しえん

冬場蚕〈とうば かいこ〉

 色濃い煙草のけむりが漂ってきて、思わず手を払った。中目黒の居酒屋〈かがりび〉だった。グラスを触っていたせいで水滴がぴっと跳ねた。右隣の席の、煙草を吸っていた男に当たった。私は眉を下げて、笑顔をつくった。

「ごめんなさい。煙がきたから、つい」

 眉をひそめていた男は、私の目を見るなり、にっこりと笑った。顔を真っ赤にした、大学生くらいの男だった。だぼっとした服を着ていて、手首にはシルバーが巻かれている。渋谷や中目黒ではよく見る格好だった。二人連れで、友人の方は私に見向きもしなかった。

「こっちこそすみません。……さっきの人、彼氏?」

「いや……そういうのじゃないけど」

 雨宮のことだろう。トイレに行くといって、もう十分は経っている。灰皿に残った雨宮の煙草はほとんど焼け落ちていた。

「じゃあ連絡先、交換しません? 何かの縁ってことで」

 男は左手で持っていた煙草を、灰皿にぎゅうぎゅうと押しつけた。その視線は、机に置いていた私のスマートフォンに注がれている。対面の友人は、止めるでもなく囃し立てるでもなくただ静観していた。

 やっぱりこうなるか。

 私はグラスを両手で抱え、いつも通り笑顔をつくって首をかしげた。自分の鞄の中身を強く意識した。

「ごめんなさい、私、今好きな人がいるんです。なので、そういうのはちょっと……」

 男は鼻を鳴らした。男の友人も笑ったように見えた。

「違う違う、そういのじゃなくてさ。なんか友達になりたいって思っただけだから。そんなに警戒しないでよ。よかったら相談も乗るしさあ」

 見かけによらず、ぐいぐいと来るタイプだった。どうせ年下だろうと侮った。酒で潤んだ瞳は私の胸に向けられている。

 ……二回。もう、いいだろうか。

 音を立ててグラスを置いて、私は笑顔を消した。昔から真顔でいると怖がられることが多かった。ただ見ているだけなのに、睨まれていると勘違いされることもあった。

 案の定、男は貼り付けた笑みを引きつらせ、もみ消した煙草を意味もなくつまんでいた。これなら使う必要もないだろうと内心ほっとした。

「あのさ、あんたたち――」

「桔梗、ストップ」

 だがそこに、雨宮が戻ってきた。

「ごめんね、お兄さん達。この子、俺の奥さんだから」

 雨宮は人懐っこい笑顔で、左手を見せた。そこには銀色の結婚指輪が嵌まっている。

「え、でも……」

「ん?」

 表情はそのまま、半歩だけ男に近づいた。雨宮は、嘘をつくとき相手を覗き見る癖がある。長身で胸板も厚い雨宮にはさぞ圧倒されることだろう。

「いえ、すみませんでした……」

 店内の視線を集めていることに気づいたのか、男は手早く荷物を纏めると、友人を連れて、店を出て行った。ドアを開けるときもやはり左手を使った。寒風が入り込み、店の温度が下がる。私はひんやりとした手を、温いおしぼりで拭った。

 雨宮は対面に座り、フィルターだけ残した煙草を吸い殻に押し込むと、またもう一本火をつけた。

「……遅かったね」

「助けてくれてありがとう、だろ」

「……そうね。ありがとう」

「よし」

 私は雨宮のこういうところを好いていた。あけすけに感謝を要求し、それで終わらせてくれる。間違っても、助けたことを恩に着せたり、偉ぶったりして、見返りを求めてこない。昔からそういう手合いは多かった。

「トイレが混んでてな。あとすげえ汚くてさ」

 大方掃除でもしていたのだろう。面倒見がいいのとはまた違うのだろうが、そういうことは放っておけないたちだ。

「手洗った?」

「当たり前。それで? なんで絡まれてたの」

「さあ、煙が鬱陶しくて手を払ったら水が飛んじゃって」

「ふうん。あ、これもうざい?」

 雨宮はくわえた煙草を指さした。

「雨宮はいいよ。友達だし。でもさあ……あいつ絶対わざとこっちに吐きかけてた」

「気のせいじゃなく?」

「気のせいじゃなく」

 頷くと、雨宮は天井を仰ぎ見て、換気扇に向かって煙を吐き出した。

「こうしたら良かった?」

 おちょくられているのだと気づいて、少しむっとした。

「本当だって。席考えてよ。さっきのやつ、私の右隣の席で、私とは対角線に座ってたじゃん。あいつ左ききだよ。だから普通、こっちにあんな濃い煙はこないんだよ」

「よく見てるな」

 雨宮は平坦な口調で言って、煙を吐き出した。顔の辺りに漂っているが、別段手で払うこともない。

「水が飛んだからって、向こうから因縁でもつけられた?」

「そんなことになったらすぐ店員を呼んでるわよ。ちがくて、謝ったらなんか……連絡先聞かれた」

「断ればいいじゃん。普通にさ。喧嘩腰にならなくても」

「断ったってば。なのにしつこくて」

「ふうん」

 雨宮は灰を落として、ビールに口をつけた。

「しかも、ただしつこいだけじゃなくて、なんか、自分にそんな気はありませんみたいな態度取ってきてさ、胸見てるのバレバレなのに。本当に最悪」

「まあ、そんな服着てたらな……」

 雨宮は目線を落として、すぐに逸らした。今日はざっくりと編まれたセーターを来ていた。胸が大きいせいで、どうしても強調した格好になってしまう。下手に隠そうとすると、太って見えるのだ。

「なに、水川が来るから?」

「そりゃあ多少は……でも、あいつらに服は関係ないから」

 水川も、雨宮と同じ会社の同僚で友人だった。

「ふうん。そっか」

 雨宮は納得いかない顔をしたが、それ以上は突っ込んでこなかった。

「でも、あんな喧嘩腰にならなくても良かったじゃん。実際、あのまま俺が来なくて、喧嘩になってたらどうするの?」

「こんな人目があるところで、そうはならないと思うけど……」

 金曜夜なだけあって客も店員も多かった。こんなところでもし喧嘩をふっかけるような相手なら、多分断った時点でそうなっている。

「もしなったとしても、連絡先教えるよりマシ。ああいうのに少しでも気があると思われるとしつこいんだよね。きっぱり断らないと余計に面倒なの」

 大学に入学してすぐは、ナンパをされるたび、見た目が合格ラインだったら連絡先を交換していた。校則や制服から解放されて、舞い上がっていたのだ。新宿や渋谷、たまに銀座にまで足を伸ばして、よく遊んだ。

 でもそれは一過性のもので、半年で飽きた。ナンパで会った男はみな、下心が透けていて、話もつまらなかった。

 そうなると突然、声をかけられるのすら煩わしくなった。

 初めはそれでも丁寧に対応していたが、社会人になる直前、「勘違いするな、ブス!」と負け惜しみを吐きかけられて以来、二、三回は丁寧に対応し、それでもしつこかったらきっぱりと断るようにしていた。

