夢縛り

かしもこしあん

夢縛り

 意思に反して体が動かなかったことはあるだろうか。

 私は幸いにも実際に体験したことはないが、夢の中ではしばしばそういうことがあった。人を食う巨人から逃げている最中にすっかり足に力が入らなくなったり、あるいはついさっきまで空を飛べていたのが、同じように力を込めてもどうしてか浮き上がれなくなったり、そんなときの焦りと絶望はなかなかのもので、大抵はすぐに目が覚めて、冷や汗の不快感から一日を始めることになる。


 今でも詳細に思い出せるのは、それほど強烈な体験だったから――というより、単に夢日記が残っているおかげだ。

 当時大学生だった私は、不規則な生活のせいか頻繁に夢を見るようになって、明晰夢に興味を抱いていた。明晰夢とは夢であることを自覚しながら見る夢のことで、内容を自分の思い通りにできると言われている。

 パッとしない現実を過ごしていた私にとって正に夢のような話で、これに飛びつかないわけもなく、あんなことやこんなことを夢見ることを夢見て、会得に乗り出したというわけだ。夢日記をつけていたのもその一環である。

 夢日記のおかげで同じ舞台の夢が増え、どうやら疲れた状態で時間をずらして眠ることで眠りが浅くなり、高確率で明晰夢が見られるようだとわかってきた頃のことだった。


 その日もまた夢を見た。

 まだ視界は暗く、天井はほとんど見えない。覚えているうちに内容を書き留めなければ、と枕元のスマホに手を伸ばした――つもりだったが、左手には相変わらず布団の重みがある。違和感を覚えつつ、分厚い布団をはねのけていっそ起き上がってしまおうと上半身に力を入れるが、やはり動かない。


 ……これがいわゆる金縛りというやつだろうか。

 私は混乱しつつも興奮していた。金縛りに遭うのは初めてで、身体のあちこちに力を込めてはピクリとも動かないことを確認して、この奇妙な状況を楽しんだ。

 しかしそれも長くは続かず、金縛りがいつまで続くのかという疑問が頭をもたげてくる。


 刺激がほとんどないせいで時間は遅々として進まない。私が痺れを切らして無理やり起きようともがき出すまでに、実際は目覚めて5分と経っていなかっただろう。

 正確には、もがくというより、もがこうと懸命に念じているのだが、私はそこで手の感覚が比較的はっきりしていることに思い当たり、そこを起点に身体全体の制御を取り戻そうと考えた。

 布団の重みがかかる左手、そして毛布の柔らかい感触を伝える指先に意識を集中させ、

(動け……!)

と強く念じながらそこに思い切り力を込める。


 動いた、気がした。もう一度試すと、やはり指が曲がった。

 この小さな成功を受けてどっと緊張が和らぐのを感じた。どうやら思った以上に私の精神は追い詰められていたらしい。次の段階に移行する。


 ――動かない。力を込めた手のひら全体はおろか、指の一本も動かない。

 何度やっても、左手はぷっつりと何の反応も示さなくなってしまった。膨れ上がる不安をかき消すように、ぐんと強く念じてようやく、再び指を動かすことに成功した。

 その動きをなぞって、またなぞる。思考をまとめる間もそうやって指先だけ絶え間なく動かし続けた。一瞬でも気を抜けば意識と身体をつなぐ回路が切れて、振り出しに戻ってしまうような気がしていた。

 であれば短期決戦しかない、と考えた私は、指先から手のひら、肘へと、それぞれ幾度か反復して動く感覚を叩き込みつつ、少しでも意識が緩みかければ念じ直して、迅速に動かす部位を広げていった。


 そしてついに私は左腕で布団に渾身の一撃を与えた。

 布団は左半分が一時的に捲れ上がっただけだったが、それで十分だった。大きな刺激で体全体が一気に覚醒に近付いたと感じた私は、すかさず右腕も使って今度こそ完全に布団を撥ね飛ばし、そのまま起き上がることができた。


 スマホを手に取り、メモ帳を開いたところで何かおかしいと感じた。画面がぼやけているし、スマホを持つ手の感覚が鈍い。いや、それどころか全身が妙に……

 あれっと感じた次の瞬間には、私は寝台の上に寝ていた。


 そう、私はおそらく完全には目覚めておらず、強く念じるあまり「金縛りが解ける」夢を見たのだ。どこからが夢だったのか、思い返せば指先すら本当は動かせていなかったような気もしてくる。さらに言えば、今おぼろげに見えている天井が現実か夢かもわからないのだ。あるいは天井ですらなく、瞼の裏かもしれない。

 そのことに思い至った私は、流石に空恐ろしくなってきて、もはや金縛りを解く気力もなく、あとはぼうっと脱力していたのだった。

 しばらくして、今度こそ本当の目覚めが訪れ、身体がきちんと動いたときには、心底ほっとしたものだ。スマホのメモ帳には、やはり何も書き込まれていなかった。


 あれは一種の明晰夢にして、夢中夢でもあったのかもしれない。

 昼夜逆転したあげく、夢と現までも転倒させようとした自堕落に罰が当たったのだろうか。

 それでも、また生活が荒んできた折には、またあの夢現の牢獄に身も心も囚われてみたいと思って、夢日記だけは今でもつけている私である。

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