翌週の土曜日、私はなるべく地味な服を選んだ。メイクも最小限にして、長い髪は一つにくくった。普段からメイクを頑張っていて良かった。これで、ぱっと見は私だと分からないだろう。

 鞄にはスマートフォンと財布、いざというときのサングラスとマスクを入れた。盗聴器でも用意しようかと頭によぎったが、さすがに一線を越えているのでやめた。

 私はキャップを目深に被って家を出た。

 雨宮も女の子のことは知らなかった。インスタをやっていないから、当然といえば当然だ。写真を見せると力なく首を振った。

「水川もこんな風に笑うんだな。あんまりイメージなかったわ」

「水川、結構笑うよ。先月も出かけたとき笑ってたし。雨宮はあんまり見ないんだ」

 強がってみるが、正直、私も同じ感想を抱いた。この写真の水川と普段の水川と、笑顔の質が違う。写真の水川は心から楽しげで、どこか甘やかだった。それこそ、本当に親しい人にだけ見せるような――

「言ってて虚しくならない?」

「うるさい」

 今さらの話だ。ずっと私ばっかり一人相撲をしている。

「まあでも……そういうことなんじゃねえの。避けられてたのも、女のプレゼントも」

「水川からは? 何にも聞いてないの?」

 雨宮は私の目をじっと見つめていた。

「ああ……なにも――」

「また嘘つく気?」

 思ったよりも低い声になってしまう。雨宮はお手上げだというジェスチャーをした。

「その女の子については知らないけど、昨日、『女が喜ぶデートってどういうのがある?』って聞かれた。無難に水族館とか映画とか、そういうのを勧めた」

 つまりこの女の子とまたデートに行く約束があるということだ。

「その先は?」

 会社の休憩中だった。雨宮と二人で話しているせいか、妙に視線を集めていた。水川は外回りに出ていていなかった。

 雨宮は席を立ち、私を給湯室まで誘った。

「別に気にしないけど」

「俺が気にするんだよ。ほら、男は女と話しててもグチグチ言われないけど、女は違うだろ。いつも誰かの悪口で盛り上がってる。桔梗が言われてるのも聞いたことある」

「言わせておけばいいよ。そんなの」

 気遣いはありがたいが、どうにも軽んじられている気がしてならない。それに、休憩時間はそこまで長くない。

「それより、水川はなんて?」

「たぶん映画に惹かれたんだと思う。上映中のおすすめ映画を聞かれたから、一番有名なやつを教えといた。恋愛系だな」

「それって……」

「『千リットルの花束』ってやつだけど」

 頭を殴られたようだった。その映画は先月一緒に出かけたとき、今度一緒に見ようと約束していたものだ。確かに口約束だったけど。でも!

「……他には?」

「あとは……映画館は昼時に行った方がいいって教えた。空いてるからな。映画館のあとに行く場所も迷ってたみたいだから、それもいくつか教えた。……デートスポット、俺がほとんど考えてるな」

「もうない?」

「職質みたいなのやめろよ。本当に終わり。これだけだよ」

 雨宮は肩を落とした。

「もういい? そろそろ休憩も終わるし……」

「うん、ごめん。ありがとう」

 礼を言うと、雨宮はふっと頬をほころばせた。

「あとでどの映画館を教えたか、ラインしとく。その場でチケット予約取ってたから、日時も。こういうのあんまり良くないんだけど……今のお前、見てらんないわ。少し休め」

 雨宮は給湯室を出て行った。

 私はトイレに入って、鏡を見た。確かにひどい顔をしていた。ここ二、三日まともに眠れていなかった。

 会社でも水川とは会えていない。彼は何も知らないのだ。自分の連絡ひとつでひとりの人間の精神状態を悪化させていることも、自分の態度ひとつでひとりの人間が救われることも。

 この顔を、水川に見せつけてやりたい気がした。


 電車を乗り継ぎ、十一時には映画館についた。新宿のトーホーシネマズだった。休日ということもあって賑わっていた。中には椅子がなく、仕方なく壁により掛かった。カップルの姿が多く、水川に似た男も大勢いた。つまり、小洒落ていて、背が高くて、優しそうな顔立ちの男だ。

