第四話 退去願

「ただいまー」

 まだ太陽の色が白いとき、桂はへどろを吸って重くなった服を引き摺りながら、玄関の引き戸に手を掛ける。


 桂は日雇いの水路掃除の仕事に行く前に、紫音から何とかして『膝の皿がでっかくなっちゃう毒薬』の解毒剤を奪い取ることに成功し、膝の皿は無事に元の大きさに戻ったものの、伸びきった膝の皮はなかなか戻らず、仕事中にあちこち引っ掛かるので大変わずらわしかった。

 そのうえ、水路の脇の雑草を一山分刈るたびに、水路に詰まった生ごみと糞尿を洗濯盥せんたくだらい一杯分すくす度に、いつの間にかするする伸びてへどろに浸かる髪と体毛を、鎌で刈らなければならなかった。

 この二重の鬱陶うっとうしさを表現するには、この島国の土地を全て覆い尽くすほどの大きさの芸術作品を完成させる必要がある。


 だが――。


 桂は、朝に悪戯をされて、その名残なごりたずさえたまま仕事へ行くと、仕事中も紫音が隣にいるようで何だかほっとす――

「桂兄ちゃん見てえ!」

 玄関の引き戸が、桂が開けきらないうちに向こう側から勢いよく開いたので、桂は二枚の扉の間に思い切り指を挟むが、紫音は構わず何かを桂の顔面に押し付ける。

「なんか届いたー!」


「近い! 近い近い! 見えねえ!」

 紫音は桂の反応を面白がってきゃっきゃと笑うと、今度は畳の間にんで上がり、しゃかしゃかと走っていって、毒薬部屋に繋がる廊下の角まで行き、そこで手に持った何かを頭上に高々たかだかかかげる。

「遠い遠い! 見えねえ!」

 すると紫音はまたこちらに走ってきて、桂の顔に何かを叩き付ける。

「近い近い!」

 紫音は桂がいちいち突っ込むのに大喜びして、何かを手に持ったまま、桂の顔面と廊下の角とを何往復もする。

 ――と、子供らしい悪戯はここまでである。


「じゃあ桂兄ちゃん、目がとーっても良くなっちゃう毒薬をあげようか? その代わり、眼球が二つとも西瓜すいかぐらいの大きさになるから、今後一生まばたきをすることができなくなるけど!」

 言いつつ紫音はもう、桂の眼前で謎の小瓶の栓を抜いているので、桂は大人の脚の長さを生かして全力で逃げる。


 桂が、襲い来る毒薬の雨を躱し、隙をついてやっと紫音を捕獲すると、その服と身体は桂に負けず劣らず汚れている。そしてその汚い手には、折り畳まれた書簡しょかんが握られている。

 書簡は毒薬やら何やらに加え、桂の顔に付いていた泥と汗でも汚れていたが、表に書いてある文字はかろうじて読み取れた。


   退去願


「またか!」

 ――桂は、声を上げて笑った。

 弟が家を爆破するせいで一か月ごとに引っ越しを繰り返す人生など、愉快ゆかい以外の何物でもない。


「タイキョー!」

 桂が文字を見た隙に逃げ出した紫音は、書簡をびりびりに引き裂きながら、家中をまわる。

 その家は度重たびかさなる爆破等のせいで、廃墟の中でも何か良からぬことが起こった廃墟にしか見えなくなっているし、今は壁、床、天井の全面に、さっきの騒動で紫音がぶちまけた牛頭蛞蝓ごずなめくじの発酵死体の濃縮汁が、しっかりと染み込んでいる。

 ――腐った生魚を間違えて握り潰したときのにおいがする。


「タイキョタイキョタイキョーっ!」

 紫音が千切ちぎってばらく退去願が、壁と床と天井の蛞蝓汁なめくじじるに貼り付く。漆黒しっこくの蛞蝓汁から出た黄褐色きかっしょくの液体が、紙に染み込んで墨の文字にまで到達すると、蚊の妖怪がすすくような音を立てて薄桃色の煙を発し始める。

 ――町外まちはずれのり式便所の糞溜くそだめに一輪咲いた花の香りがする。


「こら紫音、あんまり暴れるな」

 桂は畳の無事なところを探して歩き出しつつ、説教をする。

「風呂行って飯食ったら、今日はもう寝るぞ。明日から片付けすっから、体力残しとけ」

 こう言っても紫音が聞くはずがないので、桂は山食やまぐいごきぶりの体液か何かでぬるぬるする紫音の首根っこを捕まえて、町の風呂屋へ引っ張っていく。


 もうじき、日が沈む。

 急がねばならない。

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