1話 海の見える街、金がない


「……ほぇっ」


 ぱちん、と女は瞼を開けた。

 ああ、昔の夢を見ていたのだ。まだ戦乱の色が濃い日々の夢。椅子に座ったまま微睡んでいたからか。嫌な夢だった。

 ……部屋の空気が、こもっている。

 そう思い至って、女は窓を開け放った。


 海辺の街に、朝日が昇る。

 陸から海に向かって吹く風は、冬の匂いを孕んでいる。

 街の片隅にある安宿屋の二階。女は窓の外を、ぼんやりと眺める。

 開け放した窓の桟に気だるげにもたれ、ぼんやりとした表情で毛布にくるまった。


「……来ないな、お客」


 女は、ほそりと呟いた。

 麦金色の猫っ毛が、開け放った窓から拭き込む寒風に揺れている。

 すみれの砂糖漬け色の瞳が、朝靄にけむる海街をアンニュイに見下ろしている。


「さむっ。お金がないと、寒さが身に染みるねー……って、おっと」


 びゅう、と一際強く拭き込んだ風に、室内だというのに目深に被っている大きなつば付き帽子を飛ばされそうになって、女は慌てて両手で帽子を押さえた。

 そのとき。

 ガチャッと大きな音をたてて、ドアノブがまわった。


「おはようございます、アンバー」


 アンバーと呼ばれた女は、振り返る。

 ノックもなくアンバーの部屋に入ってきたのは、彼女よりも十才ほど若い少女だった。

 白いブラウスに、サロペットつきのハーフパンツ。サイズの大きすぎるモッズコートを羽織っている。冬の早朝に海街を歩くには薄着だ。

 指ぬきのグローブをはめた手には、紙袋が握られている。


「なんだぁ、ジィナかー」

「お客ではなくて、残念でしたね」

「マジでそう。このままじゃ貧困のうちに死すだよ」


 少女──ジィナは、手にしていた紙袋を簡素なテーブルに置く。


「港町はいいです。よそ者でも、朝から食事の調達に困らない」

「お金さえあればねー」


 この街は早朝から、屋台から湯気が上がっている。

 夜明け前から人々が働く港町ならではの風景だ。


「漁師というのは大変だよね」

「お金を稼ぐというのは、大変ですよ」

「うっ」

「少なくとも、宿屋で寝ていてはお金は稼げませんよ。アンバー」


 ド正論である。

 アンバーはむぐうっと唸る。


「ああ、もう! 今は寒い中で漁に出る人たちに感謝しようよー!」

「論点ずらしですか」


 ジィナが「まあ、いいでしょう」とため息を吐く。


「昨夜もずっと、漁火いさりびを眺めていましたね。アンバー」

「……うん。人の営みは美しいから」


 数秒の沈黙のあと、ジィナが重々しく切り出した。


「もう、この街に逗留して三週間。支払が膨らんでます」

「うん。それは参ったねー」

「アンバーがひとりで何人前も食べるからです」

「う、うん。でもジィナが食べないから、帳尻は合うでしょ」

「……明日には支払額がアンバーの所持金を越えます、精算しないのですか?」

「ない袖は振れないよ」

「袖を作ってください。魔術を使って日雇い労働でもすればいいじゃないですか」


 窓の外に視線を戻しながら、アンバーが呟いた。


「……私が町から町を移動するのは、手紙を届けるときだけだ」

「妙な行動規範ですね」


 ずっと訊こうと思っていたのですが、とジィナが付け加える。


「それ、どうしてなんですか?」

「私がそういう風に、決めているから」

「……はあ」

「この答えじゃ、不服?」

「いえ。でも、道理が通りません。破産の危機ですよ」


 アンバーは室内であるにも関わらず被っているつば付き帽子のポジションを整えて、ちょっとだけ胸を張る。


「通らない道理を通すのが、魔女というものだからね」


 アンバーはそう返答し、ジィナは沈黙する。

 沈黙を破ったのは、あきれ果てた声色だった。


「……まったくもって、あんあんだーすたーんだぼー」

 

 魔女。

 かつて、この世界にあまねく存在した魔法を司る存在。

 『イカイ』からの侵略者を退け、世界を守った者たちの通り名だ。

 アンバーはその生き残り。古式ゆかしいつば付き帽子を愛する魔女である。


「それにしても、どうして依頼がないんだろ」


 アンバーが物憂げに嘆息する。


「ああ、それは──」


 ジィナが紙袋から揚げ菓子を取り出す。

 ふんわり丸くて、蜜と砂糖がたっぷりかかっている。朝から働く湾岸労働者の味方だ。


「──張り紙、剥がれてましたから」


 窓の外を眺めていたアンバーが、驚いた顔で振り返る。差し込んだ朝日が麦金色の髪をまばゆく照らした。


「……まじ?」

「まじです」


 揚げ菓子をアンバーの目の前に突き出しながら、ジィナが頷く。

 

「それ、いつから?」

「さあ。少なくとも、三日ほど前には」

「教えてよ、それ」

「命じられてませんので。そもそも、アンバーがちゃんと外出していれば気づいたはずです」

「……むぅ」

 

 ぐうの音も出なくなったアンバーは、差し出された揚げ菓子に無言で齧りついた。


「この海風で飛ばされたのかなー……」

「張り紙でしたら、また貼ればいいです」


 アンバーが揚げ菓子を食べている間、ジィナは宿の食堂から貰ってきた熱い紅茶を飲む──そうして、すっかり日が昇った頃。



「あのぅ。失礼いたします」


 安宿を訪ねる者があった。

 ショールを羽織った老齢の女だ。疲れた目をしている。


「この紙が風に飛ばされてきたんです」


 老女の手には、海風に晒されて少しだけ草臥れたチラシが握られている。

 アンバーが安宿に掲出した張り紙だ。


「……魔女の手紙屋というのは、こちらでしょうか」


 アンバーは立ち上がる。


「ああ、いかにも」


 口の端に揚げ菓子の砂糖をつけたまま、鷹揚に頷いた。

 ──手紙の魔女。それがアンバーの二つ名だ。


「私は魔女のアンバー。こっちは助手のジィナ」


 ショールの老女が差し出した張り紙には、この部屋番号のほかには短い文だけが書いてある。


──『魔女の手紙屋 宛てなき手紙、届けます』。

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手紙の魔女の終わらぬ旅路 蛙田アメコ @Shosetu_kakuyo

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