6 前
週明け、私は部署の飲み会に参加していた。店は祐天寺にある小洒落た居酒屋だった。会社が代官山にあるのでアクセスが良かった。
店の軒には赤提灯がぶら下がり、門塀から入り口までに飛び石が配置されていた。日本風の外観は気に入ったが、始まってすぐ来なければ良かったと後悔した。
もともと不参加のつもりだったが、上司に「これも仕事だから」と押し切られた。水川がいたらもう少し、と考えたが、同じくらい、いたら何が何でも参加しなかっただろうとも思った。
乾杯が終わった座敷はすぐに上座も下座もなく入り乱れた。私を誘った上司は赤ら顔で誰彼となく絡んでは眉をひそめられていた。私は目をつけられないよう、座卓の端でひとりウィスキーを飲んでいた。つまらない時間だった。
さっきまで後輩がひとりいたが、いつもに増して無口な私に気が滅入ったのか、それとも目当ての先輩にアピールでもしにいったのか、何も言わず離れていった。
こっそり帰ってもバレなさそうだと、財布から金を出そうとしていると、
「連絡くらい返せよな」
雨宮が何の断りもなく、私の隣にどっかりと腰を下ろしてきた。その拍子に雨宮のビールが私のジャケットに跳ねた。横目で睨むが、雨宮はどこ吹く風というふうで取り合わなかった。
「まだ帰るなよ、これも仕事だ。後輩が真似していいのか?」
言われて、浮かしかけた腰を戻す。盛り上がっているほうに目を遣ると、後輩は壮年の男性社員数人に囲まれて、唇をとがらせたり、頬を膨らませたり、ときどき肩を小突かれたりしながら、上手く溶け込んでいた。
私はおとなしく財布をしまった。
雨宮は鼻を鳴らして、「いい子」と子ども扱いするような口調で言った。
「で、どうだったんだよ? 水川のこと、尾けたんだろ」
「どうもこうも……」
テーブルに並んだサラダを取り分けながら、どう話を逸らすべきか考える。元カレとの再会。水川への疑念。どちらも話したいことではない。
サラダを雨宮に渡しながら、
「あれってどう思う?」
「あれって?」
後輩に悪いとは思いつつ指で示した。
後輩は今やひとりの男性と寄り添うようにぴったりとくっついていた。青椒肉絲の大皿を中心に、他の男性社員とも顔を寄せ合って、何事かを話している。妙に真面目な表情だったのが滑稽だった。
「まあ時代錯誤ではあるわな」
雨宮は興味なさそうにジョッキに口をつけた。
「でもいいんじゃね? ああやって上に気に入られるのだって仕事のやり方のひとつだし。なに、桔梗は気に入らないの?」
嫉妬してるの、と問い返されたような気になってむっとした。確かに後輩は私よりも若いし可愛いけど。でも、
「そういうことじゃない」
「じゃあなんだよ」
雨宮はまた鼻を鳴らした。
「見ていて不快か?」
「大きく言えばそう」
「なんで?」
「……見たくもない動物の交尾を見させられてる気分になるから」
言い得て妙だわ、と雨宮は満足そうに笑った。
でも本当にそれだけだろうか、とも思った。これは、もっと根本的な不快感ではないのか。喩えるなら動物の交尾ではなくて、虐殺や差別やいじめや、そういうもっと薄暗い行為を目撃したときのような……
そのとき、どっと盛り上がった笑いが起こった。後輩は大きく口を開けて、のけ反っている。寄り集まった男性社員は、口だけで笑いながら、後輩の唇をじっと見つめていた。口内を覗いているようにも見えて肌が粟立った。
「うわあ、すげえ。こりゃあお持ち帰りコースだな」
見ていたらしく、雨宮がそう言って笑った。よく見ると、寄り添っている男性社員の手は、後輩の腰に回されていた。
そして後輩はその大きな手から逃れるように、腰を反らしていた。
少なくとも私にはそう見えた。
「若いねえ」
楽しげに歪んだ雨宮の瞳が気に入らなかった。あれを動物の交尾に喩えるなら、雨宮はただの見物人だ。でも、差別だとしたら。雨宮は傍観者だ。共犯者と言い換えられるかもしれない。
そして私も――
耐えられなくなって席を立った。どうした、と怪訝な雨宮の声を無視してテーブルに近づいていく。
「あ、先輩」
後輩が真っ先に気づいて、私を見上げて笑った。鼻頭まで赤くなっていて、瞳は潤んでいた。
「ちょっと飲み過ぎじゃない?」
私は笑顔をつくったまま、後輩の隣に腰を下ろす。急に輪に入ってきたことに驚いたのか、みんな目を丸くしていた。
