4 前
淡い期待が砕かれるのは、よくあることだ。こと人生においては『これ以上ないほどの最悪』を何度も味わうことになる。
でも、何も今でなくても良かったはずだ。
好きな人から避けられていると発覚し、居酒屋では馬鹿な大学生に絡まれ、下品などんちゃん騒ぎを目撃し、タクシーの運転手にはセクハラされた翌日、トップオブクソ元カレからのメッセージを見て、気を晴らすため北新宿のショップまで来たのに雨に降られた、その直後でなくても。
「……元気だった?」
軽薄な声が嫌いだった。
「三年ぶりくらい? 緋奈、やっぱ美人だよね」
いちいち人を評価してくるところが嫌いだった。
「まだ彼氏いないの?」
語尾につく耳障りな笑い声が嫌いだった。
私はそちらを見ないようにして、スマートフォンに目を落とした。幸い、通り雨のようで十五分程度で止むらしい。曇天から銀針のような雨が絶え間なく降り続いている。雨で煙る景色の遠くには、総武線の高架が見えた。電車が先を急ぐように走っている。ここからの最寄りは東中野だ。急げばこの雨でも行けるだろうか。
「……あんま無視されると、傷つくんだけど?」
低い声で、顔を覗き込まれた。濃すぎるフレグランスが漂ってきて、二、三歩後ずさった。
「……なんでここにいるの。袋井」
パーマがかった黒髪、ぶらぶらと揺れるピアス、趣味の悪い服、締まりのない表情、中学生並みの身長。どれも別れたときから変わっていない。変わらず、私を不快にさせる。
「名前で呼んでくれたらいいのに」
トップオブクソ元カレこと、袋井は、肩に手を置こうとしてきた。私は身をよじって躱した。護身用のスプレーを持ってきていないことを悔やんだ。
「うわ、超他人行儀じゃん。なに、まだ怒ってんの?」
「別に、どうでもいい」
「はは、ガキじゃないんだからさあ。普通に会話しようぜ」
袋井は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。ガキみたいな身長をしているくせに、と喉元まで出かかった。
「で、なんなの。ストーカー?」
別れてからずっと音沙汰なかったのに、久しぶりにどういでもいいメッセージを送ってきたと思ったらこれだ。疑うなというほうが無理がある。
「自意識過剰かよ」
袋井はまた鼻を鳴らした。
「偶然だっての。俺、この辺に住んでるの。帰りなんだよ。雨宿りしようと思ったら、知ってる顔があったから、声かけただけで……そんな邪険にすんなよ」
邪険なんて言葉が袋井の口から出てくるとは思わなくて、少し驚いた。袋井はもっと安易な言葉ばかり使う人間だったはずだ。やべー、すげー、えぐー、この三つくらいで会話をできるような、そんな人間だった。
私の視線に気づいたのか、袋井は片頬を上げた。相変わらず嫌な笑い方だった。
「なに。そんなに不思議? 三年も会ってなかったら変わるっての。緋奈は変わらず綺麗だけどな」
袋井の視線は私の胸と顔を行ったり来たりした。私は腕を組んで隠した。
「で、なに。なにか用?」
トタンでできた軒がタタッ、タタッ、タタッ、と軽い音を立てている。
「元カノに声かけて悪い? 三年も付き合った仲じゃん」
「あんたが別れようとしなかっただけでしょ?」
「ははは、はっきり言うじゃん」
袋井は口だけで笑った。
「今日はどっか出かけてたの? 彼氏?」
なんでもすぐに恋愛の文脈に乗せたがるところも嫌いだった。
「どうでもよくない? 話す意味ないでしょ」
「……俺、そんなに嫌われるようなことしたかなあ」
袋井は唇を尖らせた。
「確かにちょっとは悪かったけど、愛想悪くね?」
袋井はまた鼻を鳴らして、肩を竦めた。まるで聞き分けのない子どもに向けるような態度だった。やはり何も変わっていない。
袋井の話をすると、大体の人からは同情してもらえる。中には似たような経験をした子もいて、まるで自分のことのように憤慨されることもあった。
