2 後

 雨宮もすぐ気づいたようだ。自分のスマートフォンの通知を見て、片頬を上げた。

「いいな、策士だ」

「でしょ」

 ジョッキに口をつけた。ビールの苦みが喉を通り、胃に落ちていく。これなら水川も反応しやすいだろう。そしてグループで反応したからには、私にも返信せざるを得ないはずだ。

「これでも返信なかったら……」

「それは言わないで」

 睨み付けると、雨宮は降参を示すようにぱっと手を上げた。

「上手くいくといいな」

「……本当に思ってる?」

「え、もちろん」

 雨宮はちょっと目を大きくした。まるで疑われるとは思わなかったという風だった。私はジョッキから手を離して言った。

「それじゃあ、さっきなんで嘘ついたの」

 煙草に伸びた雨宮の手が止まる。座敷の方はまたうるさくなり始めていた。

「……嘘って?」

「本当は水川、なにかおかしかったんでしょ? でも隠してる」

 雨宮は目を泳がせた。黒だ。案外こういう咄嗟の判断には弱い。本当に隠したいなら目の動きだけは気をつけなくてはいけない。

 私は唐揚げの最後の一つに箸を伸ばした。

「雨宮は自分のために嘘をつくタイプじゃないよね。特にこういう相談の時は。だから、多分私にとって不都合だったから黙ってるんじゃないの。たとえば――」

 唐揚げを自分の皿に置く。考えて喋りだしたわけではなかったが、考えると結論は一つだった。

「――たとえば……水川が他の女の子といたところを見た、とか」

 それが恋人なのか、想い人なのかは定かではない。だが、私にとって一番の不都合はそれだ。

 雨宮は視線を切って、煙草を二、三口吸った。座敷の喧噪は元通りになったが、さっき水をかけられていた男は、首からタオルを提げて、端の席でスマホをいじっていた。

「直接見たわけじゃない。でも、会話の流れからそうかもって思っただけだ」

「どういう話か聞いてもいい?」

 雨宮は頷いた。

「今日の昼、水川から相談されたんだよ。『女ってどういうプレゼントが嬉しいんだ』って。びっくりしたけど普通に答えた。関係性にも寄るけど、コスメ系は喜ばれるって」

 私に聞けばいいのに、という言葉は飲み込んだ。

「そしたらなんて?」

 座敷から盛大な拍手が聞こえた。横目で伺うと、周りに囃し立てられながら一組の男女がキスをしていた。大方、王様ゲームでもしていたのだろう。終わった瞬間は男女ともに笑顔だったが、女の子の方は水を飲み干し、唇をおしぼりで拭っていた。

 雨宮も一部始終を見ていたのだろう。懐かしむような、羨むような目をしていた。

 舌打ちしたい気分になって、唐揚げをまるごと口に押し込んだ。机をコツコツ鳴らすと、雨宮は顔を戻して、私を見るなり噴き出した。

「ふっ、食い意地張りすぎだろ」

 抗議のため、かるく足を蹴飛ばしてやる。雨宮は笑いながら言った。

「いたい、いたい……ああ、水川な。そしたら、『そっか、ありがとう』って。だから終わり」

 私は咀嚼し切っていない唐揚げをビールで流し込んだ。

「……相手のこと聞かなかったの?」

「聞かねえよ、高校生じゃあるまいし」

「それは、そうだけど……」

 私はジョッキの水滴を親指で拭った。雨宮は小さく溜め息をついた。

「だから言いたくなかったんだよ。気を揉ませるだけだろ」

「いや、聞けて良かった」

 せいぜい強がってみるが、声が震えた。思ったより酔っているのかもしれない。

「俺だって気になってはいるけどさ。あいつ女っ気ないし……でも、そういうのは踏み込みすぎじゃん」

 雨宮の言うことはもっともな気がした。でも気を遣いすぎなようにも思えた。

「水川って姉妹とかいたっけ」

「いや、いないはず。確か年の離れたお兄さんがいるんじゃなかったかな」

 姉妹に対してのプレゼントという線は消えた。質問の意図を汲んだのか、雨宮は付け加えた。

「母親とは縁切り状態らしいから、そっちもないと思う。おばあちゃんは分からないけど、さすがに女のプレゼントって聞き方はしないだろ」

 どんどん、私の不都合が現実味を帯びていく。

「大穴で桔梗ってことも、まあなくはないと思うけど?」

「本気で言ってる?」

「いや、慰め」

 私はもう一度足を蹴飛ばした。

「じゃあ、やっぱり――」

 と、そこで机が振動しているのに気がついた。雨宮がスマートフォンを見る。水川から返信かと思ったが、通知は来ていなかった。

 雨宮は画面を確認すると、ふっと鼻を鳴らして、ポケットに戻した。

「悪い、続けて」

「いいの?」

「ああ、嫁からだ」

「……いいの?」

「今ちょっと……喧嘩中なんだよ。そっとしてある」

「喧嘩? なんで?」

 もし私との関係についてだったら問題だ。雨宮の妻に弁解しなくてはいけない。私と雨宮は友達なんです。好きな人は水川っていう、もう一人の友人で、本当に雨宮はただの相談相手で……

