ヤドカリ人間
明松 夏
貝殻を探し求めて
私はヤドカリである。
重そうな貝殻を背に乗せて海底を歩く、あのヤドカリである。
──いや、正確に言えばヤドカリのような人間なのである。
「おはよ、あーずさ!」
「うわっ! 朝から驚かせないでよ、もう」
呆れ気味にため息をつく彼女の腕に笑顔で巻き付く。
周りに誰もいなかったようだし、今日も私が一番最初に彼女へ挨拶をした人間となった。
思わず口角が上がる。
”一番”。
ああ、なんていい響きだろう。
朝から騒がしい廊下には目もくれず、梓の声だけ耳に取り入れながら闊歩する。
今日は珍しく寝坊してしまっただとか、髪型が上手く決まっただとか、他愛のない話を添えながら。
教室にたどり着くと、いつもはホームルームギリギリにくる担任が教卓の前に立っていて、梓と私はとたんに離れ離れになった。
それに不安感を覚えながら、仕方なく自らの席に腰を下ろす。
「林、まだ写しおわんねーのかよ」
「待って、あとここだけだから!」
右隣と左隣の男子が、私を挟んで会話をしている。
それだけでもう梓の元へ向かいたくなった。
早くホームルーム始まらないかな。
いたたまれない気持ちになりながら、カバンから筆箱とノートを取り出していると、突然左側の頭に何かが当たった。
さすりながら左を見れば、そこには慌てる林の姿があった。
「うわっ、ご、ごめん! 川田にノート返そうと思って……」
「別に大丈夫」
「何やってんだよ林ー。倉本さんかわいそうだろ」
「だから謝ってるって!」
またもや私を挟んで言い合いをする両隣の男子。
今度は彼らに加えて、近くの男子らも話に入ってきてだんだん声量が上がっていく。
嫌だな、この空気。
私は眉をひそめながら目を逸らし、カバンを机の横にかける。
チラリと梓の方を見ると、あちらも私のことを見ていたようで目が合った。
口パクで大丈夫? と聞いてくる彼女は本当に優しい。
優しくて、愛おしい。
……だからこんなのに付きまとわれるんだよ。
ゆるむ頬に力を入れながら唇を結ぶ。
私は梓に手を振り、ようやく始まったホームルームに耳を傾けた。
「やな感じだったね、朝の」
放課後、掃除の時間。茜色の空から漏れ出る光が彼女を差していた。
舞い上がるほこりが、照らし出される彼女の周りを浮遊している。
「林も周りも、なんでいちいち盛り上げようとすんのかね」
かりん、困った顔してたのに。
ざっざっと荒く掃いていく梓の後ろ姿を見ながら、上がっていく口角を手で覆い隠す。
今、梓は私のために怒ってくれている。
しょうもない日常の一コマに、一生懸命怒っている。
それが可愛くて嬉しくて、照れ隠しに「私には梓がいるからいいもん」とそっぽを向いて言い放った。
その瞬間、教室にチャイムの音が鳴り響く。
「ごめん、なんて言った?」
「……梓が可愛いって言ったの!」
「もう! 絶対違うこと言ったでしょ!」
頬を染め、掃除用具入れを閉める梓に笑いながら、自分の席に向かう。
カバンに持ち帰るものを詰めていると、教室のドアが開く音がした。
「あ」
林だ。
小さくつぶやいた梓は、鋭利な目つきで睨みつけながら私の腕を引っ張る。
どうやら私と林を鉢合わせたくないようだ。
もう彼は教室に入ってきているし、今更遅いとは思うけど。
「あの!」
林の声が響いた。
まさか話しかけてくるとは思っていなかったのか、梓は足を止める。
「あの、倉本さん」
「なに?」
意地でも目は合わせてやらない。
彼に背を向けたまま話を進める。
「今朝のやつ、本当にごめん! 痛かったよね」
「全然。それに、大丈夫だって朝も言ったじゃん」
「でも、目合わせてくれないから怒ってるよなって」
「それは……」
「かりんはもともとこんなだよ。行こ、かりん」
私が言葉に詰まっているのを察知した梓が、無理やり話を終了させて教室から飛び出す。
最後に林が何か言いたそうにしていたが、梓がピシャリと閉めたドアで遮られてよく見えなかった。
学校から出た私たちは、特に寄り道をすることもなく帰路に着いた。
「ねえ、そういえばさ」
梓と私はいつもここでバイバイを言って別れる。
今日もそうだろうと思って足を進めていた私は、止まって夕焼けを背負う彼女の方を振り向いた。
「かりんって、小学校も中学校もこの辺じゃないよね」
「うん。お父さんがよく転勤するから」
うちは父が銀行に勤めていて、昔からよく引越しをしていた。
小学校では二回、中学校では三年生の秋に家が移り変わった。
どれも中途半端な時期に転校したため、一緒に過ごす友達を作るのは本当に大変だったのを覚えている。
「じゃあ、今もその子たちと会ったりするの?」
「いやー会わないよ。だって、どの高校に行ってるかも知らないし、それに……趣味も合わないし」
歯切れ悪くそう伝える。
きっと、私にとって彼女らは、その場しのぎの友達ごっこ要員にすぎなかったのだろうな。
思いながら、なんとなく梓から目を逸らす。
「ふーん、そっかぁ」
梓は頬を緩ませながら、私の首に腕を回してきた。
彼女の方から抱きついてくるなんて珍しい。
