第三話 膝蓋骨張大毒薬

「まったく……」

 桂は、本日二度目の水浴びを終えた紫音の目頭めがしらに残っている謎の粉を、帯にげた手拭てぬぐいで拭く。――そして、その手拭いをすぐさま念入りに洗う。

 まだ朝飯も食っていないのにこの騒ぎとは、呆れたものである。


「ね、桂兄ちゃん、ご飯なに? 美味おいしいの?」

 顔を拭いてもらった紫音が、服の前をぴらぴらさせたまま土間をうろちょろするので、桂は捕まえて付紐を結んでやりつつ、「ご飯と味噌汁と芋の煮物」と答える。

 紫音は当然「飽きたぁー」と嘆きながらも、朝からたっぷり騒いで腹が減っているので、蛞蝓なめくじのようにぐねぐねと這ってたたみへ上がる。


 ごめんな、うち、貧乏で。

 その言葉は、一度言ったきり、胸の奥に仕舞しまっている。

 何故なぜなら、桂がこれを言うと、紫音が酷く悲しそうな顔をするからだ。

 しかし、その悲しさは、桂が想像しる悲しさとは何かが違っているようで――。


 ともかく桂は、紫音はその話をしてほしくないのだと理解した。


 それでも、桂は考えてしまう。

 自分がもっと稼ぐことができたら、紫音に美味うまい飯を食わせてやれるのに。今は草むらをあさったり、革屋のゴミをもらってきたりして集めている毒薬の材料だって、もっと充実させてやれるのに。

 だが、何の才も無い日雇ひやといの青二才と、ざかりの男児の二人暮らしでは、これが限界なのだ。

 しかし、もっと稼げたら――。

 ――いや、考えていても仕方ない。


 桂は、いつもの中途半端な長さの髪を結び直そうとし、った束子たわしのような毛の上で手を滑らせて、溜息を吐く。

 やはり、紫音の実験台になるのはごめんだ。

 桂は視界の端で紫音の動きを監視しつつ、盛り付けの途中だった料理を仕上げて、畳の間に二人分のぜんを準備する――。


「ほら紫音、座れー」

 畳の間のすみで芋虫のようにもぞもぞしている紫音を呼ぶと、紫音は芋虫のままごろごろと転がってくる。

「熱いぞ。こぼすなよ」

 紫音がそのまま、食事をせた膳をたおそうとするので、桂は安全のため、芋虫の回転を強制的に手で止める。


「はい座る」

 桂は紫音の脇の下に両手を入れて吊り上げ、紙のように薄い座布団に座らせる。紫音の正座はべちゃんと不恰好ぶかっこうに潰れているが、これは何度教えても直らない。

 桂は紫音を所定の位置につかせると、自分も紫音の前の座布団に移動し、すそさばいて正座をして、手を合わせる。

「いただきます」

 紫音のせいで、今朝も時間が無い。

「いただきまぁす……」

 紫音は兄と一緒に手を合わせ、だらだらと食前の挨拶を言うが、挨拶を終えるとぱっと箸を取り、下手へたくそな持ち方に握って、わしわしと米を食い始めるのであった。


美味うまいか」

「うん」

 毎日同じような食事に飽き飽きしているうえ、毒薬のことで頭が一杯の紫音の返事は、いつも通り退屈そうだ。

「そうか」

 返ってくるのは毎度同じ返事だと分かっているが、桂は紫音のわんぱくな食い方が何だか好きなので、ついついいてしまう。

 しかし、いつまでも弟を眺めているわけにはいかない。

 目の前で米をむ紫音と共に、桂もいつも通りの単調な食事を美味おいしく頂く。


 米は古いが、炊き方は悪くない。いや、もう少し水が多くても良かったか。紫音は米が固いと残す。

 芋も悪くない。紫音のせいで煮汁にかっている時間が長かったからか、味がよくみている。多めに作っておいて良かった。紫音のおやつと、夕飯にもしよう。

 味噌汁の具は、紫音に教わった食べられる雑草のみだが、これもなかなかいける。ただ、草が少し成長しすぎていたのか、いつもよりすじが多い。これでは紫音が食べにくいだろうから、次はもっと若い株にするか、筋を取って使おう――。

「ん?」

 桂は不意に襲った下半身の重みに、声を漏らす。


 ……まさか。

 桂は口の中の味噌汁を飲み込むのも忘れ、恐る恐る下を見る。

「ぶっ」

 桂は目に入った光景に、味噌汁を紫音の顔面に向かって思い切り吹き出す。

 その味噌汁を華麗にかわした紫音は、手に持った茶碗から箸でちまちまと米をすくいながら、くっくっと喉の奥で笑い始める。


「なっ、何しやがった紫音!」

 桂は慌てて箸とわんを置き、服の前を掴むが、下半身の重みは増すばかりである。

 桂は毎日、もちろん今日だって、料理中は特に紫音の動きから目を離さないようにしているのに――。

「ぐへへへへ……。『アソコ』が大きくなる毒薬だよぉ……。うひゃひゃひゃ……」

 紫音は桂の下半身を上目遣うわめづかいに観察しながら、あふるほどの邪気に満ちた顔と声で笑う。


「んなもん! どうやって!」

 心当たりがあるとすれば、紫音の顔に付いていた粉か、味噌汁に入れた草――?

 だが、それならば、桂だけがこうなっているのはおかしい。紫音はぴんぴんしているどころか元気が増しているのに、桂は下半身の重みのせいで、もはや立ち上がることはおろか、正座をしたひざを崩すことすらできない。

「ぐっへへへへ……」

 紫音は膨れ上がる桂の服の裾を、三日月形にゆがんだ目で見ながら、一層不気味ぶきみな笑い声を上げる。


「いやあ、偶々たまたまだよ、偶々。偶々、桂兄ちゃんのお椀を毒薬作りに使って、洗い忘れちゃったんだよぉ。ぐひゃひゃひゃひゃ……」

 椀……!

 桂は記憶を辿たどるが、椀に何か付いていたかどうかなど思い出せない。それも当然。気付いていれば、このような事態になる前に椀を徹底的に洗っていた。

「年頃の男の人はみーんな、おっきいアソコが欲しいんでしょお?」

 紫音はにたにた笑いながら、桂に見せつけるように、自分の椀から安全な味噌汁をすする。吊り上がった紫音の唇で味噌汁がじゅるじゅる鳴る音が、桂の神経の上を、軽快な歩調で踊りながら楽しく行進していく。


「クッソ、やりやがったな!」

 桂は悪態をきつつも、おろかな自分を呪う。毎日使って洗っている椀だからといって、油断してはならないのに――。

 ……それにしても。


 巨大なが欲しい奴が、どこにいる!


「しおおおおおおおおおおおおおおん!」

 紫音は、二枚のそりのように広がった膝をって向かってくる桂から逃げ回りながら、ぐひゃぐひゃと笑い転げた。

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