酒が残っていても、朝は情け容赦なくやってくる。カーテンを開けてしまうと後戻りできなような気がして、眠くもないのに、だらだらとベッドの中で時間を潰した。

 昨日、帰ってきたと同時に吐き気に襲われ、小一時間便器に顔を突っ込み続けた。タクシー運転手が最後の最後、金を払う段になって「もっと愛想良くした方がいいよ」と言ってきたのだ。粘つく声に、胃の奥から食道までを逆撫でされたような気がした。イヤホンを外さなければ良かった。

 胃をひっくり返すようにすべて吐き出し、洗面台で口をゆすいだ。そのまま眠ってしまいたかったが、根性で化粧を落として、スキンケアもして、歯も磨いて、それからベッドに倒れ込んだ。

 泥のように眠ったはずだった。今日は休日で、のんびりしても問題ないはずだった。それなのに、いつもと同じ時間に目が醒めてしまった。

 初めはユーチューブでショート動画を見ていた。数学の証明問題の美しさを機械音声が解説している動画、可愛い女の子が露出の多い服で踊っている動画、沢を背景に魚を捌く動画、プチプラコスメの紹介動画、オススメ映画の紹介動画、副業のすすめ……どれも三秒後には忘れてしまうようなものばかりだった。

 目覚まし時計を見ると、十時を回っていた。もう二時間近く経っている。窓の外から子どもの声が聞こえてきた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。寝返りを打って、またスマートフォンをひらいた。

 インスタは、先週にストーリーを上げてから、久しぶりに開いた。通知が溜まっていた。大学の友人からのメッセージに、ちまちま返信していく。

 その中に、元カレからのメッセージを見つけた。


 〉めっちゃ楽しそうやん笑


 たった一文で、ここまで私を不快にする文章もなかなかない。私は既読もつけずスマートフォンを閉じた。頭から布団を被って、耳を塞いで、目を閉じる。

 カーテンを開けずにおいて、本当に良かった。


 まだ雨宮と水川の三人で普通に遊んでいたとき、恋愛遍歴の話になったことがある。一年くらい前だ。酒が入っていて、雨宮も私もそこそこ口の滑りが良かった。彼女のいたことがない水川はずっと聞き手に徹していたが、退屈はしていなかったように思う。彼も酒が入ると、いつもの数倍明るくなるタイプだったから。

 話題は、過去の楽しかったデートや、失敗談、少しアダルトな話から、今まで付き合った中で一番のクソ元カレ/元カノはどんな人物だったか、というものに変わった。

「じゃあ、俺から話すわ。俺のトップオブクソ元カノは大学の彼女だな」

 名前は明日香と言っていた。雨宮の奥さんに何か言ったというのも、この明日香だ。

 雨宮はわざとらしく顔をしかめていた。

「明日香は……子どもがそのまま大人になったみたいな子でさ。本当にいろいろ大変だった。どこに地雷があるか分からなくて、常に顔色を覗う生活っていうのは堪えたよ」

 このときの場所も、中目黒の〈かがりび〉だった。雨宮はビールを飲んでいた。私と水川はレモンサワーだった。テーブルには唐揚げとチキンカツが並んでいた。

「一番きつかったのは監視されることだった。半同棲だったんだけど、四六時中ベタベタしていないと気が済まないみたいで、家の中にいるときはずっとくっついてくるの。んで、スマホを触ったら怒られるし、本を読んでもダメだし、勝手に外出するのももダメ。飲み会なんてもってのほか。ずっとおしゃべりに付き合ってないと気損ねるんだよ。冗談抜きでのど飴が欠かせなかったね。開けたままトイレをさせられる生活とか、考えたことある?」

 雨宮の口調に恨むようなものはなかった。ただ、昔の失敗を笑う飛ばすようなものだった。だから私は笑ったが、

「それは、きつかったな」

 水川は案外、同情的だった。当の雨宮すら、ちょっと困ったように笑った。

「まあ、別れられてハッピーだったよ。そのあと、なんやかんやあって結婚もできたし。幸せだわ」

 左薬指を見せつけるようにした。私と水川は拍手を送った。

「桔梗は? どんなトップオブクソ元カレだったの?」

 雨宮に振られて、私はもったいぶるようにレモンサワーを飲んだ。水川もどこか期待したまなざしを向けていた。

 グラスを置いて、私は言った。

「私のトップオブクソ元カレも大学のときの人だな。卒業するときようやく別れられたんだけど、結構苦労したんだよね」

「どんなやつだったの?」

 水川と目が合った。私はにやりと笑った。

「とっておきのエピソードがあるんだ。あのね――」


 そこで、目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。掛け布団がベッドの下に落ちていた。目覚まし時計は十三時を過ぎていた。

「さむっ」

 身震いしてすぐにベッドを出た。スリッパを履いて暖房をつける。もう諦めてカーテンも開けた。窓の結露を手のひらで拭う。重たい雲が太陽を遮っているせいで外は灰がかっていた。

 南西に、豪徳寺を取り囲む社寺林が見えた。身を切るような寒風に、薄くなった葉がそよいでいる。間取りは1Kと狭かったが、この景色が好きで大学二年生から、かれこれ五年ほど住んでいた。

 ベッドに腰掛けてスマートフォンをひらく。何度見ても変わらない。やはり、水川からの連絡はなかった。

 ラインを閉じて、検索アプリをひらいた。『好きな人が夢に出てきた 占い』と検索タブに入れる。ポジティブな意味だと両思い、ネガティブだと恋愛運ダウンらしい。いくつかのサイトを横断してから、検索履歴を消した。

「乙女かよ……」

 小っ恥ずかしくなって、自嘲気味に呟いた。

 でも、ちょうど夢で見たあのときだ。ああして過去の彼氏を笑い種にしているとき、私は密かに水川に恋をした。酔ったときのいつもより明るい声に。口先だけではない優しさに。照れたとき口許を抑える癖に。いつでも端麗な横顔に。水川は、過去の男達の持っていない魅力を持っていて、過去の男達が持っていた欠点を持っていなかった。

 それなのに――

「連絡くらい返せよ、ばーか」

 一人暮らしは独り言が増えて仕方がない。片想いは文句が増えて仕方がない。返信がないと不安が増えて仕方がない。

 私は熱いシャワーを浴びた。酒のにおいが染みついている気がして、いつもより長めにお湯を流した。風呂場を出ると、外行きの服に替えて、髪を巻いた。

 このままずっと家にいたら、いよいよ気分が沈むという予感があった。こんな曇り空でも外に出た方が幾分かマシだ。

 それに、虫の知らせということもある。外に出たら水川に会えるかもしれない。

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