第2話 これでまた…

中村洋介は、どれくらいの時間が経ったのかもわからないまま、朦朧とした意識の中で目を覚ました。部屋は真っ暗で、窓からはかすかに街灯の光が差し込んでいたが、それだけでは闇を払いきれない。洋介は枕元に置かれた小さな袋に手を伸ばし、すぐに粉を手に取ると鼻に吸い込んだ。途端に、体中に駆け巡る熱と共に、頭が浮かぶような感覚が蘇った。


「これでまた…」


しかし、その一瞬の快感が消え去ると同時に、現実の苦痛が襲いかかってきた。洋介は、体の震えと共に心の底から湧き上がる恐怖に耐えながら、部屋の中を歩き回った。足音がやけに大きく響き渡るのは、幻聴なのか、それとも現実なのか。自分の感覚すらも信じられなくなっていた。


暗闇の中で、洋介は再びその声を聞いた。


「誰かが…笑っている?」


不気味な笑い声が、どこからか聞こえてきた。部屋の隅、天井、あるいは自分の背後から。洋介は恐る恐る振り返ったが、そこには何もない。いや、何も「見えなかった」だけなのかもしれない。自分の脳が何かを拒絶しているように感じた。再び声が聞こえる。


「見つめているのは誰なんだ?」


洋介は恐怖で身を震わせ、視線を四方に巡らせた。しかし、目の前にあるのはただの家具や雑多に散らばった衣服だけだった。それでも、彼は誰かの視線を感じずにはいられなかった。その視線はまるで彼の心の中を覗き込んでいるかのようで、その存在が不気味でたまらなかった。


やがて洋介は、笑い声や囁き声が頭の中で響き続けるのに耐えきれなくなり、思わず耳を塞いだ。だが、それでも声は止まらない。むしろ耳を塞ぐことで、声がさらに大きく、鮮明に感じられるようになった。


「逃げる場所が…ない…」


洋介は無意識のうちに言葉を漏らした。彼の心の中で、逃げ場のない恐怖が膨れ上がり、全身を支配していた。声が彼を追い詰めるように増していく。


「追われる、追われる、追われる…」


その言葉が頭の中でエコーのように繰り返され、彼の理性を徐々に崩壊させていった。何もかもが彼を取り囲み、追い立てるように感じた。逃げ場を求めて洋介は部屋を飛び出し、夜の街へと駆け出した。


街は真夜中にもかかわらず、まだ少しだけ人通りがあった。だが、洋介の目には、そのすべてが歪んで見えた。すれ違う人々の顔は無表情で、彼を見つめる目が冷たく光っているように感じた。まるで彼を嘲笑うかのような視線が、洋介の心をさらに追い詰めた。


「何もかもが…おかしい…」


彼は自分の胸を押さえ、息を荒げながら歩き続けた。頭の中では絶えず笑い声が響き、どこかから囁き声が聞こえる。道端に佇む人影が洋介を見つめているように感じ、そのたびに彼は恐怖で足を止めた。


「誰なんだ…? 何が…何が聞こえているんだ?」


目の前の光景が急に歪み、街灯の光がぎらぎらと輝き出した。視界の端で、影のようなものが動いた。それが人なのか、ただの幻なのかすらわからない。だが、洋介にはその影が自分に向かって歩み寄ってくるように見えた。


彼は目をこすり、何度も瞬きをした。しかし、影は消えず、むしろ近づいてくる。そして、その影から再び笑い声が響いた。恐怖に駆られた洋介は、その場から逃げ出した。


「いやだ…いやだ…!」


彼は無我夢中で走り続けた。どこに向かっているのかもわからない。ただ、逃げなければならないという衝動だけが彼を突き動かしていた。道がどんどん細くなり、ビルの隙間に追い込まれていくような感覚が彼を襲った。


ついに洋介は狭い路地裏に迷い込んだ。そこは人の気配がなく、冷たい夜風が吹き抜けるだけの場所だった。しかし、彼にはその場所すらも安全ではないように感じた。心臓が激しく脈打ち、全身が震え出した。


「逃げられない…」


洋介は背を壁に預け、座り込んだ。頭の中で声が響き続ける。どす黒い笑い声、嘲笑、そして囁き声。それらが混ざり合い、彼の意識を塗り潰していく。彼の視界は徐々にぼやけていき、現実感がますます薄れていった。


そして、彼は気づいた。笑い声の正体は、彼自身の狂気から生まれたものだということを。


「もう…逃げられない…」


洋介は目を閉じた。その瞬間、何かが彼の体を包み込むような感覚が広がった。温かく、そして重苦しい感覚。それはまるで、彼を現実から引きずり込もうとする深い闇のようだった。


彼の意識は次第に薄れ、やがて完全に闇の中へと沈んでいった。最後に聞こえたのは、再び響くあの笑い声だった。どこまでも、どこまでも追いかけてくる声が、彼の全てを飲み込んでいった。


「追われる…追われる…」


その言葉を最後に、洋介の意識は完全に途絶えた。闇の中で、彼は一人きりになり、何もかもが終わりを迎えた。


しかし、その闇の中で、彼はまだ何かを見ていた。それは幻か、それとも現実か。誰もそれを知ることはできない。ただ、彼の心の中で、笑い声だけが永遠に響き続けていた。

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