第3話 水音
翌日,少年は約束の場所へと向かった.髪に絡む風が少し軽く感じられた.少女は既に来ていて,今日は橋の下の岩場に腰かけていた.スケッチブックを広げ,鉛筆を走らせている.その姿を眺めていると,いつもの曇った視界が少しずつ晴れていくような気がした.
「昨日とは違う場所から描いてるの」
少年が近づくと,少女は嬉しそうに説明を始めた.「ここから見上げると,橋が空に浮かんでいるみたい」
確かに,渓流の水しぶきと木漏れ日の間から見上げる橋は,まるで天空の通路のように見えた.少年の瞳に映る世界が,一瞬だけ鮮やかな色を帯びる.
その日から,少年は毎日のように鉄橋へ通うようになった.両親は民宿での夕食までに戻ってくればと,少年の外出を特に制限しなかった.日に日に,少年の歩みは軽やかになっていった.まるで長い冬の眠りから目覚めた生き物のように,体の中の何かが少しずつ温かみを帯びていく.
三日目,少女は橋の上で絵を描いていた.夏の陽射しが少女の黒髪に降り注ぎ,そこだけ時間が緩やかに流れているかのようだった.
「この橋ができる前は,人々は渓流を渡るのに命がけだったんだって」
スケッチの手を止めて,少女は語り出した.「おじいちゃんから聞いた話.でも,この橋ができてからは,向こう岸の村まで自由に行き来できるようになったの」
少年は欄干に腰かけ,遠くを見つめた.深い谷を跨ぐ赤い橋は,確かに人々の暮らしを大きく変えただろう.あの日々の少年もまた,この橋によって何かが変わろうとしていた.
四日目は雨だった.普段なら部屋に籠もっていたはずの少年は,迷いもなく傘を手に取っていた.案の定,少女は雨の中でスケッチをしていた.
「こんな日に来るなんて」少女は驚いた様子だった.その声に,かすかな喜びが混ざっているように聞こえた.
「君が言ってたから.雨の日の橋が見たくて」
二人は傘を寄せ合い,しっとりと艶めく赤い橋を眺めた.普段は賑やかな渓流の音も,雨音に溶け込んでしまったかのように静かだった.少年の心には,これまで感じたことのない温かな静けさが広がっていた.
五日目,少女は珍しく絵を描いていなかった.空気が違うことに気づいた少年の心に,初めて不安が忍び寄る.
「明日,引っ越すの」
突然の言葉に,少年は返事ができなかった.光が急に失われたような感覚が全身を包む.
「おじいちゃんの具合が悪くなって,都会の病院の近くに引っ越すことになったの」
少女は膝を抱えるようにして座っていた.「だから今日は,絵じゃなくて,この景色をちゃんと覚えておきたいの」
その横顔は,夕陽に溶けそうなほど儚かった.
夕暮れが近づき,二人は別れる時間となった.少年の視界が,また少しずつ曇り始めている.
「明日も来るの?」少年が聞いた.自分の声が,遠くで誰かが話しているように聞こえた.
少女は曖昧に微笑んだ.「もし来られたら,最後の絵を見せるね」
その笑顔が,夕陽に溶けていくような気がした.
しかし六日目,少女は来なかった.少年は日が暮れるまで待った.渓流の音だけが,いつものように響いていた.スケッチブックも,絵も,約束も,何も残されていなかった.ただ,赤い鉄橋だけが,変わらない姿で佇んでいた.少年の視界は完全に霞み,それが涙なのか,いつもの曇りなのか,もはや区別がつかなかった.
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