「この子、そこまでお酒強くないのであんまり飲ませないでくださいね」
先輩社員ばかりだったが、釘を刺しておいた。わはは桔梗さんは手厳しいな、と一番の年長者が冗談めかして笑った。
愛想笑いで牽制して、後輩の腰に目を遣った。後輩は視線に気づいたのか、眉をひそめて頷いた。やはり。声をかけて良かった。
私はやんわりとその手をどかした。
「それに、あんまり女性にベタベタするものじゃないですよ。これも仕事の一環なんですから」
と笑いかける。一年先輩のその男は半笑いで、何を言われたのか分からないという顔をしたが、後輩の目を見ると、ぱっと手を離した。
「あーごめんごめん。つい。ね」
後輩は眉をひそめたまま笑って、外の空気吸ってきます、と席を立った。男は気まずそうに視線を流して、嫌なら言ってくれたら良かったのに、と呟いた。
私はもう何も言わず席に戻った。背中からひそひそ声が聞こえてきたが、何を言われているのかは分からなかった。
「おつかれ。まあ落ち着けよ」
雨宮は苦笑いしていた。ロックグラスに口をつけ、琥珀色の液体を一気に飲み干した。唇に氷が当たってひりひりと痛んだ。
「落ち着いてるけど」
「うそつけ。そんなに不快だったか?」
「あの子が嫌がってるのが遠目でも分かっただけ」
「そうだったか……?」
雨宮は首をかしげた。その手からビールを奪い取って流し込む。胃まで一直線に麦芽のにおいが落ちていく。店員を呼び止めて、追加のおつまみと熱燗も頼んだ。お冷やもお持ちしますか、と店員が気を利かせてくれたが断った。
「飲み過ぎるなよ?」
去っていく店員の背中を見送って、雨宮は口を開いた。
「お前の勘違いじゃないことを祈るわ。さっきのやつ」
「なにが」
「後輩のこと」
「どういう意味?」
「いや、あそこにいるのみんな先輩だから。波風立てるのもさあ。分かるだろ」
雨宮はジョッキを傾けて、中身がないことに気づき、水に変えた。溜め息が聞こえる。
「女の味方はいいけど、あんまり首突っ込みすぎるなよ」
「なに、女の味方って」
「桔梗はそうだろ」
「じゃあ雨宮は女の敵だね」
雨宮は目を逸らした。後輩はなかなか戻ってこなかった。私はスマホを取りだして、『きつかったら帰ってもいいからね』後輩にそうラインを送っておいた。既読はすぐについたが返信はなかった。
「あの子、帰るかも」
「まあ、居づらいかもな」
「悪いことしたかな」
そうだとしたらやり方を間違えたかもしれない。雨宮は甘やかすようなことは言わなかった。
「そんな顔をするなら、初めから関わるなよ」
「でも、見捨てられないでしょ」
「あんなのただのスキンシップだっただろ」
そうなのかもしれない。でも、そうじゃなかったかもしれない。
「男の怖さは男には分からないよ」
「女の怖さも女には分からないように?」
こういう問い返しが嫌いだった。顔に出てしまったのだろう。雨宮は大きくため息をついた。
「俺たち全員、大人だぞ。そんなことまで桔梗がやってやる義理はないだろ。嫌なら本人が自分で断ればいい」
さっきの男性社員の言葉が蘇った。嫌なら言ってくれたら良かったのに――
「そういうの、嫌い」
つい語気が強くなる。雨宮はさっきまで緩んでいた口許を引き締め、続きを促すように首をかしげた。
「断れなかったんだよ。男性とか女性とか関係なく、先輩だし、そもそもこういう場だし。雰囲気もあるじゃん。それなのに断らない方に問題があるって言い方は嫌い」
雨宮は咀嚼するように何度か頷いて、
「でも、心配の連絡に返信しないような後輩、庇う必要あるのか?」
「それは……」
つい言葉に詰まった。雨宮はまくしたてるように言った。
「それに俺に言わせれば、あれだけ距離の近い後輩の方にも問題がある。勘違いされてもしょうがないだろ。多少は接触くらいされる」
「しょうがなくない。大人なんだから、自制心は持つべきでしょ」
「それは後輩もだな。あいつだってベタベタしてたし。勘違いの種だ」
「勘違いされるようなやつが悪いって? そういう発想が……」
嫌い、と言いかけたところで後輩が戻ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます