4 後
ここまで話すと、大抵の女友達は憤慨した。
「なにそいつ。何様って感じじゃん」
「大してモテなくて、お情けで付き合ってもらってるくせに、勘違い野郎だね」
「カスじゃん、クソ。ゴミ」
「緋奈、よく付き合ってられたね。あたしだったら無理だわ」
みんな自分事のように言葉を荒くしては、袋井を口汚く罵った。そして段々、いかに上手く袋井を貶せるかの大会に変わる。
男友達だと、男というところで引け目でもあるのか、もう少しトーンが落ちるが、やはり同じ反応をもらえた。雨宮も水川も、「パンチの効いた彼氏」とか「礼儀のなってない子ども」とか「ダメ彼氏の見本市」と形容した。
そうして、ひとしきり袋井をこき下ろすと、男女ともに続きを促してくる。
「で? なんで別れられなかったの?」
ルミネを出て、千駄ヶ谷まで移動しようとしたところで、袋井がそんな気分じゃないと言い出した。
「イタリアンとか堅苦しいんだよな。記念日で気遣ってくれてるのはありがたいけど、そんな無理せず、等身大でいこうぜ」
この「等身大でいこう」というのが、当時の彼のお気に入りの言葉だった。身長の低い袋井が言うと自虐に聞こえた。私は溜め息を堪えるのに必死だった。
「もう予約取ってあるんだけど」
少し語気を強めても、袋井は気づかなかった。
「電話して断ったらいいじゃん」
「最初にちゃんと確認したよね」
「したけど、あんまり見てなかったんだよ」
「何回も確認したんだけど」
「あーあー、それは悪かったね」
どんどん袋井が苛立ってきているのが分かった。
「電話するのだって私だし」
「は? 別に頼まれたらやるけど」
「そういう意味じゃない」
袋井は握っていた手を離し、だらりと下げた。往来で、傷ついた顔を隠しもせず立ち止まった。
「……俺、記念日に喧嘩したくないんだけど」
私は袋井の手を引っ張って、近くのスターバックスに入った。昼時だからか人は多かった。
席に着くなり言った。
「もう、別れよう」
一瞬、周りの音が消えた。袋井は、飼っているヨークシャテリアが実はヒメコンドルだったんだよと言われたような顔をした。
「えっ、は、なんで?」
「言わないと分からないの?」
悪いとは思いつつ、あまりの察しの悪さに、鼻で笑ってしまった。
「分かんないよ!」
袋井は音を立てて立ち上がった。視線が集まった。袋井はそのままの体勢で続けた。
「俺なんか悪いことした? 今日だってちゃんとエスコートしてたじゃん。車道側歩いたし、帽子だって買ってあげたし、荷物だって持ってるのに」
そんな情けないことを大声で言わないで欲しかった。
車道側を歩くと言って聞かないから歩いてもらっただけ。買ってあげると譲らないから買ってもらっただけ。荷物を持つというから持ってもらっただけ。恩に着せるなら、初めからやらないでほしかった。
私は言いたいことをすべて飲み込んで、無言のまま睨み付けた。袋井は集まっている視線に気づいたのか、大人しく座った。
「俺、緋奈がいなくなったらダメなんだよ。もう絶対彼女もできないし、緋奈が最後だって分かってるから」
袋井は静かな声で泣いていた。隣に座るカップルが笑い合っているのが横目に見えた。
「悪いところがあるなら直すから、別れるなんて言わないでよ」
「どうせ直せないよ」
「なんで……? なんでそういうこと言うの?」
押し問答をしても無駄だと思い、私はいくつか挙げた。
「他人をいちいち評価するのをやめて。すぐに嘘だと分かる言い訳をしないで。誘いを断ったとき不機嫌にならないで」
袋井はあからさまに傷ついた顔をした。同情を買うような、こちらを責め立てるような、卑怯な表情だった。
唇を震わせて、袋井は言った。
「それをやめたら、緋奈は別れないでくれるの?」
非情になりきれなかった私にも責任はあった。いたたまれなくなって、
「考える」
と口にしてしまったのだ。袋井は涙を拭って、へらりと笑った。
「分かった。全部直すから。緋奈とはこれからも、俺ららしく、等身大で付き合っていきたい。これからもよろしくお願いします」
真面目くさって頭を下げてきた。私は溜め息を飲み込んだ。刑期を延ばされたような気分だった。
その後、カフェを出てすぐ、ラブホテルに連れ込まれた。人生で最悪のセックスは何かと聞かれたら、多分この日のセックスを挙げるだろう。
ここまで話すと反応は二極化する。ものすごく同情されるか、ものすごく馬鹿にされるか。
女友達の中でも、私を馬鹿にする声と、擁護する声が入り乱れた。
「一年なら分かるけど、追加で二年はもう緋奈も悪くない?」
「いや、断れないでしょ。何されるか分からないし」
「でも相手はチビなんでしょ? 余裕じゃん。無駄な時間過ごしたね」
「そのときは殴られなくても、後で殴られるかもしれないし。危害って殴るだけじゃないしね。むしろちゃんと別れられてラッキーだったよ」
理解と無理解のあわいを全員が漂っていて、大抵は答えも出ないまま有耶無耶になって終わる。いや、そもそも袋井との関係に答えなんてないのだ。関係を持った時点で間違っている。そういう人だったから。
雨宮と水川の反応も二極化した。雨宮は私を馬鹿にした。
「それで、三年付き合ったってことは……あと二年もずるずる付き合ったってこと? 馬鹿だなあ。浮気でも何でもして関係切ればよかったのに」
不快ではなかった。私自身、馬鹿だったなあと思うし、せっかく笑わせるために話したのだから、そのくらいの反応でないと張り合いがないと思っていた。