付き合い始めたのは大学一年の終わりからだった。向こうから告白されて、断る理由もなかっらから付き合った。今にして思えば、人生最大の失態だった。
袋井は一言で表せば「プライド以外はなにもない男」だった。いつも誰かを見下せる話題を探しており、関係が薄くても立場の強い人間を友達だと豪語して憚らなかった。虎の威を借る狐を地で行くタイプで、そこかしこでよく問題を起こしていた。
友人には何度も別れた方がいいと諭された。「あんなチビクズとよく付き合ってられるね」普段は温厚な友人でさえ語気を強めた。
それでも別れるのに三年かかった。
袋井の人柄を表すのにとっておきのエピソードがある。一年記念日のデートだ。待ち合わせは新宿の南口、休日のよく晴れた日だった。暖冬の影響か、道行く人はみな、軽装だった。
私はこの日、別れを切り出すつもりだった。
二つ返事で付き合って、期待を持たせたのは私だ。でもそろそろ義理も果たせただろう。そう思った。一年記念日にわざわざデートをするのだって、筋を通すつもりだった。
袋井は待ち合わせに五分ほど遅れてきた。
「遅れたわ。ちょっと道案内頼まれちゃってさ」
「連絡してくれたら良かったのに」
「ああ、充電がなくて」
嘘だとはすぐに分かった。彼は自分の非を認めるということを知らなかった。
「じゃあ、行こっか」
謝ることもなく、袋井は手をつないできた。手汗で湿っていて冷たかった。
行き先はあらかじめ決めてあった。ルミネ新宿店を回って、ランチは千駄ヶ谷のイタリアンレストラン、西新宿で映画を見て、ディナーはハイアットリージェンシーでとって、終電までには解散する。
店の予約も取ってあった。「適当でよくね」と面倒がった袋井の代わりに、私がすべてプランを組んだのだ。相談もしていたし、何度も確認を取った。ありがとうなんて一言も聞けなかったけど、どうせ最後だとすべて飲み込んだ。
だというのに、袋井はこう言った。
「買いたいものないし、別の場所いかね? カラオケとか満喫とか」
別に行き先の変更自体はよかった。本当は昼過ぎからが良かったが、嫌がった袋井のため、ランチまでの時間つぶしを組んだだけだ。
だが、指定された場所には問題があった。袋井の手が私の手の甲をさすっている。視線は熱を帯び、胸元に注がれている。片頬を歪ませるように笑っている。密室で何を要求されるかは分かりきっていた。
断ると不機嫌になるのは経験済みだった。私は慎重に言葉を選んだ。
「ええ~、私買いたい物あるんだけど」
「なに、今日じゃないとダメなの?」
「別にダメじゃないけど……」
そこで横目に袋井を見た。わざとらしく頬を膨らませてみて声のトーンを上げる。
「……せっかくなら一緒に服も見たいなって思って」
数時間後には振るのに、期待を持たせるのは申し訳ない気がした。でも少しだって袋井に触れられるのは我慢ならなかった。手をつなぐので精一杯だ。きっと今日はこれ以上ないだろう。
「分かった……」
声のトーンは落ちていたが、不機嫌というほどではなかった。
ルミネでは見たくもない服を一緒に見て、欲しくもないペアルックの帽子を買った。服もいくつか試着したが、袋井はそのたびに「あの人よりも可愛い」「この人よりも似合っている」と他人を引き合いに出した。
「あの店員も同じやつ着てるけど、全然似合ってないよね。なんでああいう人が服屋で働いてるんだろう」
料理が美味しいと語るのと同じ熱量だった。語尾に嘲笑の気配があった。
試着室の鏡で、自分の顔がひどく疲れているように見えた。大丈夫、今日で終わりだから。そう言い聞かせると口角がひきつって上がった。
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