第33話

私は深呼吸を繰り返しながら、評議会の会議室に足を踏み入れた。円形のテーブルを囲む他の評議会メンバーたちの表情は、すでに緊張感に満ちていた。彼らの目には、これから始まる議論の重要性が映し出されているようだった。


私は自席に着くと、ゆっくりと視線を巡らせた。経済部門代表のマーカス・リーン、思想統制部門代表のエリザベス・ヴァン、人工知能部門代表のアレックス・チェン、そして...官僚機構代表のレイナ・コーテス。彼女の鋭い眼差しが私に向けられ、一瞬たじろぎそうになる。しかし、私はすぐに気を取り直した。今は感情に流される時ではない。


「アリスト博士」研究開発部門統括のヴィクター・ラムゼイが口を開いた。「今回の緊急会議の議題について、説明をお願いします」


私は喉を軽く鳴らし、声を出した。「はい。本日は、複数の緊急事態について報告させていただきます。まず、南極大陸で発見された未知の微生物群の急激な増殖について...」


私は淡々と、しかし緊迫感を込めて説明を続けた。南極の微生物群、北極圏でのメタンハイドレート解離、地球磁場強度の変動。それぞれの問題が、テラ・リフォーミングプロジェクトにとってどれほどの脅威となりうるか、詳細なデータと共に説明していく。


説明を進めるにつれ、評議会メンバーたちの表情が変化していくのが見て取れた。マーカス・リーンは眉をひそめ、計算機を叩いているように指を動かしている。エリザベス・ヴァンは冷たい目つきで私を見つめ、時折メモを取っている。アレックス・チェンは無表情を保っているが、その目は激しく動いていた。


そして、レイナ・コーテス。彼女は終始、微動だにせず私の説明を聞いていた。その態度に、私は不安を覚えずにはいられなかった。


「...以上が、現在直面している緊急事態の概要です」私は一息つき、言葉を続けた。「しかし、これらの問題に加えて、さらに重大な事態が発生しています」


私はゆっくりと息を吐き出し、最後の札を切ることにした。「47X29B...通称ナオキと、彼の同行者たちに関する問題です」


その言葉に、会議室の空気が一変した。


「具体的には」私は慎重に言葉を選びながら続けた。「ジェンキンスの記憶が...徐々に回復しつつあるという事態です」


レイナ・コーテスの目が、わずかに細まるのを感じた。


「これは極めて深刻な問題です」私は声に力を込めた。「ジェンキンスが保有していた機密情報の漏洩リスク、そしてそれがプロジェクト全体に及ぼす影響を考慮すると...」


私は一瞬言葉を切り、全員の反応を確認した。レイナ以外のメンバーたちの表情に、動揺の色が見えた。


「...47X29Bと、その同行者たちの即時排除を提案します」


その言葉を聞いた瞬間、レイナ・コーテスが立ち上がった。「待ちなさい、アリスト博士」彼女の声は冷たく、鋭利な刃物のようだった。「その提案は、あまりにも性急ではありませんか?」


私は内心で舌打ちした。予想通りの反応だ。しかし、ここで引くわけにはいかない。


「コーテス代表」私は冷静を装いながら返した。「この事態の深刻さをご理解いただけていないようですね。ジェンキンスの記憶回復は、単なる偶然ではありません。これはシステムの欠陥、あるいは...」


私は言葉を選びながら続けた。「...意図的な操作の結果である可能性が高いのです」


その瞬間、レイナの目に怒りの炎が灯った。「アリスト博士、あなたは今、私の部署の決定を疑っているのですか?」


「疑っているどころか」私は冷笑しながら言った。「確信しています。コーテス代表、あなたはジェンキンスの追放に際して、不完全な記憶抑圧を意図的に行ったのではありませんか?」


会議室に、重苦しい沈黙が降りた。


レイナは、まるで氷の彫像のように冷たい表情で私を見つめた。「その発言は、重大な告発ですね、アリスト博士。証拠はあるのですか?」


「直接的な証拠はありません」私は認めた。「しかし、状況証拠は十分です。記憶抑圧プロトコルの不備、ジェンキンスの異常な早さでの記憶回復...これらは全て、あなたの意図的な操作を示唆しています」


レイナは、ゆっくりと私に近づいてきた。その姿は、まるで獲物に忍び寄る捕食者のようだった。


「アリスト博士」彼女の声は、柔らかいが、それでいて威圧感に満ちていた。「あなたこそ、このプロジェクトに対して不適切な影響を与えているのではありませんか?過度な管理体制、柔軟性の欠如...これらがプロジェクトの進展を妨げているのです」