 雨宮からのラインを見返す。水川はどうやら、十一時半からの枠で見るらしい。ここで待っていたら早晩、姿を見ることができるだろう。

 尾行をすることに罪悪感がないわけじゃなかった。でも先月は一緒に出かけたのに、いきなり避けられて、しかも原因が女かもしれないとなっては、確かめたくもなる。それに、この映画はもともと私と一緒に見る約束をしていたのだ。それなのに……

 と、そこで、水川を見つけた。売店で注文をしていた。その隣には写真で見た女の子がいた。緑色のニットにジーパンというラフな格好だ。メイクは薄く、アイラインが引かれているくらいしか、傍目には分からなかった。

 何を話しているのかは聞こえない。だが二人とも受け取り口の近くで、店員がポップコーンをかき混ぜているのを見ながら、笑顔だった。

 私はサングラスとマスクをつけて、注文に迷っているふりをしながら二人に近づいた。

「……は、京ちゃんが好きな方でいいよ」

 京ちゃんは水川のことだ。水川京介だから京ちゃん。安直でいいあだ名だ。

「じゃあハンバーガー」

「いいね。マック?」

「バーキンはどう」

「あー、バーガーキング? 食べたことないんだよね」

「じゃあちょうどいいじゃん。行こうよ」

「この辺にあるの?」

「うん、駅の方にあるって」

「詳しいね、さすが」

「会社の同僚に教えてもらったんだ」

「へー、男?」

「男だよ」

「女友達はいるの?」

 どきりとする。

「なんで急に」

「京ちゃんモテそうだから、一応ね。一応」

「いるにはいるけど……」

「けど?……あ、すみません」

 そこで、女の子が後ろに立つ私に気がついた。水川ともサングラス越しに目が合う。でも私だと気づかなかったようだ。私は会釈して注文カウンターに並んだ。炭酸は苦手だったが、コーラを頼んだ。その場で受け取って壁際に戻る。

 それから映画の上映時間まで、二人は、自分たちの世界に入って話し続けていた。もう内容は聞こえなかったが、水川の顔からも、女の子の顔からも、笑顔が絶えることはなかった。

 それから二十分後、腕を組んだ二人がシアターに消えていくのを見て、私は映画館を出た。半分以上残ったコーラはそのままゴミ箱に捨てた。

 新宿駅に向かいながらサングラスとマスクを取る。まだ十二時前で往来には人が多かった。目の前がかすんで足下がふらついた。すんでのところでぶつからずに済んだが、嫌な顔で舌打ちをされた。

 こんなことなら、尾行なんてしなければよかった。家で大人しくしていたらよかった。女友達がいるかと聞かれたとき、どうして即答しなかったのだろう。女の子の気を損ねるからだろうか。それとも、私はもう、水川の――

 私はインスタをひらいて、一週間放置した袋井からのメッセージを確認した。


 〉逃げないでよ

 〉無視するから悪いんじゃん

 〉怒ってんの?笑

 〉だる、もういいわ

 

 〉また間違えた。ごめん

 〉スマホ取るとか最低だよな。謝りたい

 〉ごめんなさい

 

 〉返事欲しい

 

 〉無視されてもいいから謝るよ。ごめん

 

 〉許してとかは言わないけど、でも信じて欲しい

 〉俺は本気でひなのこと好きだから

 〉連絡欲しい


 二日前までは毎日メッセージを送ってきていたらしい。元カレに会いたがる人間の気持ちが分かる気がした。寂しさを埋めるためではない。みんな自分を粗末に扱いたい気持ちになって、元カレと会ってしまうのだ。

 私はインスタを閉じて小田原線から帰りの電車に乗った。家に着くと着替えることもなくベッドに倒れ込んだ。涙は次から次へと溢れてきた。


 〉上手くいったか?


 雨宮からそう連絡をもらったが、返すことも出来なかった。

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