一ヶ月前、雨宮の協力を得て、水川とふたりきりで出かけたことがあった。それまでは暗黙の了解として、どちらか片方とだけ遊ぶことはなかったから、初めてだった。

 三人で遊ぶ約束をしておいて、雨宮にはドタキャンしてもらったのだ。雨宮はけっこう乗り気だった。

 でも。

 思えばあの日から、水川は素っ気なくなったような気がする。何か悪いことをしただろうか、と考えるとデートの時のあれこれが頭を巡った。

 新宿でのデートだった。待ち合わせには遅刻した。夜は奢ってもらった。水川の口からは雨宮の話題がよく出た。酒を言い訳にしなだれかかった。

 それから、解散の直前――

 どうして今さらこんなことを思い出すのだろう。

 朦朧とする意識の中、何とかスツールを立つ。バーテンダーは私に気づいておらず、他の客と話しているようだった。控えめな笑い声が聞こえた。ふらつく足は言うことを聞いてくれない。鞄、鞄の中にあるスプレーは、こういうときのために。

 そんな意地張った――ないでさあ……

 嘲笑の気配を含んだ声が聞こえる。声が淀んで聞こえる。身体も水中をかき分けているように重たい。

 はなして

 声が出なかった。グラスを倒せば気づいてもらえるだろうとカウンターに手を伸ばすが、その手を取られ、腹の辺りに手を添えられた。きっと周りからは酔っ払いを介抱しているように見えるだろう。

 こいつは身長も低く、力も弱いくせに、今の私はそれよりも無力だ。

 やめて

 そう言ったはずなのに、舌が上手く回らなかった。涎が口端から垂れていくのが分かった。怖いとは思わなかった。不快だと思った。きっと恐怖を理解できるほど、私の頭は回っていない。

 だが、恐怖を解せない頭でも、走馬灯のように、水川のことは鮮明に思い出せた。

 酔ったときのいつもより明るい声。照れたときの口許を抑えて片目を細める癖。線の細い横顔の輪郭線。

 そうだ。さっきこいつに話したから、水川のことばかり思い出すのだ。

 ああ、大丈夫です……は――が……

 たぶん、バーテンダーが気づいてくれたのだろう。でも、声がどんどん遠のいていく。身体はほとんど動かない。指一本動かすのだってだるい。これじゃあ、スプレーがあっても、どうにもならない。

 重たい頭をなんとか持ち上げて、私を運ぼうとする男の顔を仰ぎ見る。歪む視界でも唇が歪んでいるのが分かった。

 じゃあ、ホテルに行こうな

 耳元で囁かれて、総毛だった。ようやく恐怖が追いついた。

 はなして、やめて

 でも声は出ない。体もまったく動かない。きたねぇ、とハンカチで涎を拭われた。どうしてこんなことになったのだろう。誰かのせいにしたくなって、水川の顔が真っ先に思い浮かんだ。

