西荻窪駅前の伏見通り商店街はいつだって狭い。商店街には新興宗教と骨董品屋と古書店がひしめき合っている。

 八百屋と小さなビルの間には、道路に面して鳥居が立っている。伏見稲荷神社という小さな神社だ。祠の前にも鳥居があるが、小さくて、窮屈そうにすぼんで立っている。

 そうそう。さっきの八百屋では茹で卵(蒸し卵?)が売られていて、これはおれのひそかな好物だ。八百屋の店先では猫が昼寝していることもある。

 野良猫は商店街のそこかしこにいる。道幅の狭い道路を、バスがのろのろと進んでいく。

 午後三時五分。人通りも多くなる。自転車で走り抜けるのもひと苦労だ。道を抜けるだけで気が滅入る。


 駅前の小さなバスロータリー、そして交差点を抜けて、線路沿いに東へ進む。西荻平和通り。角のパチンコ屋は釘をいじっていると評判だ。

 高架下沿いには、雨に汚れ、風で傷んだテント屋根が並ぶ。「新鮮な果実」「諸諸缶詰」と看板を掲げている果物屋に、金魚や鯉の水槽が店頭に並んだ観賞魚の専門店などが店を構えている。いわば、昭和の残り香だ。

 十字路が見えてきたので北へ進む。高架をくぐる。材木屋がある角でまた曲がり、線路沿いにひたすらまっすぐ進む。住宅地エリアに入る。特に惹かれるものもなく、気が散るものもない。おれは考えることに集中した。


 まっさきに今押さえておくべきこと。

 どんな依頼をこなすにしても、まず押さえるべきはそこだ。騙し討ちはされたくない。

 答え。おれは少々まずい状況にある。

 理由。うさんくさいフロッピーが二枚、おれの手元にあるから。

 片方のフロッピーには、見ているだけで気分が滅入ってくるような写真。もう片方には男の名前がずらっと並んだ名簿。しかも、名簿にはニュース番組や新聞で見かける名前が、肩書きとセットで載っていた。――そこからの連想はシンプルだ。クズなおっさん相手に稼いでいるゲスい奴らの姿がちらついて見える。このフロッピーはそいつらから流出しちゃったものだ。だから、おれがフロッピーを持っているという今の状況はあまりよろしくない。持っていることを知られてはならない。


 また十字路。車をやりすごして、ペダルを蹴り出す。

 ゆるやかな坂をくだっていく。ピザ屋のバイクとすれ違う。おれはなぜか会釈してしまう。ピザ屋のバイトは戸惑ったような表情を見せる。

 やがて橋が見えてくる。昨日降った雨のせいか、善福寺川はやや濁っている。おだやかな風ががさつな川の匂いを運んでくる。


 考えごとに戻る。次の議題。

 六万円もらえる。報酬は裏切らない。ただ、フロッピーディスクはおれを裏切るかもしれない。だが、依頼に従ってヒラタナオに渡してしまえば、おれの手元からはなくなる。おれは安全圏に入ることができる。

 結論は出た。ヒラタナオを見つけ出して、すぐにフロッピーを彼女に渡すべきだ。フロッピーの中身を見た今だからこそ、なおさらそういう判断になる。


 川沿いを進み、蕎麦屋の前を通り過ぎる。せいろ蕎麦をわさびだけで食べたい。たまにネギと一緒に食べたりしてね。つゆはいらない。鼻に抜けていくわさびの香り。そして、後から追いかけてくる蕎麦の風味。それだけでいい……なんて、油断していたら、T字路にさしかかる。右に曲がり、二つめの十字路をまた右に進む。


 次の議題。

 連絡がとれなくなったら、このフロッピーを自分のもとに届けてくれ――ヒラタナオはチバトモにそう頼んだ。

 フロッピーの中身は、組織的な売春に関する証拠だ。学生証には、吉祥寺周辺にある学校の名前が書かれていた。姫亜が言っていた「中学生による売春」に繋がるものだろう。

 これを警察に差し出すのではなく、自分の手元に届けてほしいとヒラタナオは要求している。自分が窮状に立たされたら、自分を探し出して渡してほしいと願っている。

 つまり、ヒラタナオは、自身が現在抱えているトラブルを打破するには、このフロッピーが必要だと考えている。売春の証拠となるデータを、彼女は警察以外のどこかに差し出そうとしている。そうすることで、トラブっている相手を排除できると思っている。

 以上が、例のフロッピーからおれが組み立てた憶測だ。当て推量ってやつだ。でもこれはホームズの小説なんかじゃないから、決めつけでもいいだろう。


 気になるのは、ヒラタナオが取ろうとしている行動だ。ゲスを排除するために、別のゲスに頼ろうとしている可能性すらある。

 おせっかいでしかないし、報酬と釣り合っていないのはわかっている。だが、ヒラタナオを見つけ出したら話し合う必要があるかもしれない。


 一旦、自転車を降りる。細い道を自転車に乗ったまま走るのは、さすがに気が引けた。自転車を押して歩く。梅の花が咲いている。買い物袋をさげたおばさんや、見るからに予備校生という感じの男たちとすれ違う。

 弘法大師と書かれた石碑が見える。環八通りと交差する高架橋を渡ると、荻窪駅はもうすぐだ。小さな商店街を抜けていく。


 次の議題。

 ヒラタナオが毎日通っているのは、荻窪周辺のパチスロ屋だ。ねぐらもその周辺にあると見てよいだろう。荻窪のパチスロ屋を虱潰しに探すのは当然として、家出少女に関する情報も探っておいた方がよいかもしれない。


 ルミネが見えてくる。荻窪駅北口は、下校途中の中高生で騒がしい。男は広末涼子ひろすえりようこの話をして、女の子はたまごっちの話をしている。

 バイパスの人混みをかわし、線路沿いの飲み屋街を進む。焼き鳥屋にラーメン屋。年季の入った、いい面構えの店が並んでいる。わずか二ブロックほど進むと、看板は少なくなり、ゴミ箱から弁当やカップ麺の容器が道路に溢れていた。

 そこから地下道へ。狭くて、急なスロープ。すなわち、南口への連絡口だ。

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