びっくりしたまま行き場のない手を浮かせていると、彼女は耳元でささやくように笑う。
「あ、ずさ」
「じゃあね、かりん。また明日!」
綺麗な黒髪が揺れる。
遠のいていく赤色に染まった梓の顔を、背景の夕日が黒く塗りつぶした。
未だ揺らぐ手を浮かせ、呆然と立ち尽くす私に甘い香りを残したまま。
火照る頬に戸惑いを隠せない私を、その場に置いてけぼりにしたまま。
朝、教室に着くと彼がいた。
「あ……おはよう」
ストン、と席に腰を下ろすと、林は気まずそうに周りを見ながら挨拶してきた。
「梓ならいないよ。今日は寝坊したらしいから」
「あ、そうなんだ」
目を合わせないまま教えてあげると、彼はほっとしたように息をつく。
昨日の件で、彼は梓に苦手意識を抱いているらしかった。
私はスクバのチャックをジジーっと開ける。
まだ私と彼しかいない教室はよく音が響く。
課題を進めながら、カバンから荷物を取り出す私の方をチラチラ見てくる彼に「だから昨日のは気にしてないって」と言い放つと、林は図星を突かれた顔でごめんと謝ってきた。
「だから……」
「でも! ……倉本さん、きっと俺のこと嫌いになったよね」
急に大声を出したことにも驚いたが、その後に続いた言葉にはもっと驚いた。
思わず背けていた目を彼に合わせ、見開く。
「別に、私に嫌われても君には関係ないでしょ」
林には友達がたくさんいる。
昨日絡んでいた川田だって、後から加勢してきた男子たちだって、みんな彼の友達だ。
だから私に嫌われても一人になるわけじゃない。
「それは……」
私の言葉に林は口ごもる。
静かな教室には電気がついていない。
おそらく一番最初に来たであろう林が、電気をつけないまま課題に集中していたのだろう。
昨日の放課後と同じように、朝のやわい光に照らされるほこりがひらひら舞っている。
「好きなんだ、俺」
「……は」
「俺、倉本さんのことが好きなんだ」
真っ赤に染まる顔がこちらを向く。
膝の上で作られた拳がフルフル震えていた。
——なんで。いつから。私のどこに惹かれたの。
聞きたいことは山ほどあるのに、口をついて出たのは、
「ヤドカリ」
その一言だった。
林が素っ頓狂な声をあげる。
「私、ヤドカリなの。住処を転々とするヤドカリみたいな人間なの」
小学生の時の図書室で読んだ生き物図鑑。その中にヤドカリはいた。
不思議とその生き物に惹かれた私は、食い入るように説明を読んだ。
ヤドカリは成長に合わせて住処である貝殻を変える。
それは知っていた。けど、それだけじゃない。
彼らは貝殻に対する依存性が強く、時には殻の奪い合いが起きたり、他のヤドカリを殺して住処を奪ったりするらしい。
ヤドカリの腹部は柔らかいので、殻に守られる必要がある。
つまり、生きていくには貝殻が必要不可欠になるのだ。
読んで、私はすぐ自分の説明をされているように思った。
小、中と引越しを繰り返し、その場その場で友達と呼ぶにはあまりにも脆い存在を背負う。
だから私はヤドカリなのである。ヤドカリのような人間なのだと理解してしまった。
最後まで話して、ハッとした。
なんでこんな話、林にしているんだろう。
それも、ヤドカリみたいな人間なんて変な自己紹介までして、きっと変に思われたに違いない。
「今の忘れていいから」
居心地の悪さを感じた私は、それだけ言って立ち上がる。
上履きの音を響かせながら、逃げるように教室のドアに近づいた。
「待って、倉本さん!」
「だからしつこいって……」
「違う! 俺もヤドカリだよ!」
ピタリ。
自然と足が止まった。
急に何を言い出すのかと振り返ると、林が立ち上がって私をまっすぐ見ていた。
「さっきヤドカリが依存とかなんとか言ってたけど、人間も常に何かに依存してないと生きていけないわけで……。たとえば、ゲームとか友達とか。ほら、水や食料だって他人頼りだし。だから、きっとみんなヤドカリだよ。みんな平気なフリしてるだけで、本当は何かに、誰かに依存してるんだよ」
朝の太陽の光だけではやはり教室は暗く、彼の顔は見えない。
けれど、声は確かに優しくてあたたかくて。
「……変なの」
「えっ!?」
まるで一人じゃないと言われているようで嬉しくて、でもそれを彼に悟られるのは癪だからそっぽを向いた。
廊下が騒がしくなってくる。
私はそっとその場を離れると、固まる彼の横を過ぎて自分の席に座り直す。
「課題やらないの?」
「あっ、やる、やるよ!」
慌てて着席する林は何か言いたげにこちらを見ていたが、彼の仲の良い友達が教室に入ってきたため、言葉は続かなかった。
私はまだ来る気配のない梓をぼんやりと待つ。
口元にやんわり弧を描きながら。
私はヤドカリである。
住居を転々とし、一人にならないために、生きていくために貝殻を探す。
人間は決して一人では生きていけない。
何かに依存していなければ生きていけないのである。
だから、結局はみんなヤドカリなのだ。
私も、林も梓も。
人間であるがゆえにヤドカリなのである。
ヤドカリ人間 明松 夏 @kon_00
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