃっ、と派手な音がする。胃酸が薫って、鳥肌が立った。

「かッ……は、……ッぇぐ……」

「あーあー……」

 雨宮は背中をさすってくれたが、手のひらが上下するたびに、泣きたくなるほどの屈辱感が去来した。

「……そ、れ……やめて……」

 つっかえながら言うと、雨宮はぱっと手を離し、先ほどのペットボトルを私の傍らに置いて、ベンチに戻った。

 しばらくすると、胃の中は空っぽになり、吐き気も治まった。お茶でうがいして、服に吐瀉物がかかっていないことを確認してから、ベンチに戻った。

「で、なんで雨宮がここにいるの?」

「まずは助けてくれてありがとう、だろ」

「……そうね、ありがとう」

「よし」

 雨宮は手持ち無沙汰にいじっていたスマートフォンをしまった。

「タクシー呼んだから、もう少しで来ると思う」

 と前置きしてから、

「あのバー、俺もたまに行くんだよ。祐天寺でああいうバーはあんまりないからさ。バーテンダーとも仲いいんだ」

「じゃあたまたま?」

「そう、偶然。二次会がカラオケだったんだけど、つまらなくて抜けてきたんだよ。それで気晴らしにバーでも行こうかなって。最近、嫁の機嫌取りで忙しくて行けてなかったし」

 尾行されていたのではないかと疑っていたが、そうではなかったらしい。趣味人の雨宮らしい理由だった。

「それで店に入ろうとしたら、女を抱えて出てくる男がいてさ。酔っ払いの介抱かとも思ったんだけど……まあ、あれだけぐったりしてるんだから違うよな」

 そうだ、あの異常な眠気が酒のせいだったわけがない。きっと薬を飲まされたのだ。ブルーキュラソーのカクテルを頼ませたのは、薬物反応で青くなってもバレないようにするため。考えれば分かることだった。

「それで、さすがに見過ごせないから声をかけた。あいつすげえビビってたよ」

 雨宮はそのときを思い出したのか、喉の奥を鳴らして笑った。もし雨宮が来てくれなかったらと思うとゾッとした。今ごろ、広く柔らかいベッドの上で寝かされて、人生最悪のセックスを更新していたことだろう。

「あいつ、知り合い? あんな小洒落たバーで口説かれるなんて、中々やるな」

 楽しげに言われるのにむっとしたが、助けてもらった手前、態度には出せなかった。でも声にはどうしても不機嫌が滲んでしまった。

「あれ、元カレ」

「え? もしかして……」

「そう、トップオブクソ元カレ。袋井」

「あーあれが……」

 ははっ、と雨宮は声を上げて笑った。

「迂闊だったな。元カレに着いていってどうなるかくらい分かるだろ」

 小馬鹿にするような声だった。ぺこっと軽い音を立てて、持っていたペットボトルが凹んだ。

 雨宮は気づかなかったらしく、好奇心に満ちた声で聞いてきた。

「で? なんであんなバーに着いてったんだよ。それに、薬まで盛られるなんてさ」

 お前に落ち度があったんじゃないか、と揶揄うような口調だった。

 いよいよ私は、自分の傷を見せつけてやりたい気持ちになった。私は被害者なのだと高らかに宣言したくなった。助けてくれた雨宮も責めて立ててやりたくなった。水川のことを引き合いに出してすべてを彼のせいにしたくなった。

 この屈辱を、他の誰かにも分かって欲しかった。


     *


 袋井に連れてこられたのは、祐天寺駅通りを抜けたところにあるビルの、地下に入ったオーセンティックバーだった。重厚なオーク材で作られた扉には、アンティークのサムラッチハンドルが設えられ、はめ込まれた磨りガラスからは淡々しい光が漏れ出ていた。

「どうぞ」

 袋井はコンシェルジュよろしく、恭しくドアを開けた。カラランとカウベルが澄んだ音を立てた。

「いらっしゃいませ」

 低く、渋い声に迎えられた。店内には、洞穴に灯されたランタンの火のような、柔らかい光が溢れていた。私たち以外にも、二組の客が、それぞれ間を開けてカウンターに並んでいた。

「こちらへどうぞ」

 バーテンダーに促され、カウンターの端、赤い革張りのスツールに隣り合って座った。

 職場用の鞄は足下の荷物入れに落とした。この空間で、ビジネスバッグだけがひどく不格好に思えた。まるで童話の世界に源泉徴収票を持ち込んでしまったような不適切さを感じた。