 でも違った。雨宮は途端に、愚痴る口調になった。

「最近、大学の時の元カノ……ああ、トップオブクソ元カノな、がさあ、すげえしつこく連絡してきたんだよ。『最近なにしてるの』『結婚生活どう』『疲れない?』って。邪険にする必要もないから、適当に相手してたんだけど……」

 雨宮はそこで言葉を切って、ビールを飲んだ。

「先週だったか、嫁が会ったらしくてさ。ストーカーとは違うんだろうけど、なんか言われたらしい」

「なにそれ、最悪じゃん」

「最悪だよ。それで浮気を疑われてた。何もないって言ったし、もう連絡も絶ったけど……まだ疑われてる」

 私は首を振った。

「ちがう。最悪なのは、雨宮の対応。なんで元カノからの連絡無視しなかったの? 奥さんが可哀想だよ」

「まあ……それは、そうだよな」

 雨宮は気まずそうに、ハムカツにかぶりついた。

「呼び出しといて悪いけど、さっさと食べて、今日はもう帰ろう。雨宮の奥さんに悪いし。帰ったらちゃんと話しなよ」

 私は半端に残ったポテトを口に放り込んでいった。雨宮も黙々とテーブルのものを口に運んでいく。座敷はその間もずっとうるさかった。

 ちょうど食べ終えて店を出る頃、ピロンと着信音が鳴った。水川からの返信だった。


 〉いいな、美味そう

 〉今日いけなくてごめんな。また誘って。

 

 雨宮も確認して、ふっと頬を緩めた。

「どう、個人の方は。返信来た?」

 私は水川とのトーク画面を開いた。既読はついていたものの、二、三分待っても返信はなかった。

 首を振ってスマートフォンを鞄にしまった。

「ダメだ。グループで返信したからいいやってなったのかも」

「それか……」

「それか、じゃない」

 雨宮はケタケタと笑って、また手を上げた。

「冗談だって。返信があったんだから、とりあえずは良しとしようぜ」

「うん……」

 でも、どうにも引っかかった。女っ気のない、彼女すらいたことのない水川が、どうして女物のプレゼントなんて用意しようとしているのだろう。どうして突然、私を避けるようになったのだろう。

 この二つが地続きだったときのことは、あえて考えないようにした。

 呼び出した私が会計を持って店を出た。都道には車がひっきりなしに行き交っている。歩道には仕事帰りのサラリーマンが多かった。身を切るような風が頬を打ち据えるが、火照った身体にはちょうどよかった。

「悪いな、ごちそうさま。また水川と飲みに行こう」

「うん、奥さんとちゃんと仲直りしなよ」

「分かってる」

 雨宮は弱々しく笑って、駅まで歩いて行った。足のふらつきがひどかったので、私はタクシーを拾った。

 車内では運転手が何かと話しかけてきた。お姉さん、綺麗ですね。仕事はなにしてるんですか。住まいはこの辺なんですか。ずいぶん飲まれたんですね。彼氏さんに迎えに来てもらえないんですか。

 五十がらみの男だった。初めは笑って流していたが、だんだん面倒くさくなって、イヤホンを耳に突っ込んだ。水川が好きだというバンドの、一番再生回数の多い動画を流す。『ギターソロがかっこいいんだよ』と明るく話してくれた日が懐かしい。

 スマートフォンが震えるたび、水川からの返信ではないかと開いた。ニュースサイトのやカレンダーアプリの通知がほとんどだった。


 〉今日はごちそうさま、また飲もうな


 気を回してくれたのだろう、雨宮はわざわざグループにそう送ってくれた。数分後、水川がそれに返信した。


 〉行けなくて悪いね。楽しめたなら良かった

 〉水川も次はちゃんと来てよ


 すかさず返信する。運転手がステアリングをかつかつと指で叩いていた。


 〉雨宮と二人だと話がとまる

 〉お? なんだ、相談乗ってやったのに

 〉桔梗が唐揚げ口に詰めてたから会話が止まったんだろ

 〉それは言わないお約束でしょうが!

 〉笑


 くだらない会話に終止符を打つように、水川は『笑』とだけ送ってきた。それでもう、会話は終わってしまった。相談が何かとか話は広がったはずなのに。

 相変わらず、私との個人ラインに返信はない。

 窓に頭をくっつけると、火照った顔がひんやりして気持ちよかった。運転手とルームミラー越しに目が合って、小さく舌打ちした。

 イヤホンからはギターのけたたましい音が流れている。急き立てられるような、不安をかき乱すような、好きにはなれない音だった。

 連なったテールランプは、酔った目には眩しすぎた。

 うるさい夜だと思った。

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