わら得る

白雪れもん

第1話 追われる、追われる、追われる…

中村洋介は、典型的なサラリーマンだった。都内の中堅企業で営業職として働く彼は、社内でもそこそこ評価される存在で、家庭では二人の子供を持つ父親だった。しかし、日常の中での微細なストレスや不満が積み重なり、心の中に隙間を生じさせていった。


朝、洋介は通勤電車の中で、周囲にいる他の乗客たちをぼんやりと見つめていた。疲れた顔、無表情の目、誰もが同じように生きているように見えた。しかし、その中で自分だけが何かを失っているような感覚が、次第に彼を苛んでいった。


職場では、同僚たちとの会話が徐々に表面的なものになり、家では妻との関係も冷え切っていた。洋介は次第に自分が周囲から孤立しているように感じ始めた。夜遅くまで残業を続け、帰宅後も酒を飲むことで、現実から逃れるようになった。しかし、それでも心の中の空洞は埋まらなかった。


そんなある日、洋介は偶然にも大学時代の友人・篠田と再会する。篠田はかつては明るく、社交的な性格だったが、再会した彼はどこか影のある表情を浮かべていた。それでも、懐かしさから洋介は篠田と飲みに行くことにした。


居酒屋での会話の中で、篠田は自分が最近ハマっている「楽しみ」を洋介に勧めてきた。それは一度の摂取で、ストレスや不安を忘れさせてくれるという薬物だった。篠田は、ただのリラクゼーションの一環だと軽く言ったが、洋介は最初こそ断るものの、心のどこかで興味を抱いてしまう。


「一度だけ試してみろよ」と篠田が囁く。


その夜、洋介は一晩中眠れなかった。日々のストレス、家族との距離感、職場での孤独感。それらが彼の心に重くのしかかり、篠田の言葉が頭の中を何度も反芻された。そして翌日、洋介は再び篠田に連絡し、ついにその「楽しみ」を試すことに決めた。


薬物を手に入れた洋介は、心の中で何かが変わる瞬間を感じた。最初の一服で、彼の体中に暖かさが広がり、頭の中が一気に軽くなった。すべてがどうでもよくなり、悩みや不安が霧の中へと溶けていった。


数日後、洋介は再び薬物に手を伸ばしていた。最初の時よりも少しだけ多めに摂取し、その快楽に溺れていった。現実の重圧から解放される感覚が、彼を虜にしていた。


しかし、それは次第に洋介の生活全体に影を落としていく。仕事中に集中力を欠き、家族との会話も途切れがちになった。薬物が切れると、急に現実が押し寄せてくるようになり、彼はその苦しみから逃れるために、さらに薬物に依存するようになっていった。


ある夜、洋介は幻覚を見るようになった。暗い部屋の隅で、誰かが自分を見つめているような感覚に襲われた。振り返ると誰もいない。しかし、その視線を確かに感じる。そして、その時から、彼の耳には囁き声が絶えず聞こえるようになった。


「いったい何が聞こえているんだ…?」


洋介は頭を抱え、薬物を再び摂取することでその声を追い払おうとした。しかし、声は次第に大きくなり、笑い声や足音まで聞こえてくるようになった。彼は自分が何かに追われているような錯覚に陥り、逃げる場所を求めて部屋中を彷徨った。


「誰なんだ、今笑っているのは? 誰なんだ、今見つめているのは?」


答えは見つからない。洋介は狂気の渦に巻き込まれ、現実と幻覚の境界が完全に崩れ始める。薬物の力で一時的に現実から逃れた代償として、彼は心の深層に潜む恐怖に囚われるようになってしまった。


洋介は薬物の依存から逃れることができないまま、追われる日々が始まった。自分自身の心の闇に飲み込まれていく彼の姿は、まるで影に追い立てられるようだった。


そして、彼の耳には絶え間なく囁き声が響き続けていた。


「追われる、追われる、追われる…」

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