海は広いな大きいな
あれは、わたしが七歳、エヴァンが九歳の夏だった。
「海に行くの!?」
「うん……」
わたしたちが住むカントベリーは内陸にある。
エヴァンの家で海の魚をご馳走になったことがあるけれど、まだまだ海産物は高級品。
魚料理なんて、わたしの両親も数えるほどしか口にしたことがなかった。
「すごい! 楽しみだね!」
「……」
しかもロイド家が行くのは、観光地として有名なハーベイ。
カントベリーからだと、馬車で五日、もしくは汽車で一日かかる距離だ。
姉の嫁ぎ先であるウェステンドも、ここから馬車で五日の西海岸沿いの街だけど、鉄道は通っていない。
夫人は何日も馬車に揺られるのを嫌いそうだし、きっと汽車で行くに違いない。
海も汽車も経験したことがないわたしは、想像を膨らませた。
興奮するわたしとは対照的に、エヴァンの表情は暗い。
「あれ? もしかしていやなの?」
「行きたくない……」
わたしなんて行きたくても行けないのに、なんて贅沢なんだ……と思った直後に、ハッとした。
わたしがイメージする海は、絵本に描かれていたイラストが元だ。
どこまでも広がる海面に、周囲は草一本生えていない砂だけの地面が広がっていた。しかもなんとこの砂の中には、綺麗な貝殻がたくさん埋まっていて、拾い放題らしい。いいの!?
だが重要なのはそこじゃない。
そのイラストには燦々と輝く太陽も描かれていた。
だだっ広くて、日陰を作ってくれるものがない場所なんて、エヴァンの大敵だ。嫌がるのも無理はない。
それなのに、わたしときたらエヴァンが羨ましくて、彼の反応を我が儘だと思ってしまった。友達失格だ。
「そっかぁ、こまったね」
「ティナと会えないなんていやだよ」
「わたしもエヴァンとあそべないのはさみしいけど、大人にはさからえないよね」
いつの間にかエヴァンは、わたしのことを「ティナ」と相性で呼ぶようになっていた。
両親は「クリス」と呼ぶので、統一した方が反応に困らないのだが、エヴァンは「他の人と一緒は嫌だ」と謎のこだわりを発揮した。
わたしたちは子どもだ。
親が行くと決めたら、ついていくしかない。
でもエヴァンが辛い思いをすると分かっているのに、仕方ないねで済ますことなんてできない。
「あっ、いいこと思いついた! わたしに任せて!」
「ティナ?」
きょとんと見上げるエヴァンを置き去りにして、わたしはロイド邸を飛び出した。
*
「お父さま! エヴァンといっしょに、おばさまのところに行きたい!」
「アリアドネのところかい?」
「うん!」
「あの子の体質について、うちは不慣れだからなぁ。あちらの家の人がついてくるなら、構わないよ」
「ほんと!? いいの!?」
「ご両親の許可があることが前提だよ」
「うそじゃないよね!!」
「あ、ああ……」
湖畔にある叔母の家までは、馬車で半日。
標高が高く、木々に囲まれているので避暑地として、富裕層の別荘が点在している。
これなら海の代わりとして、申し分ないだろう。
子どもでは大人に対抗できないなら、大人には大人をぶつけるべし。
前に夫人はご近所付き合いを気にしているようなことを言っていたし、我が家から誘えば応じてくれるに違いない。
エヴァンの家は、ロイド卿よりも夫人の方が強い。
奥さんが強い家のことを「かかあ天下」と呼ぶらしいけど、きっとそれだ。
夫人さえ説得できれば、目的は達成できる。
しかもエヴァンだけで充分だったのに、父は家の人――エヴァンの両親まで誘う許可をくれた。
叔母の家は広いので、エヴァン一家が止まっても部屋は足りる。
今ではあの時の言葉は、使用人を指していたのだとわかる。
叔母からしたら、縁もゆかりもない一家が家に滞在するなんて迷惑以外のなにものでもないのに、七歳児にそこまで気がまわるわけもなく。
