2 前
雨宮は黙り込んでしまった。人差し指と中指で挟んだ煙草のけむりが上へ上へ、換気扇に向かって吸い込まれていく。
私はそっと視線を外した。
店内は、黙り込む私たちを残して、賑わっていた。特に、奥の座敷はひどかった。大学生のサークルだろう。髪をカラフルに染めた、若い男女のグループがぎゃあぎゃあと騒いでは、座卓に食べ物や飲み物をまき散らしている。
「汚いね、あれ」
沈黙に耐えかねて、ぼそりと言った。返事を求めてはいなかったが、雨宮は長くなった灰を落として、そちらに顔を向けた。
「ああ、まあな。大学生なんてあんなもんだろ」
煙草をくわえて、一筋の煙が吐き出される。
「新社会人かもよ」
「似たようなもんだろ。俺たちだって若いときはあんなだったよ」
雨宮は妙に達観していた。無駄に大きな拍手や笑い声が聞こえても眉もひそめない。酔った男が女の子を肩を抱いているのを見ても目の色は変わらない。電灯に照らされた瞳は酒で潤んで光っている。
「それで、どうして避けられるって?」
雨宮は顔を戻して、煙草をもみ消した。話の続きだと少し遅れて気がついた。
「私にも理由は分からないけど……なにかしたのかな?」
「なにかしたの?」
「どうかなー……」
正直、心当たりはなかった。あるいは、心当たりしかなかった。
ラインをしつこく送りすぎたのかもしれない。さりげなさを装ったボディタッチに気づかれたのかもしれない。先月二人きりで出かけたとき距離を詰めすぎたのかもしれない。あのときは確かにちょっとやり過ぎた。別れ際、あんなことまで……
考えていくほど、自分のおこないがすべてダメだったようにも、問題なかったようにも思えた。駆け引きなんて、柄でもないことに手を染めたせいかもしれない。水川がのっぴきならない事情で私を避けているのか、私が原因で避けられているのか、分からなくなった。
「そういえば雨宮は、水川と普通に話してるの?」
「ああ、今日も昼は一緒に食ってたし」
雨宮と水川は、大学が同じで、学生のときは面識がなかったらしいが、入社してから仲良くなったと聞いた。水川だけ部署が違うので、私の方が仲良くなったのは遅い。
「誘ってくれたら良かったのに」
「桔梗、昼は女の子グループで食ってるじゃん。それにお前がどういう気でいようと、男二人といるのはよくないって」
雨宮の言うことには一理あった。男二人と行動しているだけで、不躾な視線を向けられることは少なくなかった。男を侍らせていると陰口を聞いたこともある。
「部長にも言われたんだぞ。不倫なんて中々やるねって。すぐには分からなかったけど、あれ桔梗のことだろ」
「うわ、なにそれ。セクハラじゃん。最悪。私にも雨宮にも失礼だし」
「な、本当に」
雨宮はケラケラと楽しげに笑っていた。自分の顔がさらに歪むのが分かった。
まったく性別とは厄介なものだ。私はただ、雨宮を友人として好きで、水川のことを男性として好きで、どちらとも友人関係でいるだけなのに。外野はいつも憶測で他人の関係を測りたがる。
「桔梗も、せめて水川と間違われてえよな」
「そういう意味じゃないんだけど……」
内野も案外無理解なのかもしれない。私は話を戻した。
「今日、水川に変わったことなかった?」
「どうだったかな……ちょっと考える」
雨宮は煙草を取りだして咥えた。しかしすぐには火をつけず、ぶらぶらと弄んでいた。
私は店員を呼びつけて、何品か追加で注文した。この店は水川が気に入っているだけあって、店の雰囲気がよく、料理も美味しかった。普段だったらこんなにうるさいことはない。今日はたまたま外れ日だったようだ。
空いた皿をお下げします、と男性店員がさっとテーブルを綺麗にしてくれる。グラスを空けて、新しくビールを注文した。
ふと座敷に目を遣ると、さっきまで肩を組まれていた女の子が、席の端っこで小さくなっているのに気がついた。その目はスマートフォンに落ちていて、喧噪からひっそり身を隠しているように見えた。対して、男の方は懲りずに、別の女の子に絡んでいた。きっと疎ましがられているのにも気づいていないのだろう。
しばらく見ていると、頭を撫でられた女の子がついに水をぶっかけた。座敷はしんと静まりかえり、それまでの喧噪がすっと静まった。
気づいた雨宮もそちらに顔を向け、
「ああ、フラれてら」
そう笑って肩をすくめた。多分、水をかけられた男も同じ感想だろう。ああ、フラれちまった。もう少し屈辱的だったかもしれない。でも、女の子はもっと必死で、屈辱だったはずだ。しつこい男にはやはり教えてやらなくてはいけないときがある。私は心の中で拍手しておいた。
店員が座敷に向かっていくのを見て、私たちは同時に目を戻した。
「それで、どう? 変わったことあった?」
雨宮は二、三回ライターを擦って火をつけた。それから私の目を覗き込むように、机に寄りかかった。
「……たぶん、ない」
「そう」
そのとき店員が頼んだ料理を運んできた。お騒がせして申し訳ありません。笑顔のかわいい店員が謝った。座敷でのことだろうと思い、首を振った。気にしないでください。あなたは悪くないじゃないですか、とも言てあげたかった。
店員が下がっていくのを待って、私はテーブルの写真を撮った。紫芋のコロッケ、アジフライ、フライドポテト。まだ残っている唐揚げも水川の好物だった。
「なに。写真送るの?」
「迷ってる」
雨宮が煙草を置いて、おどけたピースをした。顔だけでなく、指先まで真っ赤になっている。私はそれも撮ってラインを開いた。そういえば、水川と写真を撮ったことがない。
「未読無視されてるのに、こんなの送ったらうざいかな」
「さあ、どうだろ。まだ未読なの?」
言われて、水川とのトーク画面をひらいた。
〉今日、飲み行こ
〉仕事終わったら
やはり、それで会話は終わっている。未読のままだ。
「見てないみたい」
「ふーん」
雨宮はフライドポテトに手を伸ばした。二、三本まとめてつまんで、ケチャップ沼に沈ませる。油でふにゃふにゃのポテトは重みでぐにゃりと曲がり、重力にゆったりと引っ張られ、机にたた、と落ちた。雨宮はおしぼりで拭った。
「まあ、送ってみたら?」
「どうしよ。送って反応なかったらつらいし。……あと、さっきから零しすぎじゃない?」
「そう?」
「うん、見なよ。おしぼりめちゃくちゃ汚いじゃん」
雨宮のおしぼりには、揚げなすの出汁の薄茶色と、ケチャップの薄紅のしみができていた。雨宮は隠すようにおしぼりを畳み直した。
「送ってもいいんじゃね。反応なかったらご愁傷様ってことで」
「それが嫌なんだって。元々そこまで個人ラインでは話さないし」
「そうなのか……でも、いつまでも動かないのも違うだろ」
「それは、そうだけど……」
写真フォルダの開かれた画面に指を迷わせる。さっき撮った料理や雨宮に、先週遊んだ友人たちとの写真が並んでいる。ジョッキの取っ手を撫でて考える。
そこで思いついた。
水川とのトークを閉じて、雨宮と三人のグループに写真を送付した。メッセージも添えておく。
〉うらやましいだろ
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