短編 よくデルケチャドン

とある蒸し暑い熱帯夜、喧騒が絶えない街の一角に、古びたビルが立っていた。その中にある一室は、終わりのない執筆に追われる一人の科学者によって占拠されていた。彼の名は葉山悠一郎。かつては天才と呼ばれた彼も、今では世間から忘れ去られ、鬱屈した日々を送っている。だが、彼はまだ燃えていた。人類の未来を変える発明に。


深夜、編集者の佐藤は重い足取りでビルの階段を上がっていた。汗ばむシャツを拭いながら、彼はドアの前に立ち、呼び鈴を押した。


「先生、できましたか?」佐藤の声は疲れ切っていたが、希望を込めて尋ねた。


「え、マジか?タイ・ヘン・ダ!」葉山は驚いたように返事をした。


「今、書いてます!」葉山は急いで言葉を付け加えたが、その声には焦りが滲んでいた。


佐藤はため息をつき、ドアを叩いた。「先生、まだですか?」


「もうすぐ〜」葉山の声はどこか間の抜けた響きを持っていた。


しばらくの沈黙が続いた後、再び佐藤は呼び鈴を押した。「先生〜、先生〜」


葉山は明らかに焦っている様子で、「もうすぐだってばぁ」と応じたが、言葉は虚ろだった。


佐藤の忍耐が限界に達し、指をボキボキと鳴らしながら、ドアを叩き続けた。「先生!書かないと来週で打ち切りですよ!」


その瞬間、葉山の内心に冷たい現実が刺さった。自分の研究と執筆が終わらなければ、すべてが終わる。その恐怖に駆られた彼は、急いで原稿を仕上げようとした。


「もうすぐ、もうすぐできます…」葉山は自分に言い聞かせるように呟いた。


佐藤は激しくドアを叩きながら、叫んだ。「先生!」


「すいません、もうちょっと…」葉山は言い訳を続けたが、その言葉は虚ろだった。


突然、ドアが開く音がした。佐藤は驚いて後ろに下がった。そこには葉山が立っていた。彼の顔は汗でびしょびしょで、目は充血していた。だが、手には一枚の原稿が握られていた。


「…で、で、できましたぁ…」葉山は震える声で言った。


佐藤は原稿を受け取り、急いで内容を確認した。しかし、その瞬間、彼の表情は凍りついた。紙に書かれていたのは、意味不明な文字の羅列と、奇妙な図形ばかりだった。


「先生、これは…?」佐藤は戸惑いを隠せずに問いかけた。


葉山は疲れ切った笑顔を浮かべ、「これが、未来を変える薬物だ…」と呟いた。


佐藤は絶句した。この原稿は単なる論文ではなかった。葉山が長年執着してきた「人類の進化を促す薬物」の設計図そのものだったのだ。


「これで、世界は変わる…」葉山は放心したように呟き、倒れ込むように床に座り込んだ。


佐藤はその場で呆然と立ち尽くした。彼が手にしているのは、ただの原稿ではなく、世界を揺るがす可能性を秘めた禁断の知識だった。そして、その重みを実感した瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。


「先生…これを、どうするつもりですか?」


「…世に出すんだ。これが人類の新たな未来だ…」葉山の声は消え入るようだったが、その目は狂気に輝いていた。


佐藤は原稿を手に持ちながら、激しく心を揺さぶられた。このままこの知識を世に送り出してしまうのか。それとも、このまま封印してしまうべきか。彼の頭の中で、無数の葛藤が渦巻いていた。


その夜、蒸し暑い熱帯夜の街で、佐藤は人生の岐路に立たされていた。







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