6 後

 私のところまで小走りでやって来て、さっきはありがとうございます、あの人ベタベタしてきて困ってたんですよ、と耳打ちして、今度は女性社員の集まる座卓にいった。吐息からは、かすかに煙草のにおいがした。

「よかったな。桔梗のおかげで助かったってよ」

 雨宮は後輩が去るのを待ってから、当てつけるように言った。私も言い返す。

「ほら、やっぱりあの子は嫌がってたし、断れなかったんだよ」

 つい勝ち誇った口調になってしまう。

 雨宮は、はいはい、と取り合わず、また溜め息をついた。

「そんなにカリカリするくらいなら、水川のこと話せよ。少しは楽になるだろ」

「別にカリカリなんて……」

「してるよ」

 強い語気で被せられて、ぐっと言葉に詰まった。雨宮は赤ら顔だったが、確かな瞳で私を見ていた。

「普段だったら俺には当たらないし、後輩のことももう少し上手くやっただろ。お前そういうところは器用なんだからさあ」

「……さっきの言い方に腹が立ったのは本当」

 でも、雨宮の言うことも正しい。今の私は、自分で思っているよりも余裕がない。

 雨宮はふっと息を吐いた。

「で、水川と何があった?」

 私はどこから話すべきだろうかと迷って、首を巡らせた。

「実はさ……」

 声を潜めて話しかけたところで、視線に気がついた。先ほどの男性社員だけではなく、女性社員にも睨まれている気がする。さっきの後輩ですら厳しい視線を向けていた。ふと雨宮の結婚指輪が目についた。

「……なんで水川来なかったんだろう」

「そりゃあ、部署が違うからだろ」

「そうじゃなくて」

 私はテーブルの上の残り物をさらった。サラダはドレッシングを吸い過ぎてふにゃふにゃになっていた。唐揚げはベタ付いていて、箸で持ち上げると油が二、三滴おちた。皿に彫られた文字に流れていく。

 皿を重ねて置いてから、そっと雨宮に顔を近づけた。

「雨宮と二人でいると睨まれるんだよね」

「あ? ああ……まあ既婚者だからな」

 雨宮は女性社員の方を見て納得したように頷き、それから身体を離した。

「分かってるならあんまり近寄るなよ」

「え、ごめん」

「いや。俺はいいけどさ……」

 雨宮は後輩の方に視線をやって、

「勘違いされるぞ」

 と冗談めかした。

 言葉を返す前に、店員が頼んだものをもってきた。私は熱燗を受け取り、すぐに飲んだ。キリッとした辛みと熱が、全身に行き渡るようだった。空いた皿も下げてもらって、新しく来たおつまみを置いた。

