第六話 屍者たち

 がさっ。

 桂は、思わず足を止める。

 今、何かが落ち葉を踏むような音が――。

 桂は周囲を見回して、息をむ。

 ――まずい。


 走っているうちに、桂たちは林の中を通る道に出ていた。夜をまたがずに新居へ向かうには、この道しか無いのだが――。

 この位置では、木々の後ろに太陽が隠れてしまう。

 屍者は、日の光が一切当たらない、夜のように暗い場所なら、どこでも動くことができる。


「掴まれ紫音!」

 怒鳴どなると同時に、桂は地面を蹴った。

「のぅわぁ~~~~~~っ!」

 紫音が後ろの荷台で叫んでいるが、楽しんでいる様子だ。大丈夫。

 だが、状況は大丈夫ではない。


 がさ、さっ。

 ばき、ばきっ。

 ざり、り……。

 ひゅごおおおぉぉぉぉ……。


 動物が動くような音に加えて、何か湿った重たいものをるような音、吸えない空気を吸い込むような音――。


 がしゃ、がしゃ。

 ずり、ずずり。

 ごおおおおおおおぉぉぉぉぉ……。


 毎晩、壁の向こうに聞いている音が、一、二、三、四、五……。

 十以上――!

 桂は笛のように鳴る喉を無視して、速度を上げる。


 既に死に、肉もちかけている屍者には、刀も銃も効かない。

 屍者の動きを永久に止めるには、鉄の縄で縛って油をき、骨だけになるまで燃やすほかないが、これは素人しろうとにできることではない。

 屍者は逃げ場のないところで日光に当たれば一時的に動かなくなるが、日に当たっていても、生きた人間に下手に手を出されれば反撃するし、夜になれば、何事も無かったかのように再び動き出す。それに、今は日が昇るまで待っている余裕はない。


 屍者の体液に高熱を引き起こす以外の害は無いものの、屍者の筋力は驚くほど強い。囲まれて襲われれば、確実に怪我をする。それによって重傷者や死人が出たという話は聞いたことが無いが、紫音と桂がその最初の例になるかもしれない。

 それに、紫音には、痛くて苦しい思いをしてほしくない。


「ああああああああああああああああああ!」

 桂は吠え、更に速度を上げた。

「きゃあーーーーーーーーーーーはははははあーーーーーーーっ!」

 紫音が後ろで笑っている。

 ああ、笑っていてくれ。

 俺が、桂兄ちゃんが、走るから――。


「あっ……!」

 声を上げて咄嗟とっさに急停止した桂の足の裏で、長旅用の草鞋わらじわらが数本、ぶちぶちと音を立てて切れる。

 しまった。


 屍者、が――。


 前方の木々の間から、重い丸太のように転がり出てきたそれは、腐った肉が絡まった首をひねり、乾燥した髪が蜘蛛くもの巣のように張り付いた頭を上げて、こちらを見ている。

 桂が、本物の屍者を間近に見るのは初めてだった。

 黒ずんだ頭蓋骨とうがいこつに、溶けかかったような肉がぶら下がった、顔とも言えない顔が、笑う――。


 ――まだ、戻れば……!

 桂は荷物の横から顔を出し、背後を振り返る。

 ――無理だ。

 荷車の後ろには、前方よりももっと多くの屍者が付いてきている。左右の林からも――。

 ――進むしかない。

 屍者の一人くらい、踏み潰してやる。


「おおおおおおおおおお!」

 桂はまた吠えて、地面を這いずる屍者に突進した。

 ――屍者が、血の色の歯を見せて笑う。


「うぐあぁ!」

 何者かに足を掴まれた桂は、腹から地面に倒れる。

 何故?

 桂はまだ、屍者がいる場所まで行っていないのに。

 ――前方にいた屍者の姿が無い。力は強くとも動きは遅いものだと思っていたが、速く動くこともあるらしい。

 桂はそれが分かっても、どうすることもできない。飛びかかってきた屍者が、桂の脚を握り潰すほどの力で掴みながらのぼってきて、大柄おおがらな桂を簡単に押し倒す。


「クソっ! 離せ!」

 桂は怒鳴り、暴れるが、屍者の手は腐っているのにはがねのように固く、桂が掴んでも叩いても、外れる気配がない。屍者は桂の抵抗など無いかのように、桂の腰を掴んで、ずるずると顔の方へ這ってくる。

 屍者の身体は人形のように軽いのに、その筋力のせいか、思い切り蹴り飛ばしてみても手応てごたえすら無い。


 桂が藻掻もがいている間にも、無数の屍者たちがずるずると這い寄ってきているのが分かる。

「紫音! 先に行け!」

 桂は屍者の脇腹の下から、見えない紫音に向かって叫んだ。

 日が昇ったら、屍者は闇へと帰っていく。そうしたら、桂は熱を出すかもしれないが、怪我をしているかもしれないが、きっと生きて紫音の元へ帰れる。

「紫音! このまま走れ! すぐ町に出る! 建物に逃げ込め!」

 治安の悪い世の中だが、十歳かそこらの子供ならば受け入れてくれる人がいるはずだ。――その親切な人には大変な迷惑をかけることになるが。


「紫音……!」

 荷車の下を這ってきた屍者が、すでに動けない桂の髪を掴む。

「紫音! おい! 話を聞け!」

 桂は屍者の手に拘束され、頭を揺さぶられて髪を引き抜かれながら、何度も紫音を呼ぶが――。

 何故か、紫音の返事が無い。

 紫音はとても我儘わがままだが、だからこそ、嫌なら嫌と言うのに――。

 まさか。


「紫音! し」

 そこで桂の声は止まった。

 桂を掴む屍者の手は、四つから八つにまで増えていた。

 そのうちの二つが、桂の首をめたのだった。


 紫音。

 走れ。

 行ってくれ。

 生きてくれ。

 お願いだ。

 紫音。

 生きろ。

 かすむ意識の中で桂が祈るのは、それだけだった。

 頼む、紫音――。


「桂兄ちゃん! 目と口閉じて、息止めて!」

 桂は紫音の声に従い、目と口を閉じた。

 ――息は既に止まっている。

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屍んだ世界にしあわせの毒薬を 柿月籠野(カキヅキコモノ) @komo_yukihara

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