私は、思わず後ずさりしそうになった。しかし、ここで引くわけにはいかない。


「私の管理体制に問題があるというのですか?」私は声を張り上げた。「人類の存続がかかったプロジェクトです。慎重すぎることなどありません」


「慎重さと硬直化は違いますよ、アリスト博士」レイナは冷ややかに言った。「あなたの頑なな態度が、新たな可能性を摘み取っているのです」


私たちの言い争いは、まるで激しい剣戟のように会議室に響き渡った。他の評議会メンバーたちは、その様子を固唾を飲んで見守っていた。


「十分です!」


突如として、ヴィクター・ラムゼイの声が響いた。


「お二人とも、冷静になってください」彼は厳しい口調で言った。「この相互非難は、何の解決にもなりません」


私とレイナは、まるで叱られた子供のように黙り込んだ。


「現時点では」ヴィクターは続けた。「ジェンキンスの記憶回復の原因を特定することは困難です。彼の脳を直接解析しない限り、どちらの主張も証明できません」


その言葉に、私もレイナも反論の余地がないことを悟った。


「では、具体的にどうすべきだというのです?」エリザベス・ヴァンが口を開いた。「このまま彼らを放置するわけにはいきません」


私は深く息を吐き出し、次の一手を考えた。即時排除は難しいようだ。しかし、何らかの対策は必要だ。


「隔離処理を提案します」私はゆっくりと言った。


「隔離処理?」マーカス・リーンが眉をひそめた。「具体的には?」


私は慎重に言葉を選びながら説明を始めた。「時空間制御技術を用いて、局所的に空間を断絶します。これにより、各種電磁波や粒子の移動を阻害し、外部との物理的な接触を完全に遮断します」


「しかし」私は続けた。「量子エンタングルメントによる干渉は維持されます。つまり、彼らとの交渉の術は残されているということです」


評議会メンバーたちの間で、小さなざわめきが起こった。


「その技術の詳細を教えてください」アレックス・チェンが口を開いた。


私は深く息を吐き出し、説明を始めた。「隔離処理の核となるのは、超対称性粒子を用いた量子重力場生成装置です。これにより、ミクロスケールでの時空の曲率を操作し、マクロな空間に影響を与えます」


「具体的には」私は続けた。「まず、対象領域の周囲にフェムト秒パルスレーザーによる高エネルギー場を形成します。これにより、一時的に局所的な真空の性質を変化させます。その瞬間に、予め用意した超伝導リングに強力な磁場を発生させ、量子重力場生成装置を起動します」


「装置が起動すると、周囲の時空に微細な歪みが生じます。この歪みは、通常の物質やエネルギーの通過を妨げますが、量子もつれ状態にある粒子対の相関は維持されます。これは、アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンのパラドックスに基づく現象で...」


「十分です、アリスト博士」ヴィクターが私の説明を遮った。「技術的な詳細は後ほど資料で確認します。問題は、この処置の実行可能性と影響です」


レイナが口を開いた。「その隔離処理には、膨大なエネルギーが必要になるのではありませんか?財政的な問題も無視できません」


私は頷いた。「おっしゃる通りです。しかし、現時点での最善の選択肢だと考えています」


「では」ヴィクターが言った。「この提案について、評議会としての判断を下しましょう」


緊張感が会議室を支配した。各メンバーが、慎重に考えを巡らせている様子が見て取れる。


「私は賛成です」エリザベス・ヴァンが最初に口を開いた。「リスク管理の観点から、これは妥当な処置だと考えます」


「反対です」マーカス・リーンが首を振った。「コストが高すぎます。他の選択肢を模索すべきです」


アレックス・チェンは、しばらく沈黙した後で言った。「条件付きで賛成です。ただし、エネルギー消費の最適化と、交渉プロトコルの明確化が必要です」


全員の視線が、レイナ・コーテスに向けられた。


彼女はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。「財政やエネルギーの問題は確かに懸念されます。しかし...」彼女は一瞬言葉を切り、私をまっすぐ見つめた。「期間を限定し、彼らとの交渉を進めることを前提とするのであれば、承認します」


私は、思わずため息をついた。予想外の展開だった。レイナの真意は測りかねるが、少なくとも当面の危機は回避できそうだ。


「では」ヴィクターが宣言した。「隔離処理の実施を、評議会の決定とします。アリスト博士、具体的な実施計画を至急策定してください」


「はい」私は深く頷いた。「承知しました」


会議が終わり、私は重い足取りで部屋を後にした。廊下に出ると、後ろから声がかかった。


「アリスト博士」


振り返ると、レイナ・コーテスが立っていた。


「見事な説得でしたね」彼女は微笑んだ。その笑顔に、私は一瞬戸惑いを覚えた。


「ありがとうございます」私は慎重に答えた。「あなたの協力にも感謝します」


レイナは、まるで何かを見透かすように私を見つめた。「このゲームはまだ始まったばかりですよ、アリスト博士。お互い、気を抜かないようにしましょう」


そう言うと、彼女は颯爽と立ち去っていった。その背中を見送りながら、私は複雑な思いに駆られた。


テラ・リフォーミングプロジェクト。人類の存続をかけた、この壮大な計画。そして、その陰で蠢く様々な思惑。


私は深いため息をついた。ナオキたちの隔離処理。ジェンキンスの記憶。レイナ・コーテスの意図。そしてナオキたちとの交渉。新たな局面を迎えたテラ・リフォーミングプロジェクト。その先には、一体何が待っているのか。


私は再び深呼吸をし、研究室への歩みを進めた。人類の存続という大義のために。たとえ、予期せぬ結果をもたらすとしても。

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