 ナンパと聞いたら「キモいから喋りかけてくるな」と切って捨てる友人もいたが、さすがにそこまではしなかった。その子からは「優しすぎる」と言われたが。

 反対に、雨宮の目には厳しく映ったようだ。真面目くさった顔で、首を傾げていた。

「そういうもんかね。喧嘩になった方がだるいだろ。女だからって殴られないわけじゃないし」

「殴ってくるようなやつなら、やっぱり断って正解じゃない?」

「そうじゃなくてさ……もう少し危機感を持った方がいいって話な」

 私は溜め息を堪えた。この感覚は、たぶん男には――特に、雨宮のような大柄の男には一生分からないだろうと思った。

「しつこいナンパには強く出るのが一番いいんだよ。ああういうのに舐められたら、徹底的に下に見られるから。殴られたら殴られたで、警察沙汰にできるしね。それに――」

 私は鞄から小型のスプレーを取りだした。

「いざとなったら、こういう撃退グッズもあるから」

 手のひらサイズの目潰し用スプレーだった。私の周りでもこうした護身用の物品を持ち歩いている人は多かった。

 雨宮は裏の成分表に目を通して、

「カプサイシン配合ね……こういうのって過剰防衛にならないの?」

「ならないでしょ」

「それに、本当にピンチの時、こんなの用意してられなさそう」

 小馬鹿にするように笑われ、むっとしたが、もうこれ以上は平行線だろうと、何も言わなかった。雨宮も興味をなくしたのか、スプレーを返してくると、また煙草を手に取った。

 私もまだ手つかずだった唐揚げに箸を伸ばした。テーブルには、唐揚げの他に、お通しのきんぴらゴボウと、枝豆、揚げ豆腐と揚げなすが並んでいた。

「……水川、遅いな」

 ほそく煙を吐き出した雨宮が、ぼそりと言った。

 唐揚げに箸を突き刺すと、衣の一欠片が、テーブルに転がった。

 雨宮は灰を落とすと、ゆっくりとジョッキを持ち上げた。

「……なに、何かあったの?」

「別に。なにもないよ」

「今さら誤魔化すなよ。先月、二人で飯行けるようにしてやっただろ」

 私は伏し目になって視線を移ろわせて見せた。他の同僚だったら誤魔化されてくれたかもしれない。あるいはナンパをしてくるような男だったら。

 でも雨宮はまったくどころか、むしろ苛立った様子を見せた。

「いいから話せよ」

 私は諦めて、雨宮を見た。たぶん睨むような目になっていたと思う。

「今日、水川は来ないんだ」

 雨宮は眉を寄せた。それから少し腰を浮かした。左薬指で指輪が輝いている。

「来るって話じゃなかった? そういうの、ちょっと困る。別に嫌とかじゃないけど、お前と二人きりとかさ――」

「それは、ごめん」

 幸い、雨宮の奥さんは寛容な人で、私との付き合いを容認してくれている。それはきっと、水川もいて、三人でバランスが保たれているからだ。

「でも別に、雨宮のことをどうこうしようってわけじゃないから」

「当たり前だ」

 雨宮は座り直して、揚げなすを器用に分割していくと、一かけを口に運んだ。沁みていた出汁がポタポタと机に垂れた。ゆっくりとおしぼりで拭ってから、雨宮は言う。

「水川だろ。なんで来ないの? 誘ったのも嘘か? いや、さすがにそれはないよな。でも水川が来れないって分かってたなら、桔梗は俺のことを誘わない」

 それはそうだ。三人だから容認される関係で、わざわざその不文律を破ったりしない。

 雨宮は箸を置いて言った。

「っていうことは、誘ったけど、断られてもいなくて、かといって約束を取り付けたわけでもない状態で俺を呼んだんだ。そうだろ」

 同意を求めている風でもなく、ただ確信した様子だった。

「相談事か?」

 私はグラスから手を離して、肘を突いた。

「今日、会社では話せなくて。連絡したんだよ。『終わったら飲み行こ』って。でも、返信がなかった。既読もついてない」

「そうか……」

 雨宮はそれだけで理解したようだ。神妙な面持ちで顎をさすった。

「それは、変だな」

 水川は即レスが基本だ。人からの誘いを無視するなんて、そんなことはあり得ない。少なくとも、仲良くなってから三年間、一度もなかったことだ。

 それに、会社で声をかけられなかったのも不思議だった。確かに最近は忙しそうにしているが、それでも日中に声すらかけられないなんて、そんなことあるのだろうか。

「電話もしたんだけど、繋がらなくて」

「ブロックでもされた?」

 冗談めかした声に、私は息を詰めた。そこまでのことは考えていなかった。でも、そういうことも、あり得るんだろうか。

「……ごめん、今のはデリカシーなかったわ」

 雨宮は煙草に火をつけた。くすんだ煙が漂ってくる。私は手で払った。

「心当たりはないのか? たまたま予定があったとか、帰って寝てるとか、忙しくて体調を崩してるとか……」

 雨宮がそう取りなしてくれる。でも残念だ。雨宮なら事情を知っていると思っていたのに。これでは、私が考えていた通りの結論に達してしまう。

「雨宮もなにも知らないんだ。じゃあ……」

 私は一息で言った。

「私が水川に避けられてるんだ。だからだと思う」

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