「ここ、いい雰囲気でしょ」

 袋井も荷物入れにブリーフケースを置いて。秘めやかに囁いた。

 正直、悪い気はしなかった。今にもマドモアゼルとでも言い出しそうな袋井も、アンティーク調で統一された内装も、ぱりっとしたベストを着たバーテンダーも、傷心の目にはいっそう鮮やかに映った。

「まあまあね」

 突き放すように言ってみるが、声が弾むのは抑えがたかった。袋井はふっとわざとらしく笑った。

「ここ、カクテルが美味しいんだ。俺のオススメはブルーキュラソーを使ったカクテル。ちょっと度数は高いんだけどさ」

 試すように見つめられ、私は言われるまま、ラクゥエルを頼んだ。袋井はジンバックだった。

「かしこまりました」

 バーテンダーは、器用な指でメジャーカップを扱いながら、シェイカーに酒を入れていった。バーテンダーは時折、話を振ってくれたが、受け答えは袋井がしていた。私は本格的で鮮やかな手つきに見惚れていた。

「俺も、手品出来るんだよ」

 と、嫉妬でもしたのか、袋井がそう言ってきた。披露しようとしていたが断った。袋井が本気で凹んでいたのが、なんだか可笑しかった。

 ものの数分で、ラクゥエルとジンバックが出てきた。それぞれ、逆三角形のカクテルグラスと、六角形のタンブラーに注がれていた。

「ごゆっくりどうぞ」

 それまで滑らかだったバーテンダーの口は、それを最後にピタリと止まった。バーテンダーの背後には酒瓶が整然と並べらんでいる。そのまま彼の几帳面さを表しているように見えた。

「じゃあ、再会に。乾杯」

 カチンとグラスが鳴った。唇を濡らす程度だけ口に含むと、想像よりもまろやかな口当たりで、ケーキのような甘い薫りが鼻を抜けていった。

「どう、美味しい?」

 袋井は自慢げな声で聞いてきた。私は素直に答えた。

「すごい甘くて飲みやすい……」

「でしょ? 良かった、緋奈なら気に入ると思ったんだよね」

 袋井は自分が褒められたような顔で、タンブラーを揺らした。氷が縁に当たってカラカラと音を立てた。

「それで……なにかあったの?」

 優しい顔だった。その大人びた顔に息を詰めた。前回は気づかなかったが、こうして暗がりで見ると、もう大人の男だった。思いが顔に出たのか、袋井は力の抜けた顔で笑った。そんな微妙な変化さえ垢抜けて見えた。

「ここでのことは、今日限りの秘密にするからさ」

 天井から吊られた品のいいペンダントライトが、袋井の表情に影を作っていた。私はぽうっと目の辺りが熱くなるのを感じて、カリン材のカウンターに視線を逃がした。

「……それとも、信用できない?」

 作為を感じる、縋るような声に、はっと顔を上げた。思ったよりも近くに袋井の顔があった。

 私はわざとらしく咳払いをして、ラクゥエルをまた少しだけ飲んだ。アルコールの味がさっきよりも強くなった気がした。

「大したことじゃないんだけどさ……」

 そう切り出した。

「私、好きな人がいるの。同じ職場の、身長が高くて、優しくて、仕事も出来る、頭のいい人。でも彼は私のことを友達としか思っていなくて」

 ちらと袋井の顔を見た。傷ついていないだろうか、と確認だったが、袋井はさっきまでと変わらない表情で私を見つめていた。つまり、大人びた、知らない人の顔だった。

「聞いてるよ、続けて」

「……それで、もう一人の友達に手伝ってもらって、二ヶ月前、初めてデートをしたの。でも、それから、素っ気なくなって……」

 私はまたカクテルグラスに口をつけた。酔いが回ってきたのか、息が切れた。脳みそが少しずつ溶けているように感じた。

「やっぱり私が悪いのかな」

 袋井は続きを促すように、片眉を上げて、ジンバックに口をつけた。私は手元に視線を落としたまま続けた。

「なんか気が急いちゃって。それに、水川も許してくれるんじゃないかって、そうやって甘えて……デートの最後、何の断りもなく、キスしちゃったんだ」

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