赤とスケッチ

うるさいマイク

第1話 赤い鉄橋


 秋の彼岸は残暑に消えて,なお蚊の交う日々である.男は縁側に出て手にした蚊取り線香を置いた.風鈴がコロンと音を立てる.いまだ夏の湿気を含んだけだるい風は屋敷の中を気だるげに漂う.男はゆっくりと屈みながら線香に火を点けた.


 うねうねとした晩夏の気怠い風は線香のか細くたつ煙と交絡して,くれ縁をかつての空気へと作り替えていく.男は静かに腰を下ろすと煙がかすかに揺れ動く.男は線香との無言のやり取りにふっと笑み瞼を閉じる.庭には暑さに参った紫苑の花が簾のうちに移されのんびりと咲いている.


 男の少年時代はまさに晩夏の風であった.光にうっすらと透ける淡い栗色の髪が大きな瞳を遮り,ちらちらとした視界の中にあった少年は,いつも遠くを見つめているようで,どこも見ていないようで,とらえようのない何かを探しているかのように過ごしていた.


 今では男は何を探していたのかを理解できる.しかし自覚したことのない少年にはまだそれを見つけることもなく,探していることに気づくこともなくただ日々をつぶして生きてきたのであった.


 蚊の落ちる音がした.男は目を開いて蚊のゆっくりと死に絶えるさまを眺める.両親が死んでわがものとなったかつての棲家は,独身の男には少し手広いものだ.しかし,すっと伸びたくれ縁の上で蚊と二人たたずむ男は夏の湿気となつかしさに満たされたこの空間が今は何故か丁度よく心地よかったのだ.少年時代には寂寥感しか感じえなかったこの空間に和んでいると,またしても線香の煙が男をあの夏の日の少年へと連れ戻していくのであった.


 なぜ行くことになったか,男も忘れてしまったがある夏の日,少年は父の運転する車に乗せられてある田舎の民宿へと向かうこととなった.うすぼんやりとした視界は助手席の母が父に話しかけているところをとらえた.時折こちらへと向く会話の矛先を生返事でいなしながら,少年は開け放たれた窓の外へと目を向けるのであった.


 やがて道は渓流を沿うようになった.窓からはひやりとした空気が流れ込み,両親の会話もとぎれとぎれとなった.窓からは岩肌の無機質な灰色が生々しく削られ,自然の厳しさを物語っているかのようだ。周囲の木々は影のように立ち尽くし、霧がかかった山々は淡いシルエットとなって遠くに広がり、全体が静寂に包まれている。まるで時間が止まったかのような、無表情な世界が広がっていた。


 その時、ふと目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤い鉄橋だった。周囲の色彩が抑えられた中で、まるで異次元から現れたかのように、その橋は目を引いたのだ。緋色の鉄骨が、青空を背景に力強くそびえ立ち、優雅なアーチで渓流の流れをまたいでいた。橋の表面は、日差しを受けて輝き、まるで生きているかのように躍動感を放っていた。静寂の中に響く水の音に鮮やかな赤い鉄橋の存在が、少年の心に強い印象を残した。


民宿に着いてからも,少年の心には赤い鉄橋が焼き付いていた.夕暮れ時,両親が休憩をとっている間に,少年は民宿の外へと足を向けた.「あまり遠くへは行かないように」という母の声を背に,山道を歩き始める.

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