 そうだ、水川のせいでこうなったんだ。水川が急に素っ気なくするから、私は私を粗末に扱うことになって、それで――

 八つ当たりはそこで、意識と共に途絶えた。

 最後に聞こえたのはカウベルの澄んだ音だった。


     *


 飲み会が終わるころには、もうすっかり夜も更けていた。二次会に行く人を募っていたが、その輪には加わらず、へべれけになった後輩を祐天寺駅まで送っていった。

「先輩。雨宮さんと仲いいんですね」

 わずか十分ほどの道のりだったが、後輩はしきりにそう言った。どこか含みのある口調に引っかかったが、曖昧に笑って誤魔化した。どう答えたって角が立つような気がした。

「今日は助けてくれてありがとうございました」

 改札の前で、後輩は振り返った。

「ああいう場でベタベタ触られるのきつかったんで、本当に助かりました」

「気にしなくていいよ、ああいうのって……」

 困るよね、と言いかけたところを、笑顔のまま遮られた。

「でも、あれ狙ってやってたことなんで。正直、お節介ですよ。私、佐々木さん狙ってたのに。これで嫌われたら先輩のせいですからね」

「え?」

 後輩は笑顔だったが、目には私への敵意があった。さっきの居酒屋で向けられていた目とまったく同じだった。

「佐々木さんって上からも気に入られてるし、そこそこ仕事もできるんです。だから今日落としてやろうって思ったのに……」

 先ほどの男性社員(佐々木というらしい)を思いだす。仕事が出来るイメージも、上から気に入られてるイメージもなかった。あまり興味がなくて見ていなかった。

「でも、嫌がってたじゃない」

「そりゃあ、あんな大人数の前でベタベタされたら、周りからどう見られるか分からないじゃないですか」

 私は言葉を返せなかった。私はこの子の恋路を邪魔したのだろうか。

「まあ、別にこんな程度で嫌われたりしないんですけどね」

 後輩は形のいい唇を歪めて、ふっと溜め息をついた。

「先輩は雨宮さんと……なんですっけ、営業の……水川さん! 水川さんがいるからいいのかもしれないですけど、邪魔するのはなしじゃないですか?」

「あの二人とはそんな関係じゃ……」

 後輩は煩うように首を振った。

「ああ、いいですいいです。今さらそういうのやめましょうよ」

「本当だって」

「あーそうなんですね」

 後輩は、これ以上言っても無駄だろうという態度で、電光掲示板を見上げた。あと数分で電車が来る。

「とにかく、もう邪魔しないでくださいね。別に先輩がどんな男と何やってても関わらないんで、私にも関わってこないでください」

「私はただ……」

「助けたかっただけって言いたいんですよね。でも、そういうのって――」

 後輩はそこで言葉を切った。哀れむような目をしていた。どうしてそんな目を向けられるのか分からなかった。

 そして、その先の言葉も分からなかった。

「――ま、いいです。時間もないんで。じゃあ今日はありがとうございました!」

 後輩は晴れやかな笑顔で改札を通っていった。

 私はしばらくその場を動けなかった。

 私がやったことは無意味だった。それどころか有害だった。雨宮の言っていることこそ正しかったのだ。あの子はわざと、勘違いされるためにベタベタしていた。人前で腰を抱かれるのは嫌だけど、行為自体を嫌がっていたわけではなかった。狙っていたことだ。私はそれを邪魔してしまった。あれは、動物の交尾だった。見物人になっていたらよかったのだ。

 鼻が殴られたようにつんと痛んだ。肺から熱っぽい息がせり上がってくるのを感じる。きっとこれは酔いのせいじゃない。

 このまま立ち尽くしていたらいよいよ泣いてしまいそうで、改札に背を向けた。

 そのとき。

「緋奈!」

 低い男の声が聞こえた。私を名前で呼ぶ男に、心当たりは一人しかいなかった。

 声の方に顔を向けると、袋井が立っていた。仕事帰りなのかコートの襟からはネクタイが見えた。

「な、んで、ここに……」

「その、前のこと謝りたくてさ」

 袋井はスマートフォンを取りだした。インスタを表示して見せてくる。さっきの私の投稿だった。

「ストーカーみたいで、あんまり良くないとは思ったんだけど……」

 それで事情は飲み込めた。あの店の皿には店名が彫られていた。袋井はそれを頼りに会いに来たのだ。私が大学二年生から豪徳寺に住み続けていることをこの男は知っている。駅にいたら現れると見越したのだろう。

「気持ちわる……」

 思わず本音が漏れた。家に来られなかっただけマシという程度だ。

 袋井は力なく笑った。

「まあ……そうだよな。今さらどの面下げてって感じかもしれないけど、前のことちゃんと謝りたくて……」

 袋井はその場でいきなり頭を下げた。

「本当にごめん」

 通行人に怪訝な顔を向けられる。私はすぐに頭を上げさせた。

「許してくれる?」

 捨てられた犬のような哀れがましい目、悲しげに歪んだ唇、怯えるようにふるえた声。相変わらず卑怯な表情だ。

「許さない、絶対」

 私は睨み付けるようにして、そう言った。

 でも口調はどこか白々しく、甘えたようになってしまった。後輩からも打ちのめされて参っていたのかもしれない。自分を粗末に扱いたくなったのかもしれない。

 袋井は頬を緩めた。

「じゃあ、どうしたら許してくれる?」

「嫌なこと、ぜんぶ忘れさせてくれたら」

 できるの、という風に袋井を見る。今日はヒールを履いているから私の方が目線が高い。つい見下げるようになってしまう。袋井はそれでも鷹揚に微笑んだ。

「もちろん」

 ごく自然に、手を取られる。つながれた手は温かく、かじかんだ指先を溶かしてくれるようだった。

 ふと、雨宮の言葉を思い出した。

 ――お前そういうところは器用なんだからさあ。

 聞いたときも思ったが、雨宮は私を買い被りすぎだ。私はぜんぜん器用なんかじゃない。友人を好きになって空回りして、後輩の味方をしようとして失敗して、傷ついたから元カレからの誘いを受けてしまうような、愚か者だ。

「いいバーがあるんだよね。話、聞かせてよ」

 袋井に手を引かれて東口を出た。植え込みを囲むように通されたロータリーには、送迎の車が多く停まっていた。テールランプとハザードが煌めいて見えた。酒が回ったのか、足下がふわふわと覚束なかった。

「明日も早いの?」

「だったらなに?」

「いや、このまま夜が明けなければ、ずっと緋奈といられるのにって思っただけ」

 やはり酔っているのだろう。歯の浮くような台詞すら不快には思わなかった。私は手を握ったまま、

「そういうの、店で言った方が格好つくよ。下手くそ」

 おどけて舌を出してやると、袋井は目を細めた。付き合っていたときよりもよほど恋人らしい会話をできているのが、自分でも不思議だった。

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