「水川と勘違いされたかったか?」

 雨宮はさっそくハムカツにかぶりついた。衣がバラバラと皿に散らばった。唇が油でテカっている。大きな子どもを見ているような気分になって私は目を逸らした。

「まあ雨宮よりは」

「はは、失礼」

 雨宮は箸を置いて、おしぼりで口を拭った。どうしたらそんなに汚れるのか分からないほど、雨宮のおしぼりはしみだらけだった。

「もう少し綺麗に食べなよ」

 うっかり小言が出てしまう。雨宮は目をそらして、まあな、と曖昧に笑った。

「でも、勘違いされるのは俺もいただけないわ。嫁がまた気ぃ悪くする」

「そういえば、トップオブクソ元カノはどうなったの?」

「ああ、それは解決した」

 雨宮はふだん煙草の灰を落とすときのように、机を人差し指でトントンと叩いた。あいにく座敷は禁煙だった。

「二度と近づかないよう警告文を送って、連絡先も消した。たぶんもう大丈夫」

「本当かなあ」

 そんな程度で近づかなくなるなら、そもそもストーカー紛いなことはしないのではないか。

 だが雨宮は首を振った。

「きっぱり断ると、意外と効くもんだよ。面と向かって近づくなって言われたら、たとえ相手が他人でも少しは気になるだろ。元カレから言われたらよっぽどだ」

 一理あった。

「私も、元カレに言っておこうかな」

「ああ、トップオブクソ元カレ? 袋井だっけ。なにかあったの」

「名前、よく覚えてるね。実は――」

 私は袋井からインスタでメッセージが来たことや、北新宿で再会したことをかいつまんで話した。

 雨宮はときどき相づちを打つだけで、ほとんど黙って聞いていた。

「――っていうことで、まだメッセージが来てる」

 話ながら、熱燗はほとんどなくなっていた。雨宮はハムカツの残りを口に押し込んだ。今度は衣が落ちることもなかった。

「それは、会わない方がいいかもな」

「当然」

「ラインは? ブロックしてる?」

「それも当然」

「じゃあ大丈夫か」

 インスタもブロックしておくべきか迷ったが、自意識過剰のように思えてやめた。

 スマホを取りだしたついでに、テーブルの上の揚げ物を撮っておく。不在を埋めるかのように、今日も水川の好きなものばかりが並んでいた。こんな店ではなく、また三人で、〈かがりび〉で、飲みたいと思った。

「また水川に送るの?」

「迷い中。うざいかな」

「気にしすぎじゃね? 今はただの友達なんだし」

 友達、という言葉に思わず視線が落ちた。

「……向こうはどう思ってるんだろう」

 思ったよりも酔いが回っているようで、そんな言葉が出た。

「どうって?」

「映画について行ったじゃん」

「尾行したんだけどな。ストーカーともいう」

「雨宮が焚きつけたくせに」

 私はその肩を軽く殴った。雨宮は、うはは、と骨を揺らすように笑った。私は続けた。

「そのとき女の子と水川を見つけてさ」

「へえ」

 雨宮は身を乗り出すようにした。

「たぶん昼食をどうするか話してたと思うんだけど。近くにバーキンがあるからそこに行こうって」

「バーガーキングな。俺が教えた」

「うん、水川もなんで知ってるのか聞かれてそう答えてた」

「それで?」

 私は熱燗の残りを飲んだ。

「水川が同僚から聞いたんだって答えたら、女の子が『女友達はいるの』って聞いてて……」

 そこで言葉に詰まると、予測がついたのか雨宮は続きを引き取った。

「水川は答えなかった?」

「答えたけど、即答じゃなかったし。それに、凄く引っかかる言い方だった」

 今でも思い出せる。

 ――女友達はいるの?

 ――なんで急に

 ――京ちゃんモテそうだから、一応ね。一応

 ――いるにはいるけど……

「それは気になるな」

 雨宮は頷いた。

「『けど、もう仲良くない』なら凶。『けど、友達じゃなくなりたい』なら吉。でも普通に考えたら、自分の彼女に後者はない」

「やっぱり彼女なのかなあ。そりゃあそうだよなあ」

 二人はぴったりと腕を組んで映画館に入っていったのだ。

「もう、嫌われたのかなあ」

 私は徳利を置き、行儀が悪いとは思いつつ、テーブルに肘をついてもたれかかった。わずかに触れた木のテーブルは、冬の空気を吸い込んでひんやりしていた。雨宮が店員に水を頼んでくれた。

「……もし嫌われてたとして」

 雨宮は少しだけ言葉を探すような間を空けた。

「諦めるのか? 原因は何かとか知りたくない?」

 雨宮は適当に慰めたりしない。こうしたきっぱりしたところがモテるのだろうと思った。今も女子社員から忍ぶような視線を受けている。

「知りたいけど……怖いな」

「弱気だな。めずらしい」

 水が運ばれてきた。私は礼を言って受け取り、口をつけた。細かい氷が一緒に流れ込んでくる。ガリガリと噛み砕いていくたび、頭が冷えていく。

「……でも、どうせなら当たって砕ければいっか」

「そのときは、まあ、慰めてやるよ」

 雨宮はそう笑うと、「もう限界」とライターを弄びながら席を立った。

 その間にインスタのストーリーに今日の写真を投稿した。ハッシュタグには無難に流行りの言葉と、店名、祐天寺と入れておく。大学時代の友人からすぐにいいねがつけられた。水川に見せつけるつもりだったが、

「やっぱりダメか」

 水川は数日前からオフラインのようだった。

 唐揚げを取って、皿の店名を隠すように添えられたマヨネーズをたっぷりとつけた。ギトギトの油と肉汁が口内に広がった。これも自分を粗末にする一環なのかもしれない。

 少し前まではこんなことで一喜一憂しなかった。いつから私たちは変わってしまったのだろう。

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