父から言質をとったわたしは、部屋にこもって準備を始めた。
*
「――ティナ? 何してるの?」
わたしが遊びに行かないものだから、エヴァンの方から家にきた。
この頃のエヴァンは、わたしの家くらいなら気軽に足を運ぶようになっていた。
「海に行かなくてすむ方法! ……あとちょっとで完成するの」
「ぼくにできることある?」
「これに色ぬって! ここがみどりで、ここは水色ね。森とみずうみだから」
エヴァンに色の指定をして、わたしは再び広げた紙に覆い被さった。
*
「ロイド家のみなさまを、すてきな『みずうみ』の旅に、ごしょうたいします!」
何を言ってるんだこの子は、という顔をした夫人にわたしは胸を張った。
今はまだ実感できないだろうが、この先の話を聞けば、きっと行きたくなるに違いない。
一枚目の紙を取り出す。
赤い屋根をした屋敷が大きく描かれている。家の前には叔母夫婦、ラザラス一家、ロイド一家が笑顔で並んでいた。
「おばさまの家はとっても広くて、夫人もかいてきに過ごせます」
「え? あなたの親戚の家?」
「お父さまが、いいって言いました」
「本当かしら……」
疑うのも無理はない。わたしも太っ腹すぎてびっくりした。
「家のそばにある、みずうみはお金持ちに大人気です。お部屋のまどから、ボートが見えます」
二枚目の絵はエヴァンにぬってもらったやつだ。
湖と周囲の森が描かれている。しまった、ボートを書き忘れた。
「お魚は食べられないけど、『山のさち』がたくさんあります」
家の近くの湖は、食用の魚がいない。釣りを楽しむ人たちは、釣り上げた魚を持ち帰らずに逃がしている。
自分で言っておきながら、実は山の幸がなんなのか知らないので、知っている食べ物について力説した。
三枚目は、りんごとパンの絵だ。
「なんとリンゴのパンがあります。ジャムをつけなくても、甘くておいしいです。おやつとごはんをいっぺんにできるので、お特です」
叔母の家では、長期保存のために蜂蜜漬けにしたドライフルーツを、パンに混ぜ込んでいた。
生地自体がほんのり甘くて、宝物のようにリンゴの果肉が埋まっている。
1個のパンにつき、リンゴ3個が平均だが、たまに数が多いものに当たったら、その日は一日中幸せな気分になれる。
きっとしかめ面な夫人も、笑顔になるに違いない。
「リンゴの他にも、ナッツとか甘いパンは色々あります。……えっと、おやつも別にちゃんとあります」
「……」
「その……海とはちがって、……まぶしくないし、日かげが多いので、……エヴァンも楽しいと、思います……」
おかしい。計画では、もっと乗り気になってくれるはずだったのに。
尻すぼみになるわたしに、夫人はため息をついた。
「……そういうことね。ハーベイ行きは仕事も兼ねているから、変更できないの。この子のことが気になるなら、あなたも一緒にいらっしゃい。いつものように二人で時間を潰してくれると助かるわ」
「え!? いいんですか!?」
(やった!)と浮き足だったが、(いやいやダメじゃん、失敗だよ)と思い直す。
そもそも叔母の家に誘ったのは、エヴァンが海と相性が悪いからだ。
わたしが行ったところで、問題は解決しない。
「おさそいはうれしいんですが……」
断腸の思いで断る。
仕事なら夫妻のハーベイ滞在は決定だ。
でも暇つぶしの相手にわたしを連れて行こうとするなら、二人はエヴァンに構っていられないんだろう。
なら当初の計画通り、エヴァンだけでも叔母の家に連れて行けないだろうか。
「ぼく、ティナといっしょに行きたい!」
「――――え?」
あれ? エヴァン、海が嫌なんじゃなかったの??
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