「そうなんだよね。さっきの雨宮風にいえば、好きでもない男と延々とデートとキスとセックスをする生活って想像できる? って感じで」
「最悪だな」
「そう、最悪なの」
私たちは笑い合って、酒を呷った。こうして新たな関係構築の礎になるなら、あの経験もそこまで悪いものではないという気さえした。
でも水川はそんな私を見ながら、ぽつりと言った。
「桔梗。大変だったね」
酒で潤んだ瞳は、痛ましげに歪んでいた。
「それ、きつかったでしょ。やりたくもないことを強要されるのってきついじゃん。恋人とはいえさ」
「いくらチビでも、男相手だと抵抗できないしな」
雨宮は半笑いのまま同調した。水川は責めるような目を向けた。
「相手がチビとか、力が弱いとかは関係ないよ。たとえ勝てたとしても、抵抗したらこの後どうなるかって、そういう不確定性が怖いじゃん」
私も雨宮もグラスを置いた。白けたというのとはまた違う。真剣に聞かなくてはいけないと思った。水川の静かな声には、そういう迫力みたいなものがあった。
「……だから桔梗は本当に凄いよ。ちゃんと話し合いで解決したんでしょ? 尊敬する」
「なに、酔ってるの?」
私は茶化すように言った。水川はゆるく首を振った。
「本心。桔梗はすごい」
「そ、そう……ありがと……」
もう冗談を言えるような空気でもなかった。雨宮がすぐに取りなしてくれたが、水川の声はいつまでも耳から離れなかった。
あの瞬間から私の恋は始まったのだ。
「ねえ、緋奈。また付き合えないかな」
近づいてきた袋井が、突然そう言った。雨のにおいとフレグランスが混ざっていて、鼻に皺が寄った。私はもう二、三歩後ずさった。
「は? ない。絶対にない」
「そんなこと言わないでさ」
袋井はへらりと笑った。私に触れようとしているのか、中途半端なところで手はうつろっていた。
「俺だっていろいろ変わったし、見てからでも遅くないって。大学の時はそりゃ、俺も若かったしさ……絶対後悔させないから」
どうしてチャンスがあると思えるのか不思議だった。
「俺、いまフリーなんだ。緋奈も彼氏いないんでしょ?」
もう二十分は経ったのに、雨はずっと降り続けている。
「俺は緋奈のこと知ってるし、お互い良い歳じゃん。そんな意地張ってないでさあ……」
スマートフォンをひらいた。ここから東中野まで、徒歩で十五分だった。雨は一層強まっている気がする。袋井が近づいてきて、甘えるような声を出した。
「なんで無視するの?」
タクシー会社のアプリを立ち上げる。昨日の運転手の粘つく声が蘇る。でも、元カレと肩を寄せ合って雨宿りするよりはマシだ。そして雨の中を駆け出すよりは。
だがそのときスマートフォンを横から取り上げられた。バチャっと足下で水が跳ねた。
「なに……返して」
手を差し出すと、袋井は拗ねた顔をした。スプレーがあれば。
「無視するからじゃん」
「いいから、返せ」
袋井は溜め息をついて、私の手に置いた。
「分かった。返すからまずは話を――」
その瞬間、私は走り出した。冷たい雨がどんどん身体を濡らしていく。濡れた靴下がぐちゃぐちゃと音を立てる。どれだけ走っても袋井がついてきているような気がした。
無駄に道を曲がりながら、信号を無視して、東中野駅のトイレに駆け込んだ。息を整えながら濡れた髪をかき上げる。せっかく巻いたのに。化粧だって台無しだ。
鞄からハンカチを取り出そうとして、手が震えているのに気がついた。
あのとき、水川に言われたとおりだった。たぶん袋井相手なら、力勝負になっても負けないだろう。でも違う。袋井にスマホを取り上げられたとき、それを脅しに何か要求されるかもしれないというのが一番恐ろしかった。
「っく……ぅぐっ……」
こんなことで泣きたくないのに、こみ上げてくるものは抑えられなかった。どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか、そういう思いだけがあった。
「水川……」
かすむ視界の中スマートフォンをひらいた。助けを求めるようにラインをひらく。
〉元カレと会ってさ
そう送りかけてやめた。私は水川の恋人にはなりたいけど、悲劇のヒロインになりたいわけじゃない。まして水川の優しさに付け込んで気を引こうなんて最低だ。
涙が収まるまでここにいようと、暇つぶしにインスタをひらいた。袋井からまたメッセージが来ていたが、もう見ることもなかった。ストーリーを流し見して、投稿にリアクションをつけていく。
そして、見つけてしまった。
普段は大して使っていないはずの水川の投稿だった。女の子が対面に座っているのが分かるアングルで、料理の写真を上げていた。不慣れなのか、狙っているのか、タグや投稿文はなかった。投稿時間は数時間前だった。
卵を割られたクリームパスタと、その奥にうつる女の子の細腕。二枚目にはその子とのツーショットまであった。今どき無加工なんて、水川くらいだ。
画面の中で、化粧っ気のない素朴な感じの子が笑っている。年齢は分からないが、大学生くらいに見えた。二人で顔を寄せ合っていて、友人の距離感ではなかった。少なくとも、私とこんな写真を撮ったことはない。
そして――水川に姉や妹はいない。
私は恋をしてから初めて、水川の投稿にリアクションを送らなかった。
影だった女が、いきなり輪郭を得てしまった。
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