第2話 逆光
車の辿った細い道を辿っていくと,先ほどの渓流の音が聞こえてきた.足を進めるごとに音は大きくなり,やがて鮮やかな緋色が見えてきた.夕陽に染まる赤い鉄橋は,まるで空から吊り下げられた帯のように,渓谷の空を横切っていた.
橋の手前まで来ると,ふと人の気配を感じた.橋の向こう側に,誰かが座っているのが見えた.西日を背に座る人影は,まるで光を纏ったように輝いている.その姿は夕陽に溶け込み,輪郭だけが金色に縁取られていた.
近づいてみると,それは少年とさほど歳の変わらない少女だった.白いワンピースが風に揺られ,長い黒髪が逆光に透けて見える.スケッチブックを膝に載せ,橋の欄干に寄り掛かるようにして腰を下ろしている.鉛筆を走らせる手つきには,何か切迫したものが感じられた.しかし,その印象は夕陽の眩しさの中にすぐに溶けていった.
少年の足音に気付いたのか,少女はふと顔を上げた.逆光のため,最初は表情がよく見えない.だが少女が少し体を傾けた時,夕陽が横から差し込み,その横顔が浮かび上がった.琥珀色の瞳が,夕陽を受けて輝いている.
「こんにちは」
少女が先に口を開いた.柔らかな声が,渓流の音に溶け込んでいく.
「よく来るの?この橋に」
「今日初めて見つけたんだ」
少年は首を振った.そのとき一瞬,少女の笑顔の影に何かが見えたような気がした.しかし,次の瞬間に少女が身を乗り出すように話し始めると,その印象は霧のように消えていった.
「私は毎日来てるの.この橋を描きに」
少女はスケッチブックをめくり始めた.そこには,赤い鉄橋の姿が何枚も描かれていた.七月の初めから,毎日欠かさず描かれた橋の姿.どの絵も丁寧に,しかし同じものは一つとしてない.角度も光の具合も,その時々で違っている.少年は次第に絵の説明に聞き入っていった.
「この橋ってね,見る度に違って見えるの」
少女は熱心に語り出した.光に透ける髪の間から覗く表情は,純粋な喜びに満ちている.
「朝日を受けると希望に満ちた赤になって,お昼は強い意志を感じる赤になって,夕方はちょっと切ない赤になるの。それに、雨の日は濡れた鉄がしっとりと艶めいて,霧の日は幻のように浮かんで見える」
そう言いながら,少女は自分の描いた絵をなぞるように指でなぞった.彼は,少女の語る橋の色彩の変化や,その瑞々しい感性にすっかり魅了されていた.
「夏の終わりの赤が一番好きかも」
少女はふと呟くように言った.その声の調子が急に沈んだことにも,少年は気付かなかった.夕陽に縁取られた少女の姿と,橋についての饒舌な語りが,彼の心をすっかり満たしていた.
夕陽が橋を真っ赤に染め上げる.少女の姿は次第に光の中に溶けていくようだった.スケッチブックを閉じる音が響く。少女はほっとため息をついて
「ねえ,明日も来る?私の絵,もっと見せるから」
少女の声に,少年は自然と頷いていた.初めて出会った誰かと,こんなに長く話をしたことがなかった.いつもの視界の曇りが,不思議と晴れているような気がした.
「じゃあ,また明日」
少女は満面の笑顔で手を振った.
「明日は朝から来てるから,早く来てね」
その背中を見送りながら,少年は心が軽くなっているのを感じていた.逆光の中で光り輝くように見えた少女の第一印象が,まるで予感のように心に残っている.彼の視界は,久しぶりに澄み切っていた.
「橋って,見る度に違って見えるの」
少女は語り出した.「朝の光,昼の陽射し,夕暮れ時...同じ場所から見ても,空の色が変われば橋の赤も変わる.」
少年は黙って聞いていた.少女の言葉は,自分が普段から感じているような,あの捉えどころのない何かに似ていた.
「ねえ」と少女が言った.「明日も来る?私の絵,見せるから」
少年は頷いた.夕暮れの空が少しずつ色を変えていく中,二人は静かに佇んでいた.渓流の音が,まるで時を刻